胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

メイボール1

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「また痴話喧嘩かい?」
 執務室に入ってきた、頬骨のあたりに青黒い痣の残る吉野の顔を見て、パトリックは冷笑を浮かべた。
「今回は女性か――。見事な爪痕だな」
 ペンを指先に挟んだまま頬杖をついているその口許が、冷笑からクスクス笑いに変わる。
「猫にひっ掻かかれたんだよ」
 吉野は鼻の頭に皺をよせ、唇をへの字に曲げて肩をすくめる。
「まったく、きみはこういった話題に事欠かないな」
「どういった話題だよ? 品行方正な俺を捉まえてよく言うよ」
 いつものように、執務机についているパトリックに向かい合う会議机に腰かけて、吉野は大袈裟に溜息をつく。

「俺、しばらくいないからさ。一応、言っておこうと思って」
 不快気に眉を寄せるパトリックに、吉野は申し訳なさそうに首を傾げた。
「校長には許可を取ったよ」
 納得しかねるのか、目前の相手は不愉快そうに黙っている。手にしたペンを指先で弄びながら、無言で抗議の視線を吉野に向けている。
「大丈夫だよ。今の調子なら、あいつ、上位五名には入るよ。ただ、トップになれるかは判らない。総合点ではフレッドの方がおそらく上だ」
 軽く頷いたパトリックを、吉野はじっと見つめ返して訊ねた。
「次の寮長はあんたの弟?」
「器じゃないよ、あいつは」
「でも、他にいないだろ?」
 互いに顔を見合わせる。しばしの沈黙の後、ほとんど同時に溜息を漏らした。

「俺、来年度も銀ボタンだよ」
 吉野はパトリックを安心させるように、にっと笑いながら告げた。
「ケンブリッジの数学科の連中との共同研究が、なんとか賞を貰ったって校長から打診された」
「それは、おめでとう」
「だから寮長はあんたの弟でいいよ。それで今の副寮長を代表に」
「次の副寮長は、キングスリーか?」
「妥当だろ?」
「無難だな。皆も納得する」
 いくぶん不満を残しながらも、仕方がない、と、パトリックは嘆息した。一学年下は不作だった。その下となると今度は個性的すぎる、前代未聞の学年だ――。
 邪気のない笑顔を浮かべる、この学校に入って知り得た中で一番の問題児の顔を凝視しながら、パトリックはそっと長い指で額を押さえる。


「そういえば、彼、今日はメインディッシュに口をつけていたよ」
 ふと思いだしたように、パトリックは吉野に視線を戻す。
「うん。これから少しずつでも食べるようになると思う。あいつが肉を食わないのは、精神的なもんだから」

 アレンの偏食は入学当初からのものだ。過酷な学校生活の引き起こしたストレスからではない。パトリックは、宗教上の理由か、ベジタリアンなのだと思っていた。そんな懐疑的な視線に応えて吉野は言葉を継いだ。
「食われるために殺される、てのが、あいつは嫌なんだよ」と、辛そうに目を細めて。

 顔をしかめ黙りこむパトリックに、一瞬の後、柔らかい、いたわるような声がかかる。

「あいつは強いよ。食うことで、自分の過去も、傷も克服しようとしているんだ。だから心配いらない。俺が見ていなくても、ちゃんと勉強していい成績を取ってくるよ」
「無責任な言い分だな」
 睨みつけ、パトリックはぼそりと言い捨てた。
「俺の代わりに、あいつを見ていてやって」

 露骨に不服そうな表情が吉野への返事だ。

「それで、いつ戻ってくる?」
「早くて一週間、遅くても十日間だよ。頼んだよ、パット」

 だが継いで呟かれた、いつもの感情の読めない冷淡な声音に応えると、吉野は懇願するようにパトリックを見つめ、にっこりと微笑んだ。






 サウードは、まるで緊張感のない世間話のように聞かされた吉野の報告に、驚きのあまり「え!」と叫び、急いで手で口を押さえて小声で訊ねていた。

「ドイツ・ルベリーニが?」
 寮の狭い自室内で、部屋の主はくつろぐサウードを尻目にボストンバッグに次々と着替えを放りこんでいる。
「うん。カマかけてみたら大当たりだった。ルベリーニだけじゃない。お前の持っているドイツ株も、多分狙われている」
 一通り必要なものを詰め終わりベッドに腰を下ろすと、吉野は不満気に唇を尖らせ息を吐く。

「でもな、全部は訊きだせていないんだ。だから可能性がある奴全部、プログラムを組んでおく」
「全部って――」
DAXドイツ株価指数の構成銘柄三十社の内のどれかなんだ。そこまでは判ったんだけどな。どんな不祥事なのかも、判んねえし――。まぁ、あの女の反応からしたら、相当でかい失態みたいなんだけどな。俺が管理してる以外で、お前んとこ、ドイツ株どれくらい持っている?」
「イスハ―ク」

 サウードはすぐさま、ドアの前に立つ側近を呼んだ。呼ばれた方も心得たもので、すぐにスマートフォンで該当するファイルを呼びだしている。

「指数と、国際優良銘柄だな――」
 吉野は手渡されたスマートフォンの画面を眺めながら、じっと考えこんでいる。


「しかし、きみ、よくそんなハッタリをかませたね……」
 サウードは呆れたような、感心するような微妙な笑みを口許に浮かべて呟いた。

「まったくのハッタリってわけでもないよ。フィリップがよく電話でそれっぽいことを喋ってたんだ」

 吉野は苦笑いして画面から面を上げた。もう必要ないのか、そのままスマートフォンをイスハークに向かって「ありがと」と軽く放る。

「電話でって、彼らは、例のルベリーニ一族にしか通じない言語で会話してるのに?」
「あれ、ラテン語だよ。発音に癖があるんだ。だからちょっと聞いただけじゃ判らないだけだよ。文法や単語からして違うわけじゃないんだ。本一冊読んでもらったら、大体の癖、判ったよ」

 吉野はクスリと笑った。ボストンバッグを持って立ちあがった吉野に、サウードが歩み寄る。

「じゃ、行ってくる」
「向こうの連中には伝えてあるから、好きに使うといい」
「でかく動かす時は連絡を入れるよ」

 典雅な身振りで差しだされたサウードの手を、吉野はぎゅっと握り返し、儀礼通りに彼の肩を軽く抱いた。





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