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一章
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ちらちらと雪が舞い降りているガラス張りのドーム天井の下、季節を忘れさせてくれる熱帯植物に囲まれたラタンソファーで、ヘンリーはサラと午後のお茶を飲んでいた。
この休暇中かかりっきりだった調査にひと段落着け、やっと一息つける時間を持つことが出来たところだ。
明日にはもう、学校に戻らなければならない。今日中に、できうる限りの手筈を調えておかなくては……。
ヘンリーは、頭の中ではめまぐるしく算段を続けることに余念がない。ティーカップは、機械的に口許に運んでいるだけだった。
「サラ、アスカは、僕が『杜月』を買収するのも、融資することも喜ばないと思うんだ。彼はああ見えてプライドが高いし、借りを作るのをすごく嫌がるからね。それに何より、僕は彼と対等でいたいんだ。だから、考えたんだ」
ヘンリーは、午前中にまとめていた書類をサラに差し出した。
「可能だと思う?」
書類にざっと目を通したサラは、面を上げキラキラしい瞳をヘンリーに向ける。
「絶対に間に合わせる」
「後のことはスミスさんに任せていいかな? 僕から言うよりも、きちんとした手順を踏んだ方がアスカも警戒しないと思うんだ。それに、彼は“シューニヤ”の大ファンだからね」
サラの賛同を得て、ヘンリーは、ほっと吐息を漏らすと、穏やかな安堵の笑みを浮かべた。
「坊ちゃん。お客様です」
マーカスが、表情に明らかな困惑の色を浮かべてヘンリーを呼んだ。こんな風に感情を示すことのない沈着な執事に、ヘンリーは怪訝そうな視線で何事かを問い質す。
「キャロライン様です。応接間にお通ししています」
「きみは、ここにいて」
慌てて立ち上がりこの場を離れようと足を向けた時、大柄なマーカスの横をすり抜けるようにして、件の招かれざる客が入って来た。
「ヘンリー!」
無邪気で、嬉しそうな声音が彼の名を呼んだ。だがその少女は、思いもかけず何か不快なものでも見てしまったかのように、その愛らしい顔を背け、「どうしてここにパキがいるの?」と、ヘンリーではなく傍らに立つマーカスの顔を睨みつけ、不満そうに唇を尖らせた。
ヘンリーはゆっくりと、無表情のまま彼女の正面に歩み寄る。
キャロラインは、嬉しそうに笑ってヘンリーを見上げている。
ヘンリーの手が、大きく振り上げられた。
「ヘンリー、駄目!」
サラの甲高い静止の声を無視して、ヘンリーの手はそのままキャロラインの頬に打ち下ろされた。
バシッ!
よろめいて倒れ掛けた彼女を、マーカスが受け止め支えている。
「マーカス、その女をつまみ出せ」
ヘンリーは吐き捨てるように言うと、サラの傍に戻り、その頬に手を当てて自分の方を向かせて、真摯な瞳で彼女の大きく見開かれ、驚きで震えているペリドットを覗き込んだ。
「サラ、ごめんよ。きみに不愉快な想いをさせてしまった。これだから、あいつらとは係り合いになりたくないんだ。礼儀を知らない野蛮人なんだ」
「女の子に手を上げてはいけないわ、ヘンリー」
「きみを侮辱する人間は、誰であっても許さない」
『パキ』は、本来はパキスタン系移民を指す蔑称だが、南アジアの褐色の肌を持つ人達に対して用いられる事が多いのだ。
「駄目よ、ヘンリー、約束して。もうこんなことはしないって。それに私は、そんなこと気にしたりしないわ」
ヘンリーは、子どものようにふくれっ面をしてサラから目を逸らした。自分がサラを怒らせ、哀しませてしまうなどと、思ってもみなかったのだ。
「ヘンリー」
サラはヘンリーの両頬を小さな手で包み込んだ。
「ヘンリー、お願い」
ヘンリーは、不承不承頷いた。
「あいつのせいで、サラに嫌われた」
「ヘンリーを嫌ったりしないわ」
サラは、ヘンリーの首にしっかりと自分の腕を回し、抱き締める。
「彼女も、ヘンリーのことが好きなんでしょう? もっと優しくしてあげて」
「僕はあいつなんか嫌いだ。僕の妹はきみだけだよ。僕ときみを引き離そうとする奴らは、みんな嫌いだ」
「ヘンリー……、」
サラは腕を緩めると、困ったようにヘンリーを見据える。
「子どものようなことを言わないで」
「僕は、きみに初めて出逢った十一の時から、成長なんてしていない。何一つ、変わっていないよ。きみがいないと、自分が本当に生きているのかさえ判らなくなるんだ。今だって、あいつらが、きみをどうにかするんじゃないかと、不安で仕方がないんだ」
ぎゅっと眉間に力を入れて、唇を引き結び、ヘンリーは浅い呼吸を繰り返していた。
「ヘンリー、心配しないで。私はずっと傍にいるし、何も悪いことは起こらない」
サラは、ヘンリーをぎゅっと強く抱き締める。
「それに、ヘンリーは私がいない時も、ちゃんと生きているわ。すごく楽しそうにアスカのことを話してくれるじゃない。学校のことも。アスカが来てから、あなたはずっと生き生きとしている。不安な時が長かったから、今はまだ気付いていないだけ。あなたはもう、無力な子どもなんかじゃない」
サラだけが、この辛い世界を生き続ける勇気をくれる。
サラは、僕が一生かかってもたどり着けないような高みにいるのに。
サラがそこにいてくれるから、未来を諦めずに済む。
いつかはサラみたいに、この世界を見ることができるかもしれない。
いつかはサラみたいに、この世界を愛せるかもしれない。
それだけが、僕の夢。
自分に回された彼女の細く華奢な腕から、その繊細な体から伝わってくる温もりが、じんわりと伝わり包み込んでくれるのを感じて、ヘンリーはぎゅっと奥歯を噛み締め、そしてふっと力を抜いて嘆息した。
「ごめんよ、サラ。けじめをつけてくるよ」
いつもの穏やかな瞳に戻って立ち上がった彼を見上げ、サラはにっこりと頷いた。
この休暇中かかりっきりだった調査にひと段落着け、やっと一息つける時間を持つことが出来たところだ。
明日にはもう、学校に戻らなければならない。今日中に、できうる限りの手筈を調えておかなくては……。
ヘンリーは、頭の中ではめまぐるしく算段を続けることに余念がない。ティーカップは、機械的に口許に運んでいるだけだった。
「サラ、アスカは、僕が『杜月』を買収するのも、融資することも喜ばないと思うんだ。彼はああ見えてプライドが高いし、借りを作るのをすごく嫌がるからね。それに何より、僕は彼と対等でいたいんだ。だから、考えたんだ」
ヘンリーは、午前中にまとめていた書類をサラに差し出した。
「可能だと思う?」
書類にざっと目を通したサラは、面を上げキラキラしい瞳をヘンリーに向ける。
「絶対に間に合わせる」
「後のことはスミスさんに任せていいかな? 僕から言うよりも、きちんとした手順を踏んだ方がアスカも警戒しないと思うんだ。それに、彼は“シューニヤ”の大ファンだからね」
サラの賛同を得て、ヘンリーは、ほっと吐息を漏らすと、穏やかな安堵の笑みを浮かべた。
「坊ちゃん。お客様です」
マーカスが、表情に明らかな困惑の色を浮かべてヘンリーを呼んだ。こんな風に感情を示すことのない沈着な執事に、ヘンリーは怪訝そうな視線で何事かを問い質す。
「キャロライン様です。応接間にお通ししています」
「きみは、ここにいて」
慌てて立ち上がりこの場を離れようと足を向けた時、大柄なマーカスの横をすり抜けるようにして、件の招かれざる客が入って来た。
「ヘンリー!」
無邪気で、嬉しそうな声音が彼の名を呼んだ。だがその少女は、思いもかけず何か不快なものでも見てしまったかのように、その愛らしい顔を背け、「どうしてここにパキがいるの?」と、ヘンリーではなく傍らに立つマーカスの顔を睨みつけ、不満そうに唇を尖らせた。
ヘンリーはゆっくりと、無表情のまま彼女の正面に歩み寄る。
キャロラインは、嬉しそうに笑ってヘンリーを見上げている。
ヘンリーの手が、大きく振り上げられた。
「ヘンリー、駄目!」
サラの甲高い静止の声を無視して、ヘンリーの手はそのままキャロラインの頬に打ち下ろされた。
バシッ!
よろめいて倒れ掛けた彼女を、マーカスが受け止め支えている。
「マーカス、その女をつまみ出せ」
ヘンリーは吐き捨てるように言うと、サラの傍に戻り、その頬に手を当てて自分の方を向かせて、真摯な瞳で彼女の大きく見開かれ、驚きで震えているペリドットを覗き込んだ。
「サラ、ごめんよ。きみに不愉快な想いをさせてしまった。これだから、あいつらとは係り合いになりたくないんだ。礼儀を知らない野蛮人なんだ」
「女の子に手を上げてはいけないわ、ヘンリー」
「きみを侮辱する人間は、誰であっても許さない」
『パキ』は、本来はパキスタン系移民を指す蔑称だが、南アジアの褐色の肌を持つ人達に対して用いられる事が多いのだ。
「駄目よ、ヘンリー、約束して。もうこんなことはしないって。それに私は、そんなこと気にしたりしないわ」
ヘンリーは、子どものようにふくれっ面をしてサラから目を逸らした。自分がサラを怒らせ、哀しませてしまうなどと、思ってもみなかったのだ。
「ヘンリー」
サラはヘンリーの両頬を小さな手で包み込んだ。
「ヘンリー、お願い」
ヘンリーは、不承不承頷いた。
「あいつのせいで、サラに嫌われた」
「ヘンリーを嫌ったりしないわ」
サラは、ヘンリーの首にしっかりと自分の腕を回し、抱き締める。
「彼女も、ヘンリーのことが好きなんでしょう? もっと優しくしてあげて」
「僕はあいつなんか嫌いだ。僕の妹はきみだけだよ。僕ときみを引き離そうとする奴らは、みんな嫌いだ」
「ヘンリー……、」
サラは腕を緩めると、困ったようにヘンリーを見据える。
「子どものようなことを言わないで」
「僕は、きみに初めて出逢った十一の時から、成長なんてしていない。何一つ、変わっていないよ。きみがいないと、自分が本当に生きているのかさえ判らなくなるんだ。今だって、あいつらが、きみをどうにかするんじゃないかと、不安で仕方がないんだ」
ぎゅっと眉間に力を入れて、唇を引き結び、ヘンリーは浅い呼吸を繰り返していた。
「ヘンリー、心配しないで。私はずっと傍にいるし、何も悪いことは起こらない」
サラは、ヘンリーをぎゅっと強く抱き締める。
「それに、ヘンリーは私がいない時も、ちゃんと生きているわ。すごく楽しそうにアスカのことを話してくれるじゃない。学校のことも。アスカが来てから、あなたはずっと生き生きとしている。不安な時が長かったから、今はまだ気付いていないだけ。あなたはもう、無力な子どもなんかじゃない」
サラだけが、この辛い世界を生き続ける勇気をくれる。
サラは、僕が一生かかってもたどり着けないような高みにいるのに。
サラがそこにいてくれるから、未来を諦めずに済む。
いつかはサラみたいに、この世界を見ることができるかもしれない。
いつかはサラみたいに、この世界を愛せるかもしれない。
それだけが、僕の夢。
自分に回された彼女の細く華奢な腕から、その繊細な体から伝わってくる温もりが、じんわりと伝わり包み込んでくれるのを感じて、ヘンリーはぎゅっと奥歯を噛み締め、そしてふっと力を抜いて嘆息した。
「ごめんよ、サラ。けじめをつけてくるよ」
いつもの穏やかな瞳に戻って立ち上がった彼を見上げ、サラはにっこりと頷いた。
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