胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 ロンドンから北へ向かって三時間半の丘陵地にあるベンジャミンの故郷は、英国らしい穏やかで牧歌的な田園風景が広がる美しい、だがそれ以外取り立てて何もなさそうな田舎だった。
 先に停車したベンジャミンの車に続いて、アレンは、サウード、イスハークと共にリムジンから降りたち辺りを見回した。厳しく威圧するかのような壮麗なゴシック様式の邸宅を頭上に仰ぐ。

「ようこそ、我が家へ」
 ニコニコと微笑みながら両腕を広げるベンジャミンは普段と変わらぬ制服姿であるにもかかわらず、アレンには別人のように見えた。

 この人は、兄と同じ――。

 貴族の嫡男として生まれ、その双肩に広大な領地と何世代もかけて培われた一族の誇りを負って生きているのだ。一見して軽く見られがちな無邪気で陽気な性格が、容姿端麗で貴族然としたその容貌を、アレンが尊敬してやまない兄ヘンリー・ソールスベリーよりも、よほど親しみやすく見せていたにすぎない。

 玄関口まで出迎えた執事が、ベンジャミンの耳許で何か囁いている。彼は表情を引きしめ、アレンにいたわるような、優しげな視線を向けた。

「セディはもう到着しているそうだよ。どうする? 君たちも疲れているだろうし、彼に会う前に少し休むかい?」
 アレンは不安気な瞳でサウードを窺う。
「先に休ませて下さい」
 しっかりした声音でサウードが答えた。




 ノックの音にアレンはおずおずとドアを開けた。自国の民族衣装である白いサウブを着、その上に縁を金で刺繍された黒いベシュトを羽織ったサウードが佇んでいる。

「きみ、その服の方がずっときみらしく見えるね」
 お世辞ではなく自然と浮かんだ微笑に、サウードも笑顔で応える。

「イスハークは?」
「廊下で待たせているよ。――きみ、大丈夫かい?」

 後ろ手にドアを閉め、サウードは心配そうな声で訊ねた。

 アレンの伏せられた金色の睫毛は微かに震え、蒼白な顔面に唇だけが異様に紅く扇情的に映えて見えた。思わず顔を逸らし、サウードはあらぬ方向に視線を漂わせながら言葉を続けた。

「もし、きみが彼に会うのが辛いのなら、僕だけ話を聞いてきたってかまわないんだよ」

 アレンは哀しそうな瞳で小さく嗤った。

 知っているのだ――。何があったのか、彼も知っているのだ。

 医療棟から戻ってきた時の、皆の憐れみを含んだ目、生徒会の連中が辞任した時の、怒りと同情の混ぜこぜになった視線――。思いだしたくもない惨めな辛い日々。嫌なことばかりが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

 ヨシノだけだ、ヨシノだけは、決して僕を憐れんだりはしなかった――。

 アレンはぎゅっと左手で右手首を握りしめる。

「それ、きみの癖なの? いつもそうしているね」
 気遣うサウードの柔らかい声が、アレンを現実に引き戻す。
「これね、おまじないなんだ」
 ジャケットの袖を引き、右手首に巻かれたミサンガをサウードによく見えるようにと晒した。
「ヨシノも同じものを身につけているね」
「うん、強くなるためのおまじないだよ」

 アレンは微笑んでポケットからヘアワックスを取りだし指先に馴染ませると、肩まであるふわりと柔らかい金髪をぴっちりと撫でつけ、後頭部で括る。

「ほら、こうすると僕だって兄に似て見えるだろ? ブラッドリーにはこの方がいい。彼は僕なんか見てやしないのだから」





「セディの謝罪をきみが受け入れてくれて、ここにこうしてきみ達を迎えることができて、こんな嬉しいことはないよ」

 軽やかなライトブルーで統一されたティールームで、ベンジャミンはソファーから立ちあがり、にこやかに、だが若干の緊張感を漂わせて、執事に案内されてやっと姿を見せたアレンとサウードを迎えた。

 瞳と同じ明るい青紫のスーツに着替えたアレンは、ベンジャミンの傍らに立つセドリックを緊張した面持ちのまま睨めつけて言った。

「謝罪? 僕はそんな要件で伺ったのではありません」

 アレンがこの部屋に入ってきた時から、その瞳に憧憬と悔恨とをごちゃ混ぜにした不安定な色をのせていたセドリックは、唇を引き結んでわずかに項垂れる。アレンは、そんな彼から目を離すことなくゆっくりと向かいのソファーに腰を下ろした。

「さぁ、約束を守って下さい」
「――パトリック・ウェザー」

 セドリックは、ベンジャミンから顔を背けるようにして、立ち尽くしたまま辛そうな声で告げた。

「え?」
 意味が判らずベンジャミンは、まず一番に親友の顔を、次いで厳しい表情を崩そうとしないアレンを、そして同じく冷めた視線をセドリックに向けるサウードを、順繰りに見比べる。

「副寮長が何だって?」
 怪訝そうにセドリックの腕を掴んで、その顔を覗きこむ。

「パットが、ヨシノ・トヅキを嵌めたんだ」
 セドリックは掠れた声で言葉を継いだ。
「あいつは、俺やお前の信奉者だ。俺たちが生徒会を辞任したことにショックを受けていた。その上、今年度の銀ボタンはお前だと、皆信じていたのに、トヅキがケンブリッジ早期入学を盾に横からかっさらった。それなのにあいつは、その受験さえ取り止めて平気な顔をしている。許せなかったんだそうだ」

 茫然と立ち尽くしていたベンジャミンは、力が抜けきったようにドスンとソファーに崩れ落ちた。

「まさかパットが……」

 自分の片腕としてもっとも信頼していた一つ下の友人の名前に、ベンジャミンは怒りよりも、深い失望感と損失感に駆られていた。同じ監督生として他の誰よりも信頼し、次年度の寮長を彼に任せることは、ずっと以前から決定していたことなのに――。

「ヨシノを放校にして、空いたスカラーの枠にテリー・ギブソンを入れるつもりだったそうだ」
「テリー……、次年度の生徒会役員だな」

 オピダン・スカラーのテリーは、入学時からの奨学生ではないけれど、在学中めきめきとその才能を開花させスカラーに選ばれた優秀な生徒だ。ベンジャミンも生徒会に在籍していた頃から、同じボート部の後輩であるテリーを可愛がってきた。確かに、カレッジ寮生が成績を維持できなかったり、転校を余儀なくされ空きができたときは、オピタン・スカラーがカレッジ寮に移ることも、まれにではあるがないことはなかった。でもだからといって――。

「お前の弟が次年度入学してくるだろう? そのための体制作りさ」
「何て馬鹿なことを……」

 淡々と語るセドリックに、ベンジャミンは我慢できない様子で首を振る。

「次年度の銀ボタンもヨシノに決定している。ケンブリッジなんて関係ない。彼の論文が、マスマティカル・サイエンスに掲載されるんだ。彼の優秀さは、そんな汚い手で引き摺りおろされるような柔なものなんかじゃない。皆、彼のことを解っていないんだ!」

 ベンジャミンは悔しそうに顔を歪め、奥歯をギリギリと噛みしめていた。徐々に腹の底から沸々と怒りが込みげてくるのを自覚し、気持ちを落ちつけようと、何度も大きく息を吸い込んではゆっくりと吐きだす。

「それで、きみ達はセディから真相を聞くために、ここまで来てくれたんだね?」

 アレンとサウードは順繰りに頷く。

「ありがとう。パットとテリーの処分は僕がきちんと申し渡すよ。寮長としての、いや、監督生としての最後の務めだ」
「次年度の寮長の首をすげ替えると?」

 ここに来て初めてサウードが口を開く。ベンジャミンは厳しい面持ちのままそれに応えた。

「パットの監督生の地位の剥奪と副寮長の任務の解任、テリーは生徒会の選挙をやり直してもらう」
「ヨシノはそれを望んでいません」

 サウードの意外な言葉に、全員、唖然として目を見開き彼を凝視していた。そんな彼らの視線など一向に意に介することなく、サウードは続けて言った。

「もし寮長がそのような決定を下すのなら、全力で止めてほしい。そうヨシノに頼まれたから僕はここに来たのです」





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