329 / 758
五章
9
しおりを挟む
足音の絶えた四角い空間に、ビィヨォー、ビィヨォー、と風の吹き抜ける音が駆け巡る。
壁をぐるりと囲む浮きでるような朱の柱の向こうには、やはりこれまでと同じ極彩色の壁画がある。雄牛が角を振りかざして跳ね回り、その上で、平らな線のみで描かれた男が、ぴょんぴょんと飛び跳ねアクロバットを披露している。
走馬燈のようにただ回り続けている雄牛と男を見ていると、くらくらと眩暈がして、アレンは牛の躍動に合わせて地面が跳ねるように感じていた。
しゃがみ込み、じっと眉をしかめて苦しそうに目を瞑るアレンに、吉野は心配そうに顔を傾げている。
「少し、落ち着いてきた?」
「大丈夫」
アレンは蒼白な顔をあげ、力なく微笑む。
「立てる?」
差しだされた吉野の手を握り、引かれるに任せて立ちあがった。
「ほら」
同じく当然のように差しだされた腕に縋りつき、アレンは深く息をついている。
「とにかくここを出よう。休むにしても外の方がいいよ。じきに次のグループが入ってくる」
吉野の言葉に頷いて、アレンもそろそろと歩きだす。
「ここの通路、不思議だね。上っているのか、下っているのか、真っ直ぐに歩いているのかさえ判らなくなる」
眉間に皺を寄せ、おぼつかない足取りで一歩一歩進むアレンに歩調を合わせながら、吉野は優しく労わるような口調で応えた。
「視覚の錯覚を利用しているんだ。酔うようなら目を瞑っていればいい。その方がたぶん楽だよ」
アレンはふふっと、笑って吉野に顔を向ける。
「クリスが言っていた。きみが手をひいてくれるなら、目を瞑って歩くのも怖くないって」
「責任重大だな」
吉野は嬉しそうに笑った。
「きみは嫌じゃないの? そんなふうに頼られるの」
意外そうな顔をするアレンに、吉野は悪戯っぽく笑って首を傾げる。
「光栄だよ。何? 俺ってそんなに頼りないか?」
アレンは慌てて首を振る。
通路を抜けるといきなり視界が開けた。足の下は崖。遥か下の方に、神々しい朝日に照らされるクノッソス宮殿が鎮座している。
「そのまま進んで」
吉野は切り立った崖から空の上に足を踏だしている。
アレンは目を見開いて足下を覗きこむ。頭がくらりと揺れる。緊張と恐怖からその一歩が踏みだせない。吉野の腕に掴まる指先にぎゅっと力が入っていた。
「大丈夫。怖かったら一度目を瞑って。ちゃんと床があるだろ?」
言われた通りに目を瞑った。一歩踏みだし、大きく深呼吸をする。ゆっくりと目を開ける。空の中に立ち尽くし、足下に広がる広大な風景に息を呑んだ。真下に見える巨大な宮殿を中心に高原の緑が広がっていた。
「影が動いている」
複雑な四角い箱を積み重ねたようなクノッソス宮殿の刻む影が、目に見える速さで移動している。影が動くにつれ、砂で作った城が崩れるように、サラサラと宮殿の角が零れ落ちていく。瞬く間に天井が落ち、壁が落ち、夕日の中に今に見る廃墟の遺跡が現れる。
「これは、神の視点なの?」
震える声で呟いたアレンに、吉野は静かに応えた。
「俺たちの一生なんて、瞬きのうちだな」
日が落ちて、薄暗い星明りに照らされる部屋の向こう側に、白く輝く出口が見えた。
表に出て、アレンはほっと息をついた。賑やかな音楽が、人工の灯りが懐かしく、涙が出そうだ。わずか数十分のはずなのに、長い長い旅をしてきたみたいに――。
数メートル先の芝生の上に並べられたテーブルの一つに、フレデリックやクリス、サウードの姿を見つけ、アレンは艶やかな笑みを浮かべて駆け寄った。
「すごかったね」
瞳を輝かせているクリスに、皆、ほっとしたような、不可思議そうな、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「アスカさん、すごすぎる」
フレデリックはため息交じりに呟いた。
「人生観が変わってしまいそうだよ」
サウードも複雑な笑みを浮かべている。
「ヨシノ」
声をかけたが、吉野は少し離れたところで電話しているようだった。両手をポケットに突っこんでブツブツと話しているさまは、とてもそうとは見えなかったが。
「すげー綺麗なのに、すげー怖かった。お化け屋敷みたいだ。あんなところに一人で入れると、ぶっ倒れる奴出てくるぞ。何人かまとめて入れて、ガイド役をつけるといいよ。暇な奴いないの? 機械の方は俺がやるからさ、コズモスのスタッフをまわせよ。――うん。大丈夫、バグは無かったし色も綺麗。映像に問題はなかったよ。でも、人に寄っては映像酔いが出るみたいだ。アレンがやばかったんだ。――うん、もう平気」
吉野は、ふいに皆のいるテーブルに視線を向けた。呆けたように座っている仲間を見て、にかっと笑う。
「もう少ししたら戻るから……」電話を切ると、テーブルに歩み寄る。
「お前ら、まだ何も食っていないの? チケットに食事代込みだからさ、どこででも好きなもの取ってきたらいいんだぞ」
「そういえばお腹が空いたよ! なんだか色々すごすぎてさ、忘れていたよ!」
クリスがぴょんと立ちあがる。
「適当に持ってこようか? テーマがクノッソスの迷宮だから、エーゲ海料理が押しらしいよ。サウードはちょっと待ってろ。向こうにムスリム専用コーナーがあったからさ」
まだぼんやりとしているアレンとフレデリックは、とりあえず頷く。サウードは、いつもの鷹揚な微笑みを見せて応えた。
「イスハ―クに行かせるよ」
やっといつもの賑やかさを取り戻して食事を始めたとき、アレンが急に思いだしたように「あ!」と声をあげた。
「どうした?」
「早く食べてしまわないと! 兄の舞踏会が始まる」
「ああ、例の――」
「兄の華麗なステップを見たかったんだ」
いつもの彼からは想像できない勢いで、アレンはパクパクと手にしていたサンドイッチを口に頬張っている。
「僕も見たいな」
フレデリックも同じく忙しく口を動かしている。
「ヘンリー卿は見たいけれど、あの子たちがいたら嫌だな」
だがクリスは唇を尖らせている。
「どうかした?」
「僕は、二回も彼女の足を踏んでしまって、」
クリスは腹立たし気に眉をしかめる。
「他にも、いろいろ」
フレデリックは吉野にだけ分かるように、そっと視線でアレンを示し、小さく首をすくめてみせた。
「ああ、なるほど。まぁ、あんまり気にするなよ」
吉野は慰めるように、クリスの背中をバンッと叩いた。
壁をぐるりと囲む浮きでるような朱の柱の向こうには、やはりこれまでと同じ極彩色の壁画がある。雄牛が角を振りかざして跳ね回り、その上で、平らな線のみで描かれた男が、ぴょんぴょんと飛び跳ねアクロバットを披露している。
走馬燈のようにただ回り続けている雄牛と男を見ていると、くらくらと眩暈がして、アレンは牛の躍動に合わせて地面が跳ねるように感じていた。
しゃがみ込み、じっと眉をしかめて苦しそうに目を瞑るアレンに、吉野は心配そうに顔を傾げている。
「少し、落ち着いてきた?」
「大丈夫」
アレンは蒼白な顔をあげ、力なく微笑む。
「立てる?」
差しだされた吉野の手を握り、引かれるに任せて立ちあがった。
「ほら」
同じく当然のように差しだされた腕に縋りつき、アレンは深く息をついている。
「とにかくここを出よう。休むにしても外の方がいいよ。じきに次のグループが入ってくる」
吉野の言葉に頷いて、アレンもそろそろと歩きだす。
「ここの通路、不思議だね。上っているのか、下っているのか、真っ直ぐに歩いているのかさえ判らなくなる」
眉間に皺を寄せ、おぼつかない足取りで一歩一歩進むアレンに歩調を合わせながら、吉野は優しく労わるような口調で応えた。
「視覚の錯覚を利用しているんだ。酔うようなら目を瞑っていればいい。その方がたぶん楽だよ」
アレンはふふっと、笑って吉野に顔を向ける。
「クリスが言っていた。きみが手をひいてくれるなら、目を瞑って歩くのも怖くないって」
「責任重大だな」
吉野は嬉しそうに笑った。
「きみは嫌じゃないの? そんなふうに頼られるの」
意外そうな顔をするアレンに、吉野は悪戯っぽく笑って首を傾げる。
「光栄だよ。何? 俺ってそんなに頼りないか?」
アレンは慌てて首を振る。
通路を抜けるといきなり視界が開けた。足の下は崖。遥か下の方に、神々しい朝日に照らされるクノッソス宮殿が鎮座している。
「そのまま進んで」
吉野は切り立った崖から空の上に足を踏だしている。
アレンは目を見開いて足下を覗きこむ。頭がくらりと揺れる。緊張と恐怖からその一歩が踏みだせない。吉野の腕に掴まる指先にぎゅっと力が入っていた。
「大丈夫。怖かったら一度目を瞑って。ちゃんと床があるだろ?」
言われた通りに目を瞑った。一歩踏みだし、大きく深呼吸をする。ゆっくりと目を開ける。空の中に立ち尽くし、足下に広がる広大な風景に息を呑んだ。真下に見える巨大な宮殿を中心に高原の緑が広がっていた。
「影が動いている」
複雑な四角い箱を積み重ねたようなクノッソス宮殿の刻む影が、目に見える速さで移動している。影が動くにつれ、砂で作った城が崩れるように、サラサラと宮殿の角が零れ落ちていく。瞬く間に天井が落ち、壁が落ち、夕日の中に今に見る廃墟の遺跡が現れる。
「これは、神の視点なの?」
震える声で呟いたアレンに、吉野は静かに応えた。
「俺たちの一生なんて、瞬きのうちだな」
日が落ちて、薄暗い星明りに照らされる部屋の向こう側に、白く輝く出口が見えた。
表に出て、アレンはほっと息をついた。賑やかな音楽が、人工の灯りが懐かしく、涙が出そうだ。わずか数十分のはずなのに、長い長い旅をしてきたみたいに――。
数メートル先の芝生の上に並べられたテーブルの一つに、フレデリックやクリス、サウードの姿を見つけ、アレンは艶やかな笑みを浮かべて駆け寄った。
「すごかったね」
瞳を輝かせているクリスに、皆、ほっとしたような、不可思議そうな、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「アスカさん、すごすぎる」
フレデリックはため息交じりに呟いた。
「人生観が変わってしまいそうだよ」
サウードも複雑な笑みを浮かべている。
「ヨシノ」
声をかけたが、吉野は少し離れたところで電話しているようだった。両手をポケットに突っこんでブツブツと話しているさまは、とてもそうとは見えなかったが。
「すげー綺麗なのに、すげー怖かった。お化け屋敷みたいだ。あんなところに一人で入れると、ぶっ倒れる奴出てくるぞ。何人かまとめて入れて、ガイド役をつけるといいよ。暇な奴いないの? 機械の方は俺がやるからさ、コズモスのスタッフをまわせよ。――うん。大丈夫、バグは無かったし色も綺麗。映像に問題はなかったよ。でも、人に寄っては映像酔いが出るみたいだ。アレンがやばかったんだ。――うん、もう平気」
吉野は、ふいに皆のいるテーブルに視線を向けた。呆けたように座っている仲間を見て、にかっと笑う。
「もう少ししたら戻るから……」電話を切ると、テーブルに歩み寄る。
「お前ら、まだ何も食っていないの? チケットに食事代込みだからさ、どこででも好きなもの取ってきたらいいんだぞ」
「そういえばお腹が空いたよ! なんだか色々すごすぎてさ、忘れていたよ!」
クリスがぴょんと立ちあがる。
「適当に持ってこようか? テーマがクノッソスの迷宮だから、エーゲ海料理が押しらしいよ。サウードはちょっと待ってろ。向こうにムスリム専用コーナーがあったからさ」
まだぼんやりとしているアレンとフレデリックは、とりあえず頷く。サウードは、いつもの鷹揚な微笑みを見せて応えた。
「イスハ―クに行かせるよ」
やっといつもの賑やかさを取り戻して食事を始めたとき、アレンが急に思いだしたように「あ!」と声をあげた。
「どうした?」
「早く食べてしまわないと! 兄の舞踏会が始まる」
「ああ、例の――」
「兄の華麗なステップを見たかったんだ」
いつもの彼からは想像できない勢いで、アレンはパクパクと手にしていたサンドイッチを口に頬張っている。
「僕も見たいな」
フレデリックも同じく忙しく口を動かしている。
「ヘンリー卿は見たいけれど、あの子たちがいたら嫌だな」
だがクリスは唇を尖らせている。
「どうかした?」
「僕は、二回も彼女の足を踏んでしまって、」
クリスは腹立たし気に眉をしかめる。
「他にも、いろいろ」
フレデリックは吉野にだけ分かるように、そっと視線でアレンを示し、小さく首をすくめてみせた。
「ああ、なるほど。まぁ、あんまり気にするなよ」
吉野は慰めるように、クリスの背中をバンッと叩いた。
5
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる