胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
225 / 758
四章

しおりを挟む
「あれ、今の彼、芝生を横切った! ブルー・タイなのに!」
 声を上げて振り返った一学年生を、傍にいた友人が声を潜めて窘める。
「馬鹿、今のが銀ボタンのヨシノ・トヅキだよ。監督生と同じ特権があるんだよ、銀ボタンには」

 監督生と同等の権利はあるが、その負うべき義務はない――。それが、学業のみに専念することを許された銀ボタンの特権だ。
 スカラーのローブを翻し、春の日差しに照り返す鮮やかな緑の中央を突っ切っていく五、六人の一団を、憧れと尊敬の眼差しが追いかける。

「彼がスカラーのトップのヨシノ――。本物に会えるなんて、なんてラッキーなんだ! 友達に自慢しなくちゃ!」
 その一学年生たちは歓声を上げ、頬を紅潮させて有頂天で噂話を始めていた。




 麗らかな陽光の下、少し離れたベンチに腰かけてその様子を眺めていたクリスは、もどかしそうに溜息をつく。
「ヨシノ、僕らに気がつきもしなかったね」
 のんびりとベンチの背にもたれ、フレデリックも残念そうに笑う。

「気がつかなくて良かったよ。あの連中と一緒なんだもの」
 クリスは、騒がしい一学年生たちに眉をひそめてぷいっと顔を背けると、大袈裟にもう一度、溜息をつく。

「最近、またヨシノが荒れてきているんだ」
「ああ見えて、騒がれるの嫌いだもんねぇ、彼――」
 傍らのフレデリックの同意に、クリスはふくれっ面で頷いた。

「寮の部屋から一歩でも出れば、待ちかまえている上級生につかまるし、学校じゃ常に誰かに囲まれているし、息をつける暇がないって感じだよ。カレッジ寮うちのりょうの下級生組はみんな、ヨシノが少しでも休めるように気を使っているのにさ。これじゃ、意味がないよ」
「彼にしては、よく我慢しているよねぇ。夜も抜けださなくなったし」
「最近、ヨシノ、夜中寝ていないんだよ。ずっとTSで何かしている」
「日本市場を見ているのかな?」
「――よくは、知らない」

 フレデリックは嫌そうな顔をして俯いたクリスを宥めるように、優しく微笑んだ。

「でも、もうイースター休暇じゃないか。今回は、彼も君ん家に行くんだろ? お兄さんはスイスだって言ってたよ」
「うん! きみもおいでよ。サウードも一緒に滞在してくれるからさ」
「ありがとう、きみさえかまわないのなら、そうさせてもらおうかな」

 フレデリックは曖昧な笑みを浮かべて、右手を差し出す。

「やった! これで後はアレンさえいれば、」言いかけて、クリスは握り返していた手を滑り落とすように離した。
 訝し気に見つめられ、「――きみには黙っていたけれど、本当はすごく、ショックだったんだよ。僕はずっとヘンリー・ソールスベリーを尊敬していたから……。きみだって、そうでしょ?」クリスは迷いながらも、腹立たしげに呟いた。

「ヨシノはすごく無理をしているんだ。彼との約束を守るためにあんな連中の相手までして――」
「約束?」
「ソールスベリー先輩が、ヨシノに無理難題を吹っかけたんだ。それができれば、フェイラーのお祖父さまにアレンが学校に戻ってこられるよう頼んでやるからって」
「無理難題って何?」
「その元手じゃ全然足りないのが判っているのに、フェイラー社の株式の3%を買えって。だからヨシノ、夜も寝ないで必死になって、お金を増やすための投資をしているんだ」

 悔しそうにクリスは唇を引き結び、「僕だってヨシノを、――それにアレンだって助けてあげたいのに、金額が大きすぎて何の役にも立てないんだよ……」と、消え入りそうな声で呟いた。
「サウードみたいに、自分のお金を動かせられればいいのに……」


 代々銀行家の家系とはいえ、厳しく育てられてきたクリスには、日常に必要なわずかな小遣いしか渡されていない。自分名義の貯金くらいあるのだろうが、両親が管理しているので幾らあるのかすら判らない。僕も投資がしてみたい、とさりげなく伝えてはみたが、お前にはまだ早い、と父には一笑にふされてしまった。

「どうして彼、そんなことを言ったんだろうね?」
 フレデリックは首を捻って不思議そうに呟いた。
「だって、おかしいよそんなの。ヨシノは未成年だし、学生だし、そんな何億ポンドもの投資活動ができる訳がないじゃないか」
「だから、無理難題なんだって。きっと、彼はヨシノのことが好きじゃないんだよ。だからヨシノに意地悪で言ったんだ」

 吐き捨てるように答えたクリスに、フレデリックは慰めるような微笑みを向けた。

「そうかな、そうは見えなかったよ――。彼、ヨシノのことも、ヨシノのお兄さんのことも、すごく大切にしていたよ。傍目にも判るくらいに……。きっと何か理由があるんだよ」


 一度だけ遇ったことのあるヘンリーを思いだしながら、フレデリックは見るでもなく、相変わらず噂話に花を咲かせて騒いでいる一学年生たちに視線を向けた。久しぶりの晴天に次々と学舎から出てくる生徒たちの中で、一回り体格が小さく、そのくせ、一回り甲高い笑い声を響かせる、一学年生たちのじゃれあってはしゃぎあう子どもらしい馬鹿騒ぎを眺めていたフレデリックの口許から、ふんわりと柔らかい笑みがこぼれた。


「――ねぇ、僕らも一年前は、あんなふうだったのかなぁ?」

 クリスは訝し気に顔を上げ、フレデリックの視線の先を追った。

「ヨシノだけは、昔っから違っていたね。昔っていっても、たった一年半か……。もうずっと以前から彼のことを知っているような気分なんだ。家族より、幼馴染よりずっと、彼は僕の中で大きな存在なんだよ。だからかなぁ、僕は信じているんだ。ヨシノならどんな無理難題だってこなしてくれるって」

 フレデリックはそれ以上何も言わずに目を瞑り、脱力して、肌を焼くいまだ柔らかな日差しに神経を集中させた。そのまま沈黙が二人を覆う。だがこの沈黙は先ほどまでとは違い、優しく暖かくクリスを包み込んでいた。

 いくばくかの後、クリスは無理に口角を上げ微笑んで言った。

「僕だって、きみに負けないくらいヨシノのこと信じているよ。カレッジ寮の仲間は、一人たりとも欠けちゃ駄目なんだ。ヨシノが一番そのことを判っている。ヨシノなら――」

 ベンチの背もたれに両腕を伸ばし、声を詰まらせ、ぐっと歯を食い縛って俯いたクリスの肩を、フレデリックはそっと叩いた。
 そして、「信じて、待つんだよ。僕たちはみんな同じ想いを抱えているのだから」と目を瞑ったまま、雲一つない青空に顔を向け、囁くように呟いた。





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする

夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】 主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。 そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。 「え?私たち、付き合ってますよね?」 なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。 「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

処理中です...