110 / 758
三章
5
しおりを挟む
幾台ものパソコンとモニター、プロジェクタ―等の機材が処狭しと置かれた自室で、飛鳥は床に座り込み、ベッドを背にしてもたれ掛かったまま、じっと窓の外に広がる灰色の空を眺めていた。
しとしとと、細やかな雨が降っている。
窓ガラスに当たる雨粒の一粒一粒を見極めるように、目を凝らしている。脳内では、一粒、一粒の雨粒は大小様々なガラス粒子に変換されランダムに動き回っている。
思考を断ち切るように、飛鳥は眉をしかめて目を瞑る。
ノックの音に、押し殺したような声で返事をした。ドアが開き、しっとりと雨に濡れたヘンリーが室内に姿を現した。飛鳥は泣き出しそうな顔をして、彼を見上げる。
「ごめん」
「どうして謝るんだい?」
ドアを閉め、ヘンリーはそのまま後ろに寄り掛かって微笑んだ。
「僕は満足しているよ」
飛鳥はどんよりと暗い瞳を伏せ、首を横に振って、「画像の拡大に耐えられる程度には解像度は上がったけれど、その分ガラスの製法は複雑になって、前以上に機械生産化から遠ざかってしまったよ」と申し訳なさそうに唇を歪める。
「きみは充分に期待に応えてくれているよ」
ヘンリーは濡れた髪を掻き上げ、クスクスと笑う。
「全く……、いつだってきみは自分のすることには、絶対に満足しやしないんだ」
「でも、」
大きな鳶色の瞳を哀し気に揺らしながら言葉を探す飛鳥に、ヘンリーは続けて言った。
「下に来ないかい? ヨシノはいるかな? 僕にもコーヒーを淹れてほしいのだけど。アーニーが凄く褒めていたんだ」
飛鳥は頷いて、のろのろと立ち上がった。
吉野の部屋をノックしてそこにいないことを確かめると、ヘンリーと共に階下に降り、リビングからダイニングに声を掛ける。
呼ばれて顔を出すなり、吉野は不快感も露わに眉を寄せた。そしてダイニングに引っ込むと、タオルをヘンリーに投げてよこした。
「英国人は傘を差さないっていうのは、本当なんですね。それならコートくらい、さっさと脱いでください。床が汚れる。自分で掃除しないのなら汚さないで下さい。何か温かいもの、飲みますか?」
「コーヒーをお願いできるかい?」
まくしたてる吉野の様子に、ヘンリーは吹き出すように笑って答え、コートを脱ぎタオルで髪を拭いた。飛鳥は、また失敗した――、と顔を伏せ、唇を噛んだ。
「ごめん、ヘンリー。気が利かなくて……」
ヘンリーは優しく微笑んで、飛鳥の髪に手を置いて柔らかく、くしゃりと撫でた。
「きみが仕上げてくれた投影ボックスのバージョン1.0を、一月に米国で開催される、家電テクノロジー国際見本市で発表するつもりなんだ」
飛鳥は、手にしていたコーヒーカップを落としそうになり、慌ててソーサーに戻すと露骨に顔を歪めて囁くように訊いた。
「冗談だよね、ヘンリー?」
「申し込みを済ませてきたよ」
「一月までに、機械生産の目途をつけろってこと?」
「まさか! そんな無理難題を言う訳がないだろ?」
ヘンリーは可笑しそうに笑うと、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
「本当にきみのお陰で、着々と前に進んでいけるよ。ありがとう、アスカ」
納得できないまま固い表情を崩さない飛鳥に、「こんな製品を開発しているって、いわば研究発表ための見本市も兼ねているからね。プロトタイプさえ出来上がっていればいいんだよ」と、ヘンリーはカップを戻し両手を組んで膝の上に置くと、いつもの上品な優しい笑顔を飛鳥に向ける。
「ここでガン・エデン社が、新製品を発表する。そっちは商品だけどね。それにぶつけるんだよ。本当のことを言うとね、僕自身、まさか、これに間に合うなんて思ってなかったんだよ。ほとんど諦めていたのに胸がすく思いだよ」
飛鳥はぎゅっと拳を握りしめ、奥歯を噛み締め、眉をしかめたまま目を瞑る。そして目を開けると、咎めるような辛そうな視線をヘンリーに向けた。
「きみは、知っているんだね……。彼らが何を発表するのか……」
ヘンリーはそれには答えず、微笑んだまま飛鳥に問い直した。
「きみには想像がつくかい?」
「投影ボックスがあの形になった時に」
「きみはいつも僕を驚かせてくれるよ。いい意味でね」
またしても可笑しそうにクスクスと、ヘンリーは笑った。
「盗んだわけじゃない。これは必然だよ」
「もっと小型化することだってできる……。でもきみは、この形、このサイズでぶつけたいんだろ?」
ヘンリーは笑うのを止めて小首を傾げた。
「きみは嫌なの?」
飛鳥は首を横に振って、震える声で囁くように返答した。
「そうじゃないよ。……ビジネスは、戦争だもの。そして、戦場の最前線にいるのはいつだって僕じゃない、きみだもの。解っている」
ヘンリーは、膝に肘をついて身を屈めて乗り出すと、顔を伏せたままの飛鳥の頬に、そっとその長いしなやかな指を添えた。
「千載一遇のチャンスをありがとう、アスカ」
しとしとと、細やかな雨が降っている。
窓ガラスに当たる雨粒の一粒一粒を見極めるように、目を凝らしている。脳内では、一粒、一粒の雨粒は大小様々なガラス粒子に変換されランダムに動き回っている。
思考を断ち切るように、飛鳥は眉をしかめて目を瞑る。
ノックの音に、押し殺したような声で返事をした。ドアが開き、しっとりと雨に濡れたヘンリーが室内に姿を現した。飛鳥は泣き出しそうな顔をして、彼を見上げる。
「ごめん」
「どうして謝るんだい?」
ドアを閉め、ヘンリーはそのまま後ろに寄り掛かって微笑んだ。
「僕は満足しているよ」
飛鳥はどんよりと暗い瞳を伏せ、首を横に振って、「画像の拡大に耐えられる程度には解像度は上がったけれど、その分ガラスの製法は複雑になって、前以上に機械生産化から遠ざかってしまったよ」と申し訳なさそうに唇を歪める。
「きみは充分に期待に応えてくれているよ」
ヘンリーは濡れた髪を掻き上げ、クスクスと笑う。
「全く……、いつだってきみは自分のすることには、絶対に満足しやしないんだ」
「でも、」
大きな鳶色の瞳を哀し気に揺らしながら言葉を探す飛鳥に、ヘンリーは続けて言った。
「下に来ないかい? ヨシノはいるかな? 僕にもコーヒーを淹れてほしいのだけど。アーニーが凄く褒めていたんだ」
飛鳥は頷いて、のろのろと立ち上がった。
吉野の部屋をノックしてそこにいないことを確かめると、ヘンリーと共に階下に降り、リビングからダイニングに声を掛ける。
呼ばれて顔を出すなり、吉野は不快感も露わに眉を寄せた。そしてダイニングに引っ込むと、タオルをヘンリーに投げてよこした。
「英国人は傘を差さないっていうのは、本当なんですね。それならコートくらい、さっさと脱いでください。床が汚れる。自分で掃除しないのなら汚さないで下さい。何か温かいもの、飲みますか?」
「コーヒーをお願いできるかい?」
まくしたてる吉野の様子に、ヘンリーは吹き出すように笑って答え、コートを脱ぎタオルで髪を拭いた。飛鳥は、また失敗した――、と顔を伏せ、唇を噛んだ。
「ごめん、ヘンリー。気が利かなくて……」
ヘンリーは優しく微笑んで、飛鳥の髪に手を置いて柔らかく、くしゃりと撫でた。
「きみが仕上げてくれた投影ボックスのバージョン1.0を、一月に米国で開催される、家電テクノロジー国際見本市で発表するつもりなんだ」
飛鳥は、手にしていたコーヒーカップを落としそうになり、慌ててソーサーに戻すと露骨に顔を歪めて囁くように訊いた。
「冗談だよね、ヘンリー?」
「申し込みを済ませてきたよ」
「一月までに、機械生産の目途をつけろってこと?」
「まさか! そんな無理難題を言う訳がないだろ?」
ヘンリーは可笑しそうに笑うと、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
「本当にきみのお陰で、着々と前に進んでいけるよ。ありがとう、アスカ」
納得できないまま固い表情を崩さない飛鳥に、「こんな製品を開発しているって、いわば研究発表ための見本市も兼ねているからね。プロトタイプさえ出来上がっていればいいんだよ」と、ヘンリーはカップを戻し両手を組んで膝の上に置くと、いつもの上品な優しい笑顔を飛鳥に向ける。
「ここでガン・エデン社が、新製品を発表する。そっちは商品だけどね。それにぶつけるんだよ。本当のことを言うとね、僕自身、まさか、これに間に合うなんて思ってなかったんだよ。ほとんど諦めていたのに胸がすく思いだよ」
飛鳥はぎゅっと拳を握りしめ、奥歯を噛み締め、眉をしかめたまま目を瞑る。そして目を開けると、咎めるような辛そうな視線をヘンリーに向けた。
「きみは、知っているんだね……。彼らが何を発表するのか……」
ヘンリーはそれには答えず、微笑んだまま飛鳥に問い直した。
「きみには想像がつくかい?」
「投影ボックスがあの形になった時に」
「きみはいつも僕を驚かせてくれるよ。いい意味でね」
またしても可笑しそうにクスクスと、ヘンリーは笑った。
「盗んだわけじゃない。これは必然だよ」
「もっと小型化することだってできる……。でもきみは、この形、このサイズでぶつけたいんだろ?」
ヘンリーは笑うのを止めて小首を傾げた。
「きみは嫌なの?」
飛鳥は首を横に振って、震える声で囁くように返答した。
「そうじゃないよ。……ビジネスは、戦争だもの。そして、戦場の最前線にいるのはいつだって僕じゃない、きみだもの。解っている」
ヘンリーは、膝に肘をついて身を屈めて乗り出すと、顔を伏せたままの飛鳥の頬に、そっとその長いしなやかな指を添えた。
「千載一遇のチャンスをありがとう、アスカ」
6
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる