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四章
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「あれ、今の彼、芝生を横切った! ブルー・タイなのに!」
声を上げて振り返った一学年生を、傍にいた友人が声を潜めて窘める。
「馬鹿、今のが銀ボタンのヨシノ・トヅキだよ。監督生と同じ特権があるんだよ、銀ボタンには」
監督生と同等の権利はあるが、その負うべき義務はない――。それが、学業のみに専念することを許された銀ボタンの特権だ。
スカラーのローブを翻し、春の日差しに照り返す鮮やかな緑の中央を突っ切っていく五、六人の一団を、憧れと尊敬の眼差しが追いかける。
「彼がスカラーのトップのヨシノ――。本物に会えるなんて、なんてラッキーなんだ! 友達に自慢しなくちゃ!」
その一学年生たちは歓声を上げ、頬を紅潮させて有頂天で噂話を始めていた。
麗らかな陽光の下、少し離れたベンチに腰かけてその様子を眺めていたクリスは、もどかしそうに溜息をつく。
「ヨシノ、僕らに気がつきもしなかったね」
のんびりとベンチの背にもたれ、フレデリックも残念そうに笑う。
「気がつかなくて良かったよ。あの連中と一緒なんだもの」
クリスは、騒がしい一学年生たちに眉をひそめてぷいっと顔を背けると、大袈裟にもう一度、溜息をつく。
「最近、またヨシノが荒れてきているんだ」
「ああ見えて、騒がれるの嫌いだもんねぇ、彼――」
傍らのフレデリックの同意に、クリスはふくれっ面で頷いた。
「寮の部屋から一歩でも出れば、待ちかまえている上級生につかまるし、学校じゃ常に誰かに囲まれているし、息をつける暇がないって感じだよ。カレッジ寮の下級生組はみんな、ヨシノが少しでも休めるように気を使っているのにさ。これじゃ、意味がないよ」
「彼にしては、よく我慢しているよねぇ。夜も抜けださなくなったし」
「最近、ヨシノ、夜中寝ていないんだよ。ずっとTSで何かしている」
「日本市場を見ているのかな?」
「――よくは、知らない」
フレデリックは嫌そうな顔をして俯いたクリスを宥めるように、優しく微笑んだ。
「でも、もうイースター休暇じゃないか。今回は、彼も君ん家に行くんだろ? お兄さんはスイスだって言ってたよ」
「うん! きみもおいでよ。サウードも一緒に滞在してくれるからさ」
「ありがとう、きみさえかまわないのなら、そうさせてもらおうかな」
フレデリックは曖昧な笑みを浮かべて、右手を差し出す。
「やった! これで後はアレンさえいれば、」言いかけて、クリスは握り返していた手を滑り落とすように離した。
訝し気に見つめられ、「――きみには黙っていたけれど、本当はすごく、ショックだったんだよ。僕はずっとヘンリー・ソールスベリーを尊敬していたから……。きみだって、そうでしょ?」クリスは迷いながらも、腹立たしげに呟いた。
「ヨシノはすごく無理をしているんだ。彼との約束を守るためにあんな連中の相手までして――」
「約束?」
「ソールスベリー先輩が、ヨシノに無理難題を吹っかけたんだ。それができれば、フェイラーのお祖父さまにアレンが学校に戻ってこられるよう頼んでやるからって」
「無理難題って何?」
「その元手じゃ全然足りないのが判っているのに、フェイラー社の株式の3%を買えって。だからヨシノ、夜も寝ないで必死になって、お金を増やすための投資をしているんだ」
悔しそうにクリスは唇を引き結び、「僕だってヨシノを、――それにアレンだって助けてあげたいのに、金額が大きすぎて何の役にも立てないんだよ……」と、消え入りそうな声で呟いた。
「サウードみたいに、自分のお金を動かせられればいいのに……」
代々銀行家の家系とはいえ、厳しく育てられてきたクリスには、日常に必要なわずかな小遣いしか渡されていない。自分名義の貯金くらいあるのだろうが、両親が管理しているので幾らあるのかすら判らない。僕も投資がしてみたい、とさりげなく伝えてはみたが、お前にはまだ早い、と父には一笑にふされてしまった。
「どうして彼、そんなことを言ったんだろうね?」
フレデリックは首を捻って不思議そうに呟いた。
「だって、おかしいよそんなの。ヨシノは未成年だし、学生だし、そんな何億ポンドもの投資活動ができる訳がないじゃないか」
「だから、無理難題なんだって。きっと、彼はヨシノのことが好きじゃないんだよ。だからヨシノに意地悪で言ったんだ」
吐き捨てるように答えたクリスに、フレデリックは慰めるような微笑みを向けた。
「そうかな、そうは見えなかったよ――。彼、ヨシノのことも、ヨシノのお兄さんのことも、すごく大切にしていたよ。傍目にも判るくらいに……。きっと何か理由があるんだよ」
一度だけ遇ったことのあるヘンリーを思いだしながら、フレデリックは見るでもなく、相変わらず噂話に花を咲かせて騒いでいる一学年生たちに視線を向けた。久しぶりの晴天に次々と学舎から出てくる生徒たちの中で、一回り体格が小さく、そのくせ、一回り甲高い笑い声を響かせる、一学年生たちのじゃれあってはしゃぎあう子どもらしい馬鹿騒ぎを眺めていたフレデリックの口許から、ふんわりと柔らかい笑みがこぼれた。
「――ねぇ、僕らも一年前は、あんなふうだったのかなぁ?」
クリスは訝し気に顔を上げ、フレデリックの視線の先を追った。
「ヨシノだけは、昔っから違っていたね。昔っていっても、たった一年半か……。もうずっと以前から彼のことを知っているような気分なんだ。家族より、幼馴染よりずっと、彼は僕の中で大きな存在なんだよ。だからかなぁ、僕は信じているんだ。ヨシノならどんな無理難題だってこなしてくれるって」
フレデリックはそれ以上何も言わずに目を瞑り、脱力して、肌を焼くいまだ柔らかな日差しに神経を集中させた。そのまま沈黙が二人を覆う。だがこの沈黙は先ほどまでとは違い、優しく暖かくクリスを包み込んでいた。
いくばくかの後、クリスは無理に口角を上げ微笑んで言った。
「僕だって、きみに負けないくらいヨシノのこと信じているよ。カレッジ寮の仲間は、一人たりとも欠けちゃ駄目なんだ。ヨシノが一番そのことを判っている。ヨシノなら――」
ベンチの背もたれに両腕を伸ばし、声を詰まらせ、ぐっと歯を食い縛って俯いたクリスの肩を、フレデリックはそっと叩いた。
そして、「信じて、待つんだよ。僕たちはみんな同じ想いを抱えているのだから」と目を瞑ったまま、雲一つない青空に顔を向け、囁くように呟いた。
声を上げて振り返った一学年生を、傍にいた友人が声を潜めて窘める。
「馬鹿、今のが銀ボタンのヨシノ・トヅキだよ。監督生と同じ特権があるんだよ、銀ボタンには」
監督生と同等の権利はあるが、その負うべき義務はない――。それが、学業のみに専念することを許された銀ボタンの特権だ。
スカラーのローブを翻し、春の日差しに照り返す鮮やかな緑の中央を突っ切っていく五、六人の一団を、憧れと尊敬の眼差しが追いかける。
「彼がスカラーのトップのヨシノ――。本物に会えるなんて、なんてラッキーなんだ! 友達に自慢しなくちゃ!」
その一学年生たちは歓声を上げ、頬を紅潮させて有頂天で噂話を始めていた。
麗らかな陽光の下、少し離れたベンチに腰かけてその様子を眺めていたクリスは、もどかしそうに溜息をつく。
「ヨシノ、僕らに気がつきもしなかったね」
のんびりとベンチの背にもたれ、フレデリックも残念そうに笑う。
「気がつかなくて良かったよ。あの連中と一緒なんだもの」
クリスは、騒がしい一学年生たちに眉をひそめてぷいっと顔を背けると、大袈裟にもう一度、溜息をつく。
「最近、またヨシノが荒れてきているんだ」
「ああ見えて、騒がれるの嫌いだもんねぇ、彼――」
傍らのフレデリックの同意に、クリスはふくれっ面で頷いた。
「寮の部屋から一歩でも出れば、待ちかまえている上級生につかまるし、学校じゃ常に誰かに囲まれているし、息をつける暇がないって感じだよ。カレッジ寮の下級生組はみんな、ヨシノが少しでも休めるように気を使っているのにさ。これじゃ、意味がないよ」
「彼にしては、よく我慢しているよねぇ。夜も抜けださなくなったし」
「最近、ヨシノ、夜中寝ていないんだよ。ずっとTSで何かしている」
「日本市場を見ているのかな?」
「――よくは、知らない」
フレデリックは嫌そうな顔をして俯いたクリスを宥めるように、優しく微笑んだ。
「でも、もうイースター休暇じゃないか。今回は、彼も君ん家に行くんだろ? お兄さんはスイスだって言ってたよ」
「うん! きみもおいでよ。サウードも一緒に滞在してくれるからさ」
「ありがとう、きみさえかまわないのなら、そうさせてもらおうかな」
フレデリックは曖昧な笑みを浮かべて、右手を差し出す。
「やった! これで後はアレンさえいれば、」言いかけて、クリスは握り返していた手を滑り落とすように離した。
訝し気に見つめられ、「――きみには黙っていたけれど、本当はすごく、ショックだったんだよ。僕はずっとヘンリー・ソールスベリーを尊敬していたから……。きみだって、そうでしょ?」クリスは迷いながらも、腹立たしげに呟いた。
「ヨシノはすごく無理をしているんだ。彼との約束を守るためにあんな連中の相手までして――」
「約束?」
「ソールスベリー先輩が、ヨシノに無理難題を吹っかけたんだ。それができれば、フェイラーのお祖父さまにアレンが学校に戻ってこられるよう頼んでやるからって」
「無理難題って何?」
「その元手じゃ全然足りないのが判っているのに、フェイラー社の株式の3%を買えって。だからヨシノ、夜も寝ないで必死になって、お金を増やすための投資をしているんだ」
悔しそうにクリスは唇を引き結び、「僕だってヨシノを、――それにアレンだって助けてあげたいのに、金額が大きすぎて何の役にも立てないんだよ……」と、消え入りそうな声で呟いた。
「サウードみたいに、自分のお金を動かせられればいいのに……」
代々銀行家の家系とはいえ、厳しく育てられてきたクリスには、日常に必要なわずかな小遣いしか渡されていない。自分名義の貯金くらいあるのだろうが、両親が管理しているので幾らあるのかすら判らない。僕も投資がしてみたい、とさりげなく伝えてはみたが、お前にはまだ早い、と父には一笑にふされてしまった。
「どうして彼、そんなことを言ったんだろうね?」
フレデリックは首を捻って不思議そうに呟いた。
「だって、おかしいよそんなの。ヨシノは未成年だし、学生だし、そんな何億ポンドもの投資活動ができる訳がないじゃないか」
「だから、無理難題なんだって。きっと、彼はヨシノのことが好きじゃないんだよ。だからヨシノに意地悪で言ったんだ」
吐き捨てるように答えたクリスに、フレデリックは慰めるような微笑みを向けた。
「そうかな、そうは見えなかったよ――。彼、ヨシノのことも、ヨシノのお兄さんのことも、すごく大切にしていたよ。傍目にも判るくらいに……。きっと何か理由があるんだよ」
一度だけ遇ったことのあるヘンリーを思いだしながら、フレデリックは見るでもなく、相変わらず噂話に花を咲かせて騒いでいる一学年生たちに視線を向けた。久しぶりの晴天に次々と学舎から出てくる生徒たちの中で、一回り体格が小さく、そのくせ、一回り甲高い笑い声を響かせる、一学年生たちのじゃれあってはしゃぎあう子どもらしい馬鹿騒ぎを眺めていたフレデリックの口許から、ふんわりと柔らかい笑みがこぼれた。
「――ねぇ、僕らも一年前は、あんなふうだったのかなぁ?」
クリスは訝し気に顔を上げ、フレデリックの視線の先を追った。
「ヨシノだけは、昔っから違っていたね。昔っていっても、たった一年半か……。もうずっと以前から彼のことを知っているような気分なんだ。家族より、幼馴染よりずっと、彼は僕の中で大きな存在なんだよ。だからかなぁ、僕は信じているんだ。ヨシノならどんな無理難題だってこなしてくれるって」
フレデリックはそれ以上何も言わずに目を瞑り、脱力して、肌を焼くいまだ柔らかな日差しに神経を集中させた。そのまま沈黙が二人を覆う。だがこの沈黙は先ほどまでとは違い、優しく暖かくクリスを包み込んでいた。
いくばくかの後、クリスは無理に口角を上げ微笑んで言った。
「僕だって、きみに負けないくらいヨシノのこと信じているよ。カレッジ寮の仲間は、一人たりとも欠けちゃ駄目なんだ。ヨシノが一番そのことを判っている。ヨシノなら――」
ベンチの背もたれに両腕を伸ばし、声を詰まらせ、ぐっと歯を食い縛って俯いたクリスの肩を、フレデリックはそっと叩いた。
そして、「信じて、待つんだよ。僕たちはみんな同じ想いを抱えているのだから」と目を瞑ったまま、雲一つない青空に顔を向け、囁くように呟いた。
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