胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「どう、吉野? SFっぽいだろ?」
「そうだな、誰もが想像して、誰にもまだ実現できていない、てところは近未来的だな」

 吉野はロンドンにあるヘンリーのアパートメントで、飛鳥の示すパソコン内の動画を興味津々で眺めている。だがやがて残念そうな笑みを口許に浮かべ、「でも、実際に見れば、おおっ! てなるのかもしれないけど、デモ映像としては平凡だな」と辛口の批評を口にした。飛鳥もその意見にがっかりすることもなく、頷きながらため息を漏らしている。

「やっぱりインパクトに欠けるか……。どうしたらもっと良くなるんだろう?」
「これ、本当に一月までに仕上がるの?」
 吉野は訝し気に飛鳥を見やる。
「クリスマスには試作品を見せてあげるよ」
 飛鳥はニコニコと自信ありげだ。


 吉野は、ハーフタームの時とは打って変わって肩の力の抜けた飛鳥を不思議に思いながら、何の気なしに、以前泊まったゲストルームをぐるりと見まわした。何もなかったはずの壁に、四十号ほどの花瓶に生けられた花の水彩画が飾られている。なぜだか思い出せない既視感に首を傾げた。

「飛鳥、俺、この絵を前に見たことがある。でもどこで見たのか思い出せないんだ」
「ああ、それね、お前、見てないよ。アーニーが描いたんだ。綺麗だろ。画題の花をお前が生けたんだって。だからだよ」
「へぇ……」

 ヘッドボード上に飾られた絵に間近まで顔をよせ、じっくりと眺めまわすと、吉野はそのままベッドに腰を下した。

「こういうところ、兄弟だよな」と吉野はクスクスとおかしそうに笑い出す。
「デイヴとアーニー?」
「デモ動画、こいつらに頼んだら? 飛鳥は芸術的なセンスはからっきしじゃん」
「でも、二人とも忙しいし……」
「あいつら、ヘンリーのためなら喜んでなんだってするじゃん。なんであんなに仲いいのって不思議なくらい」
 吉野の皮肉めいた口調に眉をしかめ、「何百年に渡るつき合いらしいからね、」と飛鳥は言葉を迷いながら選ぶ。
「つまり、先祖代々のつき合いってこと。ややこしいんだよ、色々と……」
 だがロレンツォに聞いたラザフォード家とソールスベリー家の政治的な関係を、自分ごときが軽々しく口にしていいものだろうか、と、やはり言い澱んで止めてしまった。

「ふーん……。じゃ、なおさらあいつらに頼めよ」
 吉野は気のないふうに言うと、ごろりと寝ころがって、「でもそのデモ動画どこで流すの?」と眠たそうに目を閉じたまま尋ねた。
「ネット? 飛鳥のは社内のプレゼン用にはいいけど、宣伝に使うんだったら、当日まで種明かししちゃだめだろ。何もかも飛鳥がやらなくたっていいんじゃないのか」
 完全に眠りに落ちそうなぼんやりした吉野の声音に、飛鳥は慌てて、「三時に起こせばいい?」と大声で訊ねる。吉野は指先を少し立てて応えただけだった。



 やっぱり吉野は頼りになる――。

 すとんと眠りに落ちた弟の寝顔を愛おしそうに見つめながら、自分とは違い、幼いころから多くの友達を持ち、その仲間と一緒にゲームの解析をしたり大会に出たりしながら、いろんなことを学んできた吉野の的確な一言に、飛鳥は、反省せずにはいられなかった。

 僕がやることじゃないんだ、と。

 明確なコンセプトに、設計、図面、やるべき仕事は終わっている。後は、シューニヤとコズモスのチームに任せればいいことだ。今まで祖父と飛鳥の二人だけだった。それに佐藤さん――。皆で作り上げていくという事が、飛鳥には理解できていなかったのだ。

 軽く自己嫌悪に陥り、吉野からその頭上高くに掛けられた絵に視線を移した。

 この花の絵、吉野みたいだ。決して華やかでも派手でもないのに、惹きつけられる。優しくて暖かくて力強い――。

 シューニヤは、どんな人なんだろう? 花に例えると何なんだろう?

 ネット回線越しにやっと会話できるようになったシューニヤは、初めて話した時と何も変わらない。無駄なことは一切言わない、明快で聡明な天才の名にふさわしい頭脳そのものだ。

 人としてのシューニヤがイメージできず、飛鳥は苦笑してくるりと向きを変えると再びパソコンに向き合った。




 月四回の弓道の稽古日に、ヘンリーが快く自宅の使用を申し出てくれたので、吉野はありがたく甘えさせてもらい、日本から届いたばかりの愛用の弓を保管させてもらうことにした。コズモス本社に顔を出すために出向いている飛鳥とも、時々、こうして会うこともできる。
 日本でのデヴィッドの事件にしろ、今回のマーレイの件にしろ、飛鳥の周囲はキナ臭いことが多すぎる。吉野は長期休暇だけではなく、できるだけ直接会って兄の無事を確認したいのだ。当のヘンリーはあれ以来、ケンブリッジにも、ロンドンにもいることが滅多にないらしく、顔を合わせることがないのもより好都合だった。


「最近ずっと寝不足なんだ」
 弓道場へ行く準備をしながら、吉野は大きく欠伸をした。まだまだ寝足りないらしい。
「どうして? 寮の生活って規則正しいだろ? まさか、ヘンリーみたいに抜け出してるんじゃないだろうね?」
 飛鳥の言葉に吉野は意外そうに眉を上げた。「へぇ、優等生のくせにやるな、あいつ」と、にやりと笑う。



 出かける前にはいつもするように、壁寄りの死角から窓の外を注意深く眺めた吉野は、「アレン・フェイラーがいる」と若干驚いた様子で声を殺し、飛鳥を振り返った。

 道路を挟んだ向かいの歩道に佇む、明かりの灯ったこの窓をじっと見上げているアレンの淋し気な姿を、飛鳥は憐れみのこもった瞳で、本人には気づかれないようにそっと見下ろす。

「声を掛けようか? ヘンリーは今、米国なんだ。僕よりお前の方がいいのかな?」
「いいよ放っておいて。あいつ、レイシストなんだ」
「うん、知ってる。でも、それとこれとは関係ないだろ」
 飛鳥は以前会った折の、自分に向けられたアレンの冷たい視線を思い出し、苦笑する。
「まだ子どもじゃないか。それにお前の同期生だよ」
「じゃ、こう言ってやれよ。『Hold your head up high. You're Eliottian,aren't you? (顔を上げろ。エリオティアンだろ)』」

 飛鳥は本格的に眉をひそめて吉野を睨みつけた。だが、一転して悲し気な表情に変わると、「どうしたの、吉野? お前らしくないよ」と力なく呟いた。
「お願いだから……。ヘンリーとマーレイの事は、軽々しくネタにしないで」
「アレンの話だよ」
 素知らぬ顔で言い通す吉野に、飛鳥は首を振ってドアに向かった。
「ヘンリーはいないって、言ってくるよ」
「俺が行く」


 吉野は飛鳥を押し退け、階段を駆け下りていった。

 だが、少し遅すぎたようだ。玄関の扉を開けた時には、そこにはもう誰もいなかったのだから。






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