胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
36 / 758
一章

しおりを挟む
 「回り道をしてハイストリートのツリーを見てから帰ろう」
 ヘンリーはそれだけ言うと、後は一言も口をきかずに飛鳥と肩を並べて歩きだした。

 夜空には満月がぽっかりと浮かび、大聖堂の上方彼方から冴え冴えとした月光を降り注いでいる。
 人通りもまばらになり、辺りを煌々と照らしていた店舗の明かりも絶え、ハイストリートの中央に置かれたツリーだけが、人々を見守るように小さな電飾を瞬かせている。
 その下で、わずかに残る観客相手にクリスマス・キャロルが演奏されていた。


 飛鳥は足を止めて、少し離れた場所でその歌声に耳を傾ける。
 ヘンリーはその後方で、すでに閉店している店の壁にもたれて脱力していた。

 向いのパブの扉が開かれ、店内の喧噪が流れ出る。と、同時に強い明かりがロールスクリーンの下ろされたショーウインドウに、飛鳥の漆黒の影をくっきりと刻んだ。身じろぎもせず、淋し気に佇むその頼りなげな影に、ヘンリーはそっと身を傾げて唇を落とした。唇に冷たい硬質のガラスを感じた時、影は消え、辺りはまた薄ぼんやりとした闇に戻っていた。



 狂おしい衝動に駆られて、ヘンリーは、ツリーの前での演奏を終えて片付けようとしている男の前に歩み出た。

「リクエストを。『荒野のはてに』」
 ポケットから五十ポンド札を取り出し、差し出している。男は首を振るとヘンリーの手を押し返し、自分のヴァイオリンを突きだした。

 ヘンリーはそれを受け取って、クリスマス・キャロルを奏で始めた。

 降り注ぐ月光のように冴え冴えと、それでいて柔らかく温もりのある音色に合わせて、その場にいた数人が歌い出す。帰り道を急ぐ人々も足を止めその歌声に加わっていく。隣接するパブからもバラバラと人が出てきて合唱に加わった。通りに神を称える歌声が満ち溢れ、さざ波のように広がっていた。

 ヘンリーは二度繰り返し演奏し、人々の称賛と抱擁を微笑んで受け入れた。


「ありがとう。こいつからこんな音色が聴けるとは思わなかったよ」
 男は自分のヴァイオリンを受け取りながら、恥ずかしそうに言った。
「いいヴァイオリンだ。英国製だね。僕のも英国製だよ」
「イタリア製じゃないのかい? あんたのなら、てっきりストラディバリウスかなんかかと……」
「まさか。イタリアのものは神経質で好きじゃないんだ。気心知れている相手が一番さ」

 ヘンリーは、折りたたんだ五十ポンド札を男の胸ポケットに差し入れた。「ありがとう。神のご加護を」と、微笑んでその場を後にした。




「今までで一番感動したよ」
 群衆から解放されたヘンリーに、飛鳥はやっと笑顔で告げる。
「ヘンリー、今日は本当にごめん。僕はどうかしていたんだ。きみに不愉快な想いをさせてしまって、本当に申し訳なかった」
「構わない。僕は逆に嬉しかったよ。やっときみの友人として認めてもらえた」

 いつもと変わらない柔らかな優しい笑顔で応え、ヘンリーは飛鳥の髪を梳き上げるようにして頭を撫でた。

「大丈夫だよ。そんなにしょっちゅう熱を出したりしないよ」
 飛鳥は口を尖らせてヘンリーを見上げる。
「じゃ、早く帰ろう。僕はまたお腹がすいてきたよ。寮まで競争するかい?」
 ヘンリーはクスクス笑い、駆け出しながら、振り向いて掌を上に向けひらひらと誘うように促している。

「敵うわけないじゃないか!」

 飛鳥も大声で言い返して、ヘンリーの後を追って冷たい煉瓦に覆われた街路に靴音を響かせた。





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする

夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】 主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。 そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。 「え?私たち、付き合ってますよね?」 なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。 「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

処理中です...