胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 アレンの誘拐未遂事件は、結局のところ、身代金目当ての誘拐目的なのか、ファンの常軌を逸したストーカー行為だったのかさえ判断のつかないまま、悪戯に時間だけが過ぎてうやむやのまま放置されていた。衆人環視の中で行われたにも拘わらず、使用された車さえ特定されないまま、その後の足取りさえ掴めなかったからだ。だが、そんな用意周到さに比べ、犯行の計画性のなさ、成功率の低さ、目撃された容疑者のあまりにも若く身なりの良い外見のちぐはぐさが、この事件に奇妙な色をつけていた。

 その後の厳戒態勢の中、不審な人物も目撃されず類似の犯罪も起こらなかったことから、ハーフタームを終えた頃には、警察は、犯行目的を組織犯罪ではなくストーカー行為だった、と結論づけた。

 こうして学校側も、保護者たちも、そして、ピリピリとした緊張感に包まれていた生徒たちも、ゆっくりと日常の落ちつきを取り戻していった。






「でも、ストーカーで片づけるなんてね!」

 歩調を揃え、アレンの横に並んで常歩でのんびりと馬を進めていたクリスは、急に思いだしたようにいきどおり、とても納得できない、と唇を尖らせる。

「フレッドは怪我をさせられ、きみだってあんなに怖い思いをしたのに!」
「うん。でも、僕もそうかな、て気はするよ。プロの仕業って感じじゃなかったもの」

 アレンは、仕方ないよ、とクリスを宥めるような優しい微笑みを向ける。

「それはそうかもしれないけど。でも、怖いじゃないか。犯人は捕まっていないのにさ……」
「きっともう大丈夫だよ。学校側も、これまで以上に対応してくれているし」

 今日も変わらずどんよりと重く圧しかかる灰色の空の下、アレンは自分の話題だというのにまるで世間話でもしているかのように語り、おもむろに厩舎に向かって坂を上っていく。やがて長く横に伸びたモスグリーンの屋根が、黒々とした馬場の向こうに見え始めた。

「ほら、急ごうよ。せっかくのフレッドの完治祝いに遅れてしまうよ」

 いまだ憮然としているクリスにアレンはにこやかに呼びかけ、心持ち歩調を速める。



 学校から離れ、気心の知れた仲間と息を抜ける時間が持てることに、アレンは久しぶりに心が浮足立っていたのだ。
 やっと松葉杖も取れ、普通に歩けるようになったフレデリックの回復を祝って、この午前中のクラブ活動を終えたらジャックのパブで仲間内のパーティーをする予定なのだ。誘拐未遂事件も落ちついてきたし、サウードから学校外での警護を申しでてもらって、やっと外出許可が貰えたのだから。

 あれから学校では、移動は団体ですることが義務づけられ、下級生の外出は土日でも禁止。買い物は、寮母さんに頼むという厳しい処置が取られていた。

 ハーフターム休暇も、アレンは新製品発売で忙しく不在がちの兄の家のあるケンブリッジには行かずに、クリスの好意に甘えてその実家に世話になった。クリスのご両親とも、とても心配して下さり、気遣って下さったのは嬉しかったけれど、休暇中の一週間、なにかあっては面目にかかわるとばかりに屋敷から一歩も出してもらえなかった。吉野と一緒にいることに慣れ、規則もあってないように感じるようになっていたアレンの身としては、息の詰まる毎日が続いていた。


「ね?」
 クリスを促すと、彼はまだ表情を曇らせたまま、「あの子も来るのかな?」と不機嫌そうに呟く。
「ああ――。どうだろうね?」
 アレンの口の端からも苦笑いが漏れる。

「僕は、時々ヨシノの事が理解できないよ」
 クリスは憤然と呟く。
「同感」

 二人は顔を見合わせて苦笑する。やがて、どちらからという事もなく噴き出して、声にして笑ってしまったら、一人で鬱々と考えていたこともどうでもよくなり、少し気が晴れた。

 厩舎の前で馬を降り、二人は、「じゃ、また後で」とそれぞれの馬房へ分かれていく。クリスはふと振り返って、「ここで待っていてね!」と念を押して腕を高く挙げてをぶんぶんと振った。アレンは「OK!」と笑って応えた。





「サウード、ヨシノは? ヨシノはいる?」

 それから一時間も経たないうちに、紺地に襟元だけ翡翠色のラインの入った乗馬服のまま泣きじゃくるクリスの肩を抱いて、フレデリックがサウードの部屋のドアをノックしていた。

「入って」
 ドアを開け、サウードは二人を部屋の中に招き入れる。

「ヨシノは、アレンを取り戻しにいっているよ」
 落ち着いた静かな声で告げられ、フレッデリックは目を瞠り、クリスもしゃくりあげながらサウードを凝視する。

「心配しないで。アレンは無事だから」
「どうして、知っているの?」


 馬房に馬を戻し馬具を取り外して片づけてから、厩舎の表でアレンを待っていたクリスは、いつまでたっても戻ってこない彼を訝しく思い、彼の馬房へ足を向けた。だが、そこには誰もいない。そこで、行き交う乗馬クラブの仲間に、「アレンを見なかった?」と訊ね回っていた。数人に訊いてはみたが、誰もが首を横に振る。馬は皆戻っている。クラブのメンバーも揃った。だがそこにアレンの姿だけがないのだ。これはおかしい、と誰もが顔色をなくし探し回った。指導教員が急ぎ学舎へ連絡を入れ、応援を呼んだ。誘拐の可能性を疑い、クラブのメンバーはそれぞれの寮へ返された。クリスは、寮監や、ちょうど寮にいた学年代表のフレデリックに事情を説明し、やっと自由になって吉野を探しに部屋へ戻ってきたところだった。指導教員からも寮監からも固く口留めされたばかりなのだ。

 サウードがこのことを知っているはずがないのに!


「なにか知っているの?」
 フレデリックは眉をひそめてサウードを睨めつける。
「犯人の目的は、アレンじゃない、ヨシノなんだよ。だからアレンは、」
 サウードは厳しい表情で、フレデリックの怒りに燃えた瞳を見返しながら静かな口調で答え、「アレンは、どこにいるの?」と押し殺すような声で、フレデリックがその言葉を継いだ。

「古い方のボート小屋」
 踵を返し、部屋を出ようとするフレデリックの腕をサウードが掴んだ。
「行っちゃ駄目だ。きみまで捕まったら、ヨシノが闘えなくなる!」

 だが、掴まれた腕を振り払い、フレデリックは部屋をとび出していった。



「追い、かけないの?」
 呆気に取られて二人を見つめていたクリスが、鼻をすすりあげながら呟く。

「ここまでが想定内だよ」
 ひょいっと肩をすくめて、ちょっと困ったように、サウードは笑って言った。




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