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一章
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「回り道をしてハイストリートのツリーを見てから帰ろう」
ヘンリーはそれだけ言うと、後は一言も口をきかずに飛鳥と肩を並べて歩きだした。
夜空には満月がぽっかりと浮かび、大聖堂の上方彼方から冴え冴えとした月光を降り注いでいる。
人通りもまばらになり、辺りを煌々と照らしていた店舗の明かりも絶え、ハイストリートの中央に置かれたツリーだけが、人々を見守るように小さな電飾を瞬かせている。
その下で、わずかに残る観客相手にクリスマス・キャロルが演奏されていた。
飛鳥は足を止めて、少し離れた場所でその歌声に耳を傾ける。
ヘンリーはその後方で、すでに閉店している店の壁にもたれて脱力していた。
向いのパブの扉が開かれ、店内の喧噪が流れ出る。と、同時に強い明かりがロールスクリーンの下ろされたショーウインドウに、飛鳥の漆黒の影をくっきりと刻んだ。身じろぎもせず、淋し気に佇むその頼りなげな影に、ヘンリーはそっと身を傾げて唇を落とした。唇に冷たい硬質のガラスを感じた時、影は消え、辺りはまた薄ぼんやりとした闇に戻っていた。
狂おしい衝動に駆られて、ヘンリーは、ツリーの前での演奏を終えて片付けようとしている男の前に歩み出た。
「リクエストを。『荒野のはてに』」
ポケットから五十ポンド札を取り出し、差し出している。男は首を振るとヘンリーの手を押し返し、自分のヴァイオリンを突きだした。
ヘンリーはそれを受け取って、クリスマス・キャロルを奏で始めた。
降り注ぐ月光のように冴え冴えと、それでいて柔らかく温もりのある音色に合わせて、その場にいた数人が歌い出す。帰り道を急ぐ人々も足を止めその歌声に加わっていく。隣接するパブからもバラバラと人が出てきて合唱に加わった。通りに神を称える歌声が満ち溢れ、さざ波のように広がっていた。
ヘンリーは二度繰り返し演奏し、人々の称賛と抱擁を微笑んで受け入れた。
「ありがとう。こいつからこんな音色が聴けるとは思わなかったよ」
男は自分のヴァイオリンを受け取りながら、恥ずかしそうに言った。
「いいヴァイオリンだ。英国製だね。僕のも英国製だよ」
「イタリア製じゃないのかい? あんたのなら、てっきりストラディバリウスかなんかかと……」
「まさか。イタリアのものは神経質で好きじゃないんだ。気心知れている相手が一番さ」
ヘンリーは、折りたたんだ五十ポンド札を男の胸ポケットに差し入れた。「ありがとう。神のご加護を」と、微笑んでその場を後にした。
「今までで一番感動したよ」
群衆から解放されたヘンリーに、飛鳥はやっと笑顔で告げる。
「ヘンリー、今日は本当にごめん。僕はどうかしていたんだ。きみに不愉快な想いをさせてしまって、本当に申し訳なかった」
「構わない。僕は逆に嬉しかったよ。やっときみの友人として認めてもらえた」
いつもと変わらない柔らかな優しい笑顔で応え、ヘンリーは飛鳥の髪を梳き上げるようにして頭を撫でた。
「大丈夫だよ。そんなにしょっちゅう熱を出したりしないよ」
飛鳥は口を尖らせてヘンリーを見上げる。
「じゃ、早く帰ろう。僕はまたお腹がすいてきたよ。寮まで競争するかい?」
ヘンリーはクスクス笑い、駆け出しながら、振り向いて掌を上に向けひらひらと誘うように促している。
「敵うわけないじゃないか!」
飛鳥も大声で言い返して、ヘンリーの後を追って冷たい煉瓦に覆われた街路に靴音を響かせた。
ヘンリーはそれだけ言うと、後は一言も口をきかずに飛鳥と肩を並べて歩きだした。
夜空には満月がぽっかりと浮かび、大聖堂の上方彼方から冴え冴えとした月光を降り注いでいる。
人通りもまばらになり、辺りを煌々と照らしていた店舗の明かりも絶え、ハイストリートの中央に置かれたツリーだけが、人々を見守るように小さな電飾を瞬かせている。
その下で、わずかに残る観客相手にクリスマス・キャロルが演奏されていた。
飛鳥は足を止めて、少し離れた場所でその歌声に耳を傾ける。
ヘンリーはその後方で、すでに閉店している店の壁にもたれて脱力していた。
向いのパブの扉が開かれ、店内の喧噪が流れ出る。と、同時に強い明かりがロールスクリーンの下ろされたショーウインドウに、飛鳥の漆黒の影をくっきりと刻んだ。身じろぎもせず、淋し気に佇むその頼りなげな影に、ヘンリーはそっと身を傾げて唇を落とした。唇に冷たい硬質のガラスを感じた時、影は消え、辺りはまた薄ぼんやりとした闇に戻っていた。
狂おしい衝動に駆られて、ヘンリーは、ツリーの前での演奏を終えて片付けようとしている男の前に歩み出た。
「リクエストを。『荒野のはてに』」
ポケットから五十ポンド札を取り出し、差し出している。男は首を振るとヘンリーの手を押し返し、自分のヴァイオリンを突きだした。
ヘンリーはそれを受け取って、クリスマス・キャロルを奏で始めた。
降り注ぐ月光のように冴え冴えと、それでいて柔らかく温もりのある音色に合わせて、その場にいた数人が歌い出す。帰り道を急ぐ人々も足を止めその歌声に加わっていく。隣接するパブからもバラバラと人が出てきて合唱に加わった。通りに神を称える歌声が満ち溢れ、さざ波のように広がっていた。
ヘンリーは二度繰り返し演奏し、人々の称賛と抱擁を微笑んで受け入れた。
「ありがとう。こいつからこんな音色が聴けるとは思わなかったよ」
男は自分のヴァイオリンを受け取りながら、恥ずかしそうに言った。
「いいヴァイオリンだ。英国製だね。僕のも英国製だよ」
「イタリア製じゃないのかい? あんたのなら、てっきりストラディバリウスかなんかかと……」
「まさか。イタリアのものは神経質で好きじゃないんだ。気心知れている相手が一番さ」
ヘンリーは、折りたたんだ五十ポンド札を男の胸ポケットに差し入れた。「ありがとう。神のご加護を」と、微笑んでその場を後にした。
「今までで一番感動したよ」
群衆から解放されたヘンリーに、飛鳥はやっと笑顔で告げる。
「ヘンリー、今日は本当にごめん。僕はどうかしていたんだ。きみに不愉快な想いをさせてしまって、本当に申し訳なかった」
「構わない。僕は逆に嬉しかったよ。やっときみの友人として認めてもらえた」
いつもと変わらない柔らかな優しい笑顔で応え、ヘンリーは飛鳥の髪を梳き上げるようにして頭を撫でた。
「大丈夫だよ。そんなにしょっちゅう熱を出したりしないよ」
飛鳥は口を尖らせてヘンリーを見上げる。
「じゃ、早く帰ろう。僕はまたお腹がすいてきたよ。寮まで競争するかい?」
ヘンリーはクスクス笑い、駆け出しながら、振り向いて掌を上に向けひらひらと誘うように促している。
「敵うわけないじゃないか!」
飛鳥も大声で言い返して、ヘンリーの後を追って冷たい煉瓦に覆われた街路に靴音を響かせた。
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