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三章
避雷針1
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いまだ寒々とした枝を絡み合うように伸ばす楡の足下には、クロッカスが咲き乱れ、ところどころにラッパ水仙が群れ咲いている。
傾きだした陽差しを映して茜色に染まる水辺に立つと、樹々の黒々とした影の合間に金色の光彩が乱反射する水面に、滑るように緩やかに揺蕩う影を見つけ、目で追った。逆光に目を眇めながら、その影の主を呼ぶ。
「ヨシノ!」
パシャッ、と水面を叩いてその影は動きを止め、振り返る。チャールズは呆れたように肩をすくめた。
「まさか、本当に泳いでいるとは思わなかったよ」
吉野は邪魔され、不愉快そうに顔をしかめている。
「上がっておいで。風邪をひくよ、まだ水は冷たいだろうに」
「そんなやわじゃない」
不機嫌さを隠そうともせず、そのままついーと水中を漂うように移動する。
「ヨシノ!」
生徒会絡みのアレンの問題は、ヘンリーの鶴の一声であっという間に収束した。何カ月もかかって、ようやくあそこまでたどり着けたのに、ヘンリーは何もかも解っていて高みから見物し、ただ気まぐれにそのゲームを終わらせた。吉野には、そうとしか思えなかったのだ。アレンにしても、決して守ってやれていた訳ではなかった。何度も傷つけ、怪我をさせた。いつも、すんでのところで間に合わなかった。
やり切れない想いを、水中に潜って水底に沈めてくることで、やっと、心の平静を保てていたのに――。
水面で顔を逸らし、吉野は深くため息をつく。
「あーあ。冬の間は誰にも邪魔されなかったのに――」
諦めたようにのろのろと岸辺に寄ると、ざっと、勢いよく水しぶきを上げ立ちあがった。チャールズは、行儀よく顔を背け、また苦笑している。
「ほんとに裸で泳いでいるとはね。寒くはないの?」
「もう暖かいよ。水温もかなり上がっている」
吉野は右手のギプスに巻いたビニール袋を外し、大雑把に身体を拭いて制服を身につけながら答えた。もうその声には先程までのような険は残っていない。
「まさか、冬の間もずっと泳いでいた?」
「あんたでも把握していないことがあるんだな」
髪に残る滴を払うように頭を振って、痺れる肌の表面を掌でごしごしとこすっている。
ずっと逃げ場所にしていたジャックのパブも、今ではすっかりエリオット校の溜まり場だ。
反省室からロープを使って逃げ出したのも、あっと言う間に広まって、安心して過ごすことの出来ていた大好きな林で、ツリーイングが大流行だ。いつ行っても、誰かが木に登っていやがる。流行らせた犯人はクリスだって判っているから、文句も言えやしない――。
「もうこれ以上、俺の聖域を奪うなよ」
悔しいような、情けないような想いで、チャールズの背中に向かって呟いた。
「はははっ、彼と同じことを言うんだね」
可笑しそうに笑うチャールズの首筋に、吉野は氷のように冷えきった手を当ててやった。
ぎゃっ、と飛びあがるその姿を、思いっきり笑ってやった。
「ヘンリー? ああ、あいつもここが好きだって言っていたな。どうしてかは知らないけど」
「故郷の景色に似ているんだそうだよ」
チャールズは首筋を摩擦し温めながら、顔をしかめて呆れ返ったように呟いた。
「ほら、やっぱり冷えきっているじゃないか。さぁ、帰るよ」
「前に、同じ寮に暮らす奴らは家族みたいなものだって言っていただろ? 寮長は、家長みたいなもん?」
「そうだね……。家長は、寮監かな。寮長は、兄弟仲良く暮らせるように目を光らせている長兄だね」
沈みかけた夕日の中を、足下のクロッカスを踏みつけないように気をつけながら、肩を並べて帰路についた。
「ここのほとんど奴らは、ただ上の顔色を窺って従順に従うだけだけど、それ以外は、気をひきたくて悪さしたり、好きすぎて逆に憎んだり、親の関心を向けさせるのに必死な子どもみたいだ」
「中でもきみが、一番手のかかるやんちゃ坊主だけれどね」
澄ました顔で答えるチャールズに、「ヘンリーって、一体何なの?」と吉野は真顔で訊ねた。
「憧れとか、ヒーローだとか、そんなものじゃないだろ? なんで皆、あいつの影をいつまでも追いかけてるんだ?」
「うーん――。そうだね。彼が僕を見るだろ、そして優しく微笑みかけてくれる、『きみはすごいね!』て褒めてくれる。それだけで特別に上等な人間になれたような気がするんだよ。自分を信じて愛せるようになる。どんなことでもできる気がする。彼は、そんな魔法をかけてくれるんだよ」
チャールズはしみじみと思い出に浸ってでもいるように、恍惚とした笑顔を浮かべて語っていた。
「それは、少し解る気がする――」
吉野はヘンリーのヴァイオリンを思い出し、頷いた。
「でも、」
「でも、魔法はその内効き目が薄れてくるだろ? 彼さえ傍にいてくれたらなんでも叶うんじゃないか、って思うのに、彼を独り占めにはできないんだ。みんなが彼を欲しがるようになって、結局、疎まれてしまったんだよ」
「それが、あいつがこの学校を出ていった理由?」
「愛想をつかされていたのは、確かだね」
「俺が前に聞いた理由は、」
「これだろ?」
チャールズは、自分の左腕の内側を右手の人差し指ですっとなぞる。
「レイシストに怒ったからだって。あいつの彼女がカラードだから――」
訝しげな吉野を一瞥すると、内緒話をするように声を落として悪戯っぽく笑い、「そういう事になっているけれどね。信じがたい話だったから。でも、きみには教えてあげるよ」とチャールズは、吉野の耳にそっと口を寄せて囁いた。
「妹だよ。腹違いの」
「いもうと?」
吉野は唖然として立ち止まり、目を見張ってチャールズに食ってかかった。
「嘘だろ? 恋人でも、姉でもなくて、妹? 妹って、いくつなんだ!」
「詳しくは知らない。でも嘘じゃないよ。僕はあの時、その場にいたんだから」
「チャールズ、先に戻っている!」
吉野は、振り返りもせずに駆け出していた。
妹――。
シューニヤがサラで、サラは、アーカシャーHDのCEOで――。
どうなっているんだ? 飛鳥がずっと憧れていた相手が、ヘンリーの妹だなんて!?
傾きだした陽差しを映して茜色に染まる水辺に立つと、樹々の黒々とした影の合間に金色の光彩が乱反射する水面に、滑るように緩やかに揺蕩う影を見つけ、目で追った。逆光に目を眇めながら、その影の主を呼ぶ。
「ヨシノ!」
パシャッ、と水面を叩いてその影は動きを止め、振り返る。チャールズは呆れたように肩をすくめた。
「まさか、本当に泳いでいるとは思わなかったよ」
吉野は邪魔され、不愉快そうに顔をしかめている。
「上がっておいで。風邪をひくよ、まだ水は冷たいだろうに」
「そんなやわじゃない」
不機嫌さを隠そうともせず、そのままついーと水中を漂うように移動する。
「ヨシノ!」
生徒会絡みのアレンの問題は、ヘンリーの鶴の一声であっという間に収束した。何カ月もかかって、ようやくあそこまでたどり着けたのに、ヘンリーは何もかも解っていて高みから見物し、ただ気まぐれにそのゲームを終わらせた。吉野には、そうとしか思えなかったのだ。アレンにしても、決して守ってやれていた訳ではなかった。何度も傷つけ、怪我をさせた。いつも、すんでのところで間に合わなかった。
やり切れない想いを、水中に潜って水底に沈めてくることで、やっと、心の平静を保てていたのに――。
水面で顔を逸らし、吉野は深くため息をつく。
「あーあ。冬の間は誰にも邪魔されなかったのに――」
諦めたようにのろのろと岸辺に寄ると、ざっと、勢いよく水しぶきを上げ立ちあがった。チャールズは、行儀よく顔を背け、また苦笑している。
「ほんとに裸で泳いでいるとはね。寒くはないの?」
「もう暖かいよ。水温もかなり上がっている」
吉野は右手のギプスに巻いたビニール袋を外し、大雑把に身体を拭いて制服を身につけながら答えた。もうその声には先程までのような険は残っていない。
「まさか、冬の間もずっと泳いでいた?」
「あんたでも把握していないことがあるんだな」
髪に残る滴を払うように頭を振って、痺れる肌の表面を掌でごしごしとこすっている。
ずっと逃げ場所にしていたジャックのパブも、今ではすっかりエリオット校の溜まり場だ。
反省室からロープを使って逃げ出したのも、あっと言う間に広まって、安心して過ごすことの出来ていた大好きな林で、ツリーイングが大流行だ。いつ行っても、誰かが木に登っていやがる。流行らせた犯人はクリスだって判っているから、文句も言えやしない――。
「もうこれ以上、俺の聖域を奪うなよ」
悔しいような、情けないような想いで、チャールズの背中に向かって呟いた。
「はははっ、彼と同じことを言うんだね」
可笑しそうに笑うチャールズの首筋に、吉野は氷のように冷えきった手を当ててやった。
ぎゃっ、と飛びあがるその姿を、思いっきり笑ってやった。
「ヘンリー? ああ、あいつもここが好きだって言っていたな。どうしてかは知らないけど」
「故郷の景色に似ているんだそうだよ」
チャールズは首筋を摩擦し温めながら、顔をしかめて呆れ返ったように呟いた。
「ほら、やっぱり冷えきっているじゃないか。さぁ、帰るよ」
「前に、同じ寮に暮らす奴らは家族みたいなものだって言っていただろ? 寮長は、家長みたいなもん?」
「そうだね……。家長は、寮監かな。寮長は、兄弟仲良く暮らせるように目を光らせている長兄だね」
沈みかけた夕日の中を、足下のクロッカスを踏みつけないように気をつけながら、肩を並べて帰路についた。
「ここのほとんど奴らは、ただ上の顔色を窺って従順に従うだけだけど、それ以外は、気をひきたくて悪さしたり、好きすぎて逆に憎んだり、親の関心を向けさせるのに必死な子どもみたいだ」
「中でもきみが、一番手のかかるやんちゃ坊主だけれどね」
澄ました顔で答えるチャールズに、「ヘンリーって、一体何なの?」と吉野は真顔で訊ねた。
「憧れとか、ヒーローだとか、そんなものじゃないだろ? なんで皆、あいつの影をいつまでも追いかけてるんだ?」
「うーん――。そうだね。彼が僕を見るだろ、そして優しく微笑みかけてくれる、『きみはすごいね!』て褒めてくれる。それだけで特別に上等な人間になれたような気がするんだよ。自分を信じて愛せるようになる。どんなことでもできる気がする。彼は、そんな魔法をかけてくれるんだよ」
チャールズはしみじみと思い出に浸ってでもいるように、恍惚とした笑顔を浮かべて語っていた。
「それは、少し解る気がする――」
吉野はヘンリーのヴァイオリンを思い出し、頷いた。
「でも、」
「でも、魔法はその内効き目が薄れてくるだろ? 彼さえ傍にいてくれたらなんでも叶うんじゃないか、って思うのに、彼を独り占めにはできないんだ。みんなが彼を欲しがるようになって、結局、疎まれてしまったんだよ」
「それが、あいつがこの学校を出ていった理由?」
「愛想をつかされていたのは、確かだね」
「俺が前に聞いた理由は、」
「これだろ?」
チャールズは、自分の左腕の内側を右手の人差し指ですっとなぞる。
「レイシストに怒ったからだって。あいつの彼女がカラードだから――」
訝しげな吉野を一瞥すると、内緒話をするように声を落として悪戯っぽく笑い、「そういう事になっているけれどね。信じがたい話だったから。でも、きみには教えてあげるよ」とチャールズは、吉野の耳にそっと口を寄せて囁いた。
「妹だよ。腹違いの」
「いもうと?」
吉野は唖然として立ち止まり、目を見張ってチャールズに食ってかかった。
「嘘だろ? 恋人でも、姉でもなくて、妹? 妹って、いくつなんだ!」
「詳しくは知らない。でも嘘じゃないよ。僕はあの時、その場にいたんだから」
「チャールズ、先に戻っている!」
吉野は、振り返りもせずに駆け出していた。
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