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一章
進路1
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「あれ? コンクールの動画が消されている」
「知らなかったのか? 二時間も経たないうちにアカウントごと消されていたぞ」
寮の談話室で愛用のノートパソコンを見ていた飛鳥に、ロレンツォは、当然のことのように告げた。
「写真も……。カメラを通したらどんなふうに見えるか見たかったのにな。ヘンリーのコンサートの動画はあるのに。なんでだろう?」
「ラザフォードが映っていたからだろ」
飛鳥は訝し気に首を傾げる。そんな彼に逆に驚いたかのように目を眇め、ロレンツォは淡々と続けた。
「デヴィッド・ラザフォードは一度誘拐されているからな、ラザフォード家はデヴィッドのプライバシーの扱いには特に神経質なんだ」
「誘拐……」
「十一か、十二かそれくらいの年齢の時にな。デヴィッドは、ちょっと違うだろ。その事件のせいか、ものすごく甘やかされているんだ。それに、」
ロレンツォは、周囲に聞かれないように飛鳥の横に座り直し小声で続けた。
「デヴィッドを助けたヘンリーも、ラザフォード家にとっては特別待遇さ」
「助けたって、その年頃って今のアレンくらいだよね。どうやって助けたの?」
飛鳥は、ヘンリーの弟アレンの、整った、けれど、どこかあどけなさの残る顔を思い浮かべ、信じられない面持ちで聞き返した。同時に、弟吉野の面影も脳裏を掠めていた。吉野もそんな年齢だ。やっと中学生、そんなものだ。
「ハッキング。脅迫メールから警察よりも早く居場所を突き止めたのに、警察は子どものいうことなんか信じやしないだろ。だからヘンリーは、アーネスト・ラザフォードと、エドワード・グレイ、大人は護衛を一人だけ連れて監禁場所に乗り込んだんだ」
飛鳥は目を大きく見開いて聞き入っている。
「護衛が見張りを倒している間に、ヘンリーは逃げようとしたデヴィッドをぶん殴っている誘拐犯に銃を突き付けて……」
「それで?」
ロレンツォがにやにや笑って話を止めたので、飛鳥は彼の腕を揺さ振って急かした。
「子どもに銃を向けられたって、怖がる大人はいないよな、普通。もちろん誘拐犯の方もヘンリーに銃を向けた。『ガキに銃が撃てるものか』ってな。だけどあいつは銃を下ろさなかった。そればかりか、『この距離なら僕だって外さないよ』と、逆に脅し文句まで吐いたらしい。表の護衛が駆けつけるまでの数分間、微動だせずに互いに銃を構えたままにらみ合っていたそうだ。まぁ、それからすぐに警察が来て無事解決さ」
ふぅっ、と飛鳥は緊張を解いて吐息を漏らした。
「ヘンリーは、昔っからヘンリーなんだね。デイヴは可哀想だな……。そんな酷い目に遭っていたなんて……」
飛鳥は顔を曇らせて眉をしかめる。日本にいる弟のことが、堪らく気に掛かった。もし、吉野がそんなめにあったとしたら、と嫌な想像ばかりが湧いてきていた。
「まぁ、そういう訳だ。判るだろ? 元エリオット校生のあの異常な結束の固さ。みんなヘンリーより階級は上なのに、ヘンリーが王様だ」
同じ貴族の中でも階級があるのか……。
またもや飛鳥にはよく判らない話になってきた。ロレンツォはそんな彼の表情に、「ああ、」と、納得するように頷き、説明を加えてくれた。
「つまりな……。グレイや、ラザフォードの方が爵位は上ってことさ。エドガー・ウイズリーもな。それに、ソールスベリー家ってのは、血筋は古い家柄なんだが、十八世紀に直系が絶えて今は分家の筋なんだ。そこからは、広大な領地を資産として運用している大半の英国貴族とは違い、もっと能動的に財産を築いてきた商人なんだよ。それで、金儲けを軽蔑する愚かなコンサバ連中からは下に見られている」
「貴族の中でも差別があるってこと?」
「早い話がそういうことだな」
「僕は平民で良かったよ。なんだかついていけないよ。多分一生かかっても、きみや、ヘンリーの生きている世界は理解できないと思う」
飛鳥は、申し訳なさそうに唇を歪めた。また、ため息がついて出る。自分自身の事だけでも手一杯なのに、生まれた時から周囲から向けられる視線が固定されているなんて、どうしていいか判らない。そんな環境がヘンリーという独特な人間を形作っていることは朧にイメージは出来るものの、理解には至らない。
ロレンツォは、そんな彼を育んだ環境を想像させないほど、彼自身なのに……。ヘンリーは……。
不思議そうな、けれど自分を疑うことのない飛鳥の鳶色の瞳を、ロレンツォは嬉しそうに見つめ返した。
「いらない。理解も、共感も、そんなものはいらない」
ロレンツォは明るく笑った。いつものように、豪快に。
「お前はそのままでいいんだ」
フェンシングの決勝でウィリアムに負けて腐っていたロレンツォに、飛鳥は理解も、同情も示さなかった。ただ、興奮で顔を上気させて『すごく綺麗で、ずっと見とれていたよ』と、称賛の言葉だけをくれた。
『ウィリアムよりも?』
『二人とも素晴らしかったよ。彼はすごく速くて、きみはすごく優雅だった』
どうしてウィリアムに負けたくなかったか理解してもらうよりも、残念だったね、と共感されるよりも、ずっと心に響いた。初めて勝敗なんかどうでもよく思えた。
こいつを感動させることができたのなら、それでいい。
この称賛は俺だけのものだ。
と、そんな想いがロレンツォを満たしていた。その日から、切れることなく。
「それより後期Aレベル試験が明後日だろ? いいのか、そんなにのんびりしていて」
ロレンツォは時計に目をやると、思い出したように飛鳥を急かした。今は自分のこと以上に飛鳥のことが気に掛かっているのだ。飛鳥がこのまま英国に残り大学に進めるかどうかが、この試験に掛かっているのだから。
「大丈夫。もう残っているのは数学だけだから。過去問を三年分やったけれど、拍子抜けするほど簡単だったもの」
「カレッジはどこに出した?」
「ヴィトラ。きみは? きみとヘンリーは経営学部?」
ロレンツォは、「あいつは一年伸ばして学部変更したからな」と、嬉しそうに頷く。
飛鳥はまた怪訝な瞳を向けている。何も知らないんだな、とばかりにロレンツォは呆れ顔で苦笑するしかない。
「ヘンリーは、去年、工学部志願でAレベルを取って、今年、経営学部に変更したんだ」
「なんで?」
「お前がいるから。自分で工学を学ぶ必要がなくなったからだろ」
当たり前のようにそう言って、「もっとも経営だって、あいつにとって大学で学ぶ意味があるのか判らないけどな」と、軽く笑って付け加えた。
「知らなかったのか? 二時間も経たないうちにアカウントごと消されていたぞ」
寮の談話室で愛用のノートパソコンを見ていた飛鳥に、ロレンツォは、当然のことのように告げた。
「写真も……。カメラを通したらどんなふうに見えるか見たかったのにな。ヘンリーのコンサートの動画はあるのに。なんでだろう?」
「ラザフォードが映っていたからだろ」
飛鳥は訝し気に首を傾げる。そんな彼に逆に驚いたかのように目を眇め、ロレンツォは淡々と続けた。
「デヴィッド・ラザフォードは一度誘拐されているからな、ラザフォード家はデヴィッドのプライバシーの扱いには特に神経質なんだ」
「誘拐……」
「十一か、十二かそれくらいの年齢の時にな。デヴィッドは、ちょっと違うだろ。その事件のせいか、ものすごく甘やかされているんだ。それに、」
ロレンツォは、周囲に聞かれないように飛鳥の横に座り直し小声で続けた。
「デヴィッドを助けたヘンリーも、ラザフォード家にとっては特別待遇さ」
「助けたって、その年頃って今のアレンくらいだよね。どうやって助けたの?」
飛鳥は、ヘンリーの弟アレンの、整った、けれど、どこかあどけなさの残る顔を思い浮かべ、信じられない面持ちで聞き返した。同時に、弟吉野の面影も脳裏を掠めていた。吉野もそんな年齢だ。やっと中学生、そんなものだ。
「ハッキング。脅迫メールから警察よりも早く居場所を突き止めたのに、警察は子どものいうことなんか信じやしないだろ。だからヘンリーは、アーネスト・ラザフォードと、エドワード・グレイ、大人は護衛を一人だけ連れて監禁場所に乗り込んだんだ」
飛鳥は目を大きく見開いて聞き入っている。
「護衛が見張りを倒している間に、ヘンリーは逃げようとしたデヴィッドをぶん殴っている誘拐犯に銃を突き付けて……」
「それで?」
ロレンツォがにやにや笑って話を止めたので、飛鳥は彼の腕を揺さ振って急かした。
「子どもに銃を向けられたって、怖がる大人はいないよな、普通。もちろん誘拐犯の方もヘンリーに銃を向けた。『ガキに銃が撃てるものか』ってな。だけどあいつは銃を下ろさなかった。そればかりか、『この距離なら僕だって外さないよ』と、逆に脅し文句まで吐いたらしい。表の護衛が駆けつけるまでの数分間、微動だせずに互いに銃を構えたままにらみ合っていたそうだ。まぁ、それからすぐに警察が来て無事解決さ」
ふぅっ、と飛鳥は緊張を解いて吐息を漏らした。
「ヘンリーは、昔っからヘンリーなんだね。デイヴは可哀想だな……。そんな酷い目に遭っていたなんて……」
飛鳥は顔を曇らせて眉をしかめる。日本にいる弟のことが、堪らく気に掛かった。もし、吉野がそんなめにあったとしたら、と嫌な想像ばかりが湧いてきていた。
「まぁ、そういう訳だ。判るだろ? 元エリオット校生のあの異常な結束の固さ。みんなヘンリーより階級は上なのに、ヘンリーが王様だ」
同じ貴族の中でも階級があるのか……。
またもや飛鳥にはよく判らない話になってきた。ロレンツォはそんな彼の表情に、「ああ、」と、納得するように頷き、説明を加えてくれた。
「つまりな……。グレイや、ラザフォードの方が爵位は上ってことさ。エドガー・ウイズリーもな。それに、ソールスベリー家ってのは、血筋は古い家柄なんだが、十八世紀に直系が絶えて今は分家の筋なんだ。そこからは、広大な領地を資産として運用している大半の英国貴族とは違い、もっと能動的に財産を築いてきた商人なんだよ。それで、金儲けを軽蔑する愚かなコンサバ連中からは下に見られている」
「貴族の中でも差別があるってこと?」
「早い話がそういうことだな」
「僕は平民で良かったよ。なんだかついていけないよ。多分一生かかっても、きみや、ヘンリーの生きている世界は理解できないと思う」
飛鳥は、申し訳なさそうに唇を歪めた。また、ため息がついて出る。自分自身の事だけでも手一杯なのに、生まれた時から周囲から向けられる視線が固定されているなんて、どうしていいか判らない。そんな環境がヘンリーという独特な人間を形作っていることは朧にイメージは出来るものの、理解には至らない。
ロレンツォは、そんな彼を育んだ環境を想像させないほど、彼自身なのに……。ヘンリーは……。
不思議そうな、けれど自分を疑うことのない飛鳥の鳶色の瞳を、ロレンツォは嬉しそうに見つめ返した。
「いらない。理解も、共感も、そんなものはいらない」
ロレンツォは明るく笑った。いつものように、豪快に。
「お前はそのままでいいんだ」
フェンシングの決勝でウィリアムに負けて腐っていたロレンツォに、飛鳥は理解も、同情も示さなかった。ただ、興奮で顔を上気させて『すごく綺麗で、ずっと見とれていたよ』と、称賛の言葉だけをくれた。
『ウィリアムよりも?』
『二人とも素晴らしかったよ。彼はすごく速くて、きみはすごく優雅だった』
どうしてウィリアムに負けたくなかったか理解してもらうよりも、残念だったね、と共感されるよりも、ずっと心に響いた。初めて勝敗なんかどうでもよく思えた。
こいつを感動させることができたのなら、それでいい。
この称賛は俺だけのものだ。
と、そんな想いがロレンツォを満たしていた。その日から、切れることなく。
「それより後期Aレベル試験が明後日だろ? いいのか、そんなにのんびりしていて」
ロレンツォは時計に目をやると、思い出したように飛鳥を急かした。今は自分のこと以上に飛鳥のことが気に掛かっているのだ。飛鳥がこのまま英国に残り大学に進めるかどうかが、この試験に掛かっているのだから。
「大丈夫。もう残っているのは数学だけだから。過去問を三年分やったけれど、拍子抜けするほど簡単だったもの」
「カレッジはどこに出した?」
「ヴィトラ。きみは? きみとヘンリーは経営学部?」
ロレンツォは、「あいつは一年伸ばして学部変更したからな」と、嬉しそうに頷く。
飛鳥はまた怪訝な瞳を向けている。何も知らないんだな、とばかりにロレンツォは呆れ顔で苦笑するしかない。
「ヘンリーは、去年、工学部志願でAレベルを取って、今年、経営学部に変更したんだ」
「なんで?」
「お前がいるから。自分で工学を学ぶ必要がなくなったからだろ」
当たり前のようにそう言って、「もっとも経営だって、あいつにとって大学で学ぶ意味があるのか判らないけどな」と、軽く笑って付け加えた。
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