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五章
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コルク敷の床と、白い壁に囲まれたガランとした部屋の中央にグランドピアノが一台、それ以外にはソファーとローテーブル、小さなキャビネット、それに簡易ベッドが一つ。それだけだ。
「アレン、ごめんねぇ。今度の引っ越し先、大学から離れているからさ、けっこうまだこっちも使っていてさ、部屋がここしか空いてないんだぁ」
驚いたように立ち尽くしていたアレンは、ゆっくりとデヴィッドを見やり、またすぐにピアノに目を移した。ほのかに頬を紅潮させ、わずかに瞳を潤ませて身動き一つせず、じっとそのピアノを見つめている。
「それ、リチャード叔父さんのピアノだよ」
デヴィッドの言葉に、アレンはかすかに頷く。緊張に身を強張らせながら手を伸ばし、ピアノの前框に記されたソールスベリー家の紋章にそっと触れる。
「弾いても? 」
憧憬で溢れる瞳でデヴィッドを振り返る。
「いいよぉ。ここ防音室だしぜんぜんかまわないよ。そのピアノ、年に一回は調律に来てもらっているし、大丈夫、弾けると思うよぉ」
デヴィッドがお茶を淹れにその場を外してから、アレンは静かに鍵盤蓋を開け、その前に腰かけた。でも一向に鍵盤には手を触れようとはせずに、感慨深げに見つめているだけだ。
「こんなところにあったなんて」
アレンは嬉しそうに、出窓に腰かける吉野を見やる。
「このピアノ、マーシュコートにあると思っていた」
「向こうには別のピアノがあったよ。そのピアノ、リチャードのじゃなくてジョージのだって聞いている」
「うん。叔父が大学に入った時、父が譲ったんだそうだよ」
アレンは喋りながら、ポロンと、人差し指で一音を押した。
「このピアノを弾いている父の写真があるんだ。結婚前の古い写真でね」
ゆっくりと、そして次第に速く、アレンは鍵盤に指を走らせていく。
「お前、パガニーニは嫌いなんだろう?」
アレンの指先が紡ぎだす大嫌いな「カプリース№24」に、吉野は無表情に呟いた。いまやパガニーニの「カプリース№24」は、ヘンリーの代名詞だ。誰もがそう思い、吉野自身もそう感じている。
「兄が言ったの?」
指を動かし続けながら、アレンは微笑んだ。
「兄は誤解しているんだよ」
最後まで弾ききってから、少し興奮したように頬を染め、声高に続けた。
「僕の兄に関する最初の記憶は三歳の時でね。僕はその日、招待客の前でピアノを披露しなくちゃいけなくて、それが嫌で嫌でたまらなかったんだ。僕の前に兄がこの曲を奏でていた。幼かった僕でも判るほど見事な演奏で、自分の番が来るのが益々怖くなった」
アレンは堪えきれない様子で肩をすくめ、クスクス笑いだした。
「それで、とうとう我慢仕切れなくて、怖いって泣きだしてしまったんだ。兄は自分のせいだと思って、僕の代わりにもう一曲弾いてくれ、僕はその場で惨めな思いをせずにすんだんだ。その日から、兄はずっと僕の守護天使だよ」
アレンは熱に浮かされたように喋っているのに、どこか寂しそうな影をその表情に落としている。
「こんなこともあったよ。僕が大っ嫌いだった家庭教師がね、クリスマスで滞在していた兄にちょっかいをかけてね。兄はそいつを噴水に叩きこんで、『こんな下品な男を雇っているなんてどうかしている』ってクビにしてくれた。その時貰ったどんなクリスマスプレゼントよりも嬉しかった」
「お前、いくつの時?」
「七つ。それが最後の想い出。それ以降卒業するまで、兄が米国に来ることはなかったから」
サラが来たからか――。
吉野は窓の外を見つめたまま、ぼそりと呟いた。
「今はお前が英国にいるだろ」
「いても、ちっとも近づけないけどね。兄は僕にとって、空の星みたいな存在なんだ。兄から見ると僕はちっぽけな取るに足らないものでしかないのに、そこにいるだけで僕を見守って導いてくれている。別段、そうしようとも思わずにね」
アレンは再びピアノに視線を落とし、鍵盤をボロンと鳴らす。
「僕は、この人の子どもに生まれたかった――。兄と一緒に育てられたかったよ」
「お前は、リチャード・ソールスベリーの息子だよ。だってお前、ずっとリチャードの背中を追って生きてきたんだろ? 親父さんみたいになりたいって、ずっと憧れていたんだろ?」
だいぶ経ってから、吉野は少し怒ったようにそう言った。
アレンは一瞬目を見張り、うち震える心を吉野に気づかれないように、すぐに目を伏せて鍵盤を睨めつけた。泣きださないように、奥歯を噛みしめて。掌を握りしめて。
「お前の親父はリチャードだ。お前が選んだんだ。――ヘンリーなんか……、あいつだって、ただの人間だよ。迷いもすれば失敗もする。お前ら、よく似てるよ。やっぱ兄弟だ」
アレンは眉根を寄せ、ゆっくりと不思議そうに伏せていた視線を上げた。容姿が似ていると言われることはあっても、内面が似ていると言われたことは一度もなかったから。
「そっくりだよ。血の気が多いところと、キレると見境ないところが」
からかうように笑う吉野の瞳に、アレンもつられて微笑んだ。
「酷いな――」
それでも、喉元からクスクスと笑い声が漏れていた。わざとおどけた、吉野の気持ちが嬉しかったから。
あれから時々、吉野はこんなふうにチクリと意地悪を言う。
ロスの自宅まで来てくれた時――。自殺をほのめかしてアレンが祖父に立ち向かった時からだ。あの後少し落ちついてから、絶対に自分を傷つけるな、と吉野は散々に彼を叱った。そんなふうに誰かに怒られたのは、アレンにとっては初めての経験だった。――そして彼の崇拝する兄は、そんな吉野をとても優しい眼をして見守っていた。実の弟など、通り越して……。
「弾いて。ショパンがいい。お前にはパガニーニは似合わない」
わずかなアレンの表情の変化に、もう吉野は不機嫌な顔に戻っている。アレンは微笑んで頷き、ピアノに向かった。
お前の中には、ヘンリーみたいな狂気はないじゃないか――。
お前の方が、よほどあいつよりも強いんだぞ。いい加減、気づけよ。
と、静かな、けれど力強い旋律に遣りきれない思いを抱えたまま、吉野は眼下を見下ろしていた。だが、急に振り返り立ちあがると、慌てて声を荒げた。
「アレン、この曲はダメだ。飛鳥が来た。飛鳥、この曲を聴くと泣くんだよ」
「え?」
「ヘンリーも一緒だ。あの野郎、しこたま文句を言ってやろうと思っていたのに、飛鳥を連れてきやがった」
「立場逆転?」
優しく目を細め、くすくすと笑うアレンを、吉野はしかめっ面で見つめ返した。
「アレン、ごめんねぇ。今度の引っ越し先、大学から離れているからさ、けっこうまだこっちも使っていてさ、部屋がここしか空いてないんだぁ」
驚いたように立ち尽くしていたアレンは、ゆっくりとデヴィッドを見やり、またすぐにピアノに目を移した。ほのかに頬を紅潮させ、わずかに瞳を潤ませて身動き一つせず、じっとそのピアノを見つめている。
「それ、リチャード叔父さんのピアノだよ」
デヴィッドの言葉に、アレンはかすかに頷く。緊張に身を強張らせながら手を伸ばし、ピアノの前框に記されたソールスベリー家の紋章にそっと触れる。
「弾いても? 」
憧憬で溢れる瞳でデヴィッドを振り返る。
「いいよぉ。ここ防音室だしぜんぜんかまわないよ。そのピアノ、年に一回は調律に来てもらっているし、大丈夫、弾けると思うよぉ」
デヴィッドがお茶を淹れにその場を外してから、アレンは静かに鍵盤蓋を開け、その前に腰かけた。でも一向に鍵盤には手を触れようとはせずに、感慨深げに見つめているだけだ。
「こんなところにあったなんて」
アレンは嬉しそうに、出窓に腰かける吉野を見やる。
「このピアノ、マーシュコートにあると思っていた」
「向こうには別のピアノがあったよ。そのピアノ、リチャードのじゃなくてジョージのだって聞いている」
「うん。叔父が大学に入った時、父が譲ったんだそうだよ」
アレンは喋りながら、ポロンと、人差し指で一音を押した。
「このピアノを弾いている父の写真があるんだ。結婚前の古い写真でね」
ゆっくりと、そして次第に速く、アレンは鍵盤に指を走らせていく。
「お前、パガニーニは嫌いなんだろう?」
アレンの指先が紡ぎだす大嫌いな「カプリース№24」に、吉野は無表情に呟いた。いまやパガニーニの「カプリース№24」は、ヘンリーの代名詞だ。誰もがそう思い、吉野自身もそう感じている。
「兄が言ったの?」
指を動かし続けながら、アレンは微笑んだ。
「兄は誤解しているんだよ」
最後まで弾ききってから、少し興奮したように頬を染め、声高に続けた。
「僕の兄に関する最初の記憶は三歳の時でね。僕はその日、招待客の前でピアノを披露しなくちゃいけなくて、それが嫌で嫌でたまらなかったんだ。僕の前に兄がこの曲を奏でていた。幼かった僕でも判るほど見事な演奏で、自分の番が来るのが益々怖くなった」
アレンは堪えきれない様子で肩をすくめ、クスクス笑いだした。
「それで、とうとう我慢仕切れなくて、怖いって泣きだしてしまったんだ。兄は自分のせいだと思って、僕の代わりにもう一曲弾いてくれ、僕はその場で惨めな思いをせずにすんだんだ。その日から、兄はずっと僕の守護天使だよ」
アレンは熱に浮かされたように喋っているのに、どこか寂しそうな影をその表情に落としている。
「こんなこともあったよ。僕が大っ嫌いだった家庭教師がね、クリスマスで滞在していた兄にちょっかいをかけてね。兄はそいつを噴水に叩きこんで、『こんな下品な男を雇っているなんてどうかしている』ってクビにしてくれた。その時貰ったどんなクリスマスプレゼントよりも嬉しかった」
「お前、いくつの時?」
「七つ。それが最後の想い出。それ以降卒業するまで、兄が米国に来ることはなかったから」
サラが来たからか――。
吉野は窓の外を見つめたまま、ぼそりと呟いた。
「今はお前が英国にいるだろ」
「いても、ちっとも近づけないけどね。兄は僕にとって、空の星みたいな存在なんだ。兄から見ると僕はちっぽけな取るに足らないものでしかないのに、そこにいるだけで僕を見守って導いてくれている。別段、そうしようとも思わずにね」
アレンは再びピアノに視線を落とし、鍵盤をボロンと鳴らす。
「僕は、この人の子どもに生まれたかった――。兄と一緒に育てられたかったよ」
「お前は、リチャード・ソールスベリーの息子だよ。だってお前、ずっとリチャードの背中を追って生きてきたんだろ? 親父さんみたいになりたいって、ずっと憧れていたんだろ?」
だいぶ経ってから、吉野は少し怒ったようにそう言った。
アレンは一瞬目を見張り、うち震える心を吉野に気づかれないように、すぐに目を伏せて鍵盤を睨めつけた。泣きださないように、奥歯を噛みしめて。掌を握りしめて。
「お前の親父はリチャードだ。お前が選んだんだ。――ヘンリーなんか……、あいつだって、ただの人間だよ。迷いもすれば失敗もする。お前ら、よく似てるよ。やっぱ兄弟だ」
アレンは眉根を寄せ、ゆっくりと不思議そうに伏せていた視線を上げた。容姿が似ていると言われることはあっても、内面が似ていると言われたことは一度もなかったから。
「そっくりだよ。血の気が多いところと、キレると見境ないところが」
からかうように笑う吉野の瞳に、アレンもつられて微笑んだ。
「酷いな――」
それでも、喉元からクスクスと笑い声が漏れていた。わざとおどけた、吉野の気持ちが嬉しかったから。
あれから時々、吉野はこんなふうにチクリと意地悪を言う。
ロスの自宅まで来てくれた時――。自殺をほのめかしてアレンが祖父に立ち向かった時からだ。あの後少し落ちついてから、絶対に自分を傷つけるな、と吉野は散々に彼を叱った。そんなふうに誰かに怒られたのは、アレンにとっては初めての経験だった。――そして彼の崇拝する兄は、そんな吉野をとても優しい眼をして見守っていた。実の弟など、通り越して……。
「弾いて。ショパンがいい。お前にはパガニーニは似合わない」
わずかなアレンの表情の変化に、もう吉野は不機嫌な顔に戻っている。アレンは微笑んで頷き、ピアノに向かった。
お前の中には、ヘンリーみたいな狂気はないじゃないか――。
お前の方が、よほどあいつよりも強いんだぞ。いい加減、気づけよ。
と、静かな、けれど力強い旋律に遣りきれない思いを抱えたまま、吉野は眼下を見下ろしていた。だが、急に振り返り立ちあがると、慌てて声を荒げた。
「アレン、この曲はダメだ。飛鳥が来た。飛鳥、この曲を聴くと泣くんだよ」
「え?」
「ヘンリーも一緒だ。あの野郎、しこたま文句を言ってやろうと思っていたのに、飛鳥を連れてきやがった」
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