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六章
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その朝は、執事のマーカスの代わりに飛鳥がアレンのブランチを運んできた。
「きみは、朝は紅茶よりコーヒーだったね?」
「ありがとうございます」
コーヒーのポットと、湯気のたつポリッジがのったトレイを渡すと、飛鳥はにっこりと笑って、アレンの頭を撫でて言った。
「みんな下にいるからね、気分がマシになったら下りておいで」
相変わらず顔色の悪いアレンを見て、心配そうに目を細めて――。
飛鳥はよくアレンの頭を撫でる。吉野のように、くしゃりと撫でてくる。彼が小さな子供ででもあるかのように。けれど飛鳥にそうされると、アレンは小さな子どものように嬉しくなるのだ。
彼にとって、飛鳥の手は怖くなかった。吉野の手も、怖くない。この手はアレンを叩かない。這うように撫でまわしたりしない。いつも壊れ物を触るように、そっと優しく触れてくれる。通りすぎる風みたいに――。
きっと吉野がいつも優しいから、吉野の周りの人たちも釣られてアレンに優しくしてくれるのだろう。
飛鳥も、ラザフォード卿も、あの兄でさえ――。
アレンは、自室の窓辺にあるティーテーブルにトレーを置いて腰かけると、眼下の緑に視線を落とした。鮮やかな芝に続く、強い夏の日差しに緑を濃くした木々の連なりが眩しい。花のない緑一色の景色に、心までが単調に染まり静まりかえっていく。
考えなければいけないこと、決めなければいけないことが多すぎて空回りしていた。緑の中に吸いこまれ、これからのことよりも、これまでのことばかりに心が傾いていた。
吉野が泣いているアレンに手を差し伸べ、立ちあがらせてくれたときから、すべてが一変した。
それまでのアレンは、嫌だと言って聞きいれられたことなどなかったのに。彼はずっと、叫び続けていたのだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だと!
嘲笑われ、踏みにじられても、決して誰の耳に届かなくても、絶望して心が壊れてしまいそうでも、声にならない声で叫び続けていた。
吉野だけがアレンの声を聞き取ってくれた。吉野はアレンに言った。嫌だと言ってもいいのだ、と。嫌だと言わなければいけないのだ、と。すべてを諦めていたアレンに、誇り高くあれ、と。同じエリオット校生なのだから――、と。
アレンはアレンである前にフェイラーで、それは彼にとって、自分であることよりも大事なことだった。
誰もアレンという人間を見ない。アレンという人間を必要としない。
アレンはフェイラーの孫か、ヘンリー・ソールスベリーの弟で、それ以外の名などなかった。
だがアレンは、フェイラーであることよりも、せめて大好きな兄の弟でありたかった。兄のようにはなれないと判っていても、似ていると言われると嬉しかったのだ。アレンの中に、わずかにでも兄と似ている部分を見いだしてもらえたら、少し兄に近づけたような気になれたから。
けれど吉野は、アレンの中に彼の兄ではなく、アレン自身を見いだしてくれた。アレンは、アレンでしかないのだ。吉野は一度だって、アレンの上にヘンリーを重ねたりはしなかった。吉野だけが、フェイラーの孫でも、兄の弟でもないアレン自身を見てくれていた。
だからアレンは、吉野に振り回されていると思ったことなどない。吉野になにかを強制されたと感じたこともない。吉野はいつだって、アレンにどうしたいのか訊ねてきた。そして、アレンは自分で決めてきたのだ。それはアレン自身の意思だった。
吉野はいつだって優しい。だけど、アレンだけに優しいわけじゃない。誰にだって優しい。皆、吉野が好きだし吉野と一緒にいたいと思っている。でも、皆分かっているのだ。吉野はいつもどこか息苦しそうで、もしも誰かが彼を束縛しようとしたら、彼はきっとすべてを捨ててどこかへ行ってしまうだろう、と。
だから、アレンが吉野に我儘を言えないのは、決して振り回されているからではなくて――。ただ、怖いだけなのだ。
アレンは、ぼんやりと目の前の食事に視線を戻し、ポットのコーヒーを注いだ。
アレンには、吉野は判らないのだ。いまだに、コーヒーのどこが美味しいのか判らないように、理解できない。けれど今では、コ―ヒーの香りを嗅ぐとほっとする。苦みのあるこの味に顔をしかめながらも心が休まる。それがなぜだか判らないのに。
だからきっと、好きという感情はそんなものなのだと、アレンは思うのだ。理解するのではなくて自分の一部になることだ、と。そして、それが生きることを楽しくしてくれるに違いない。吉野の中には好きがたくさんあるのだ。だからこそあんなに魅力的で、皆、好きなことを自由にしている吉野が好きなのだ。
スプーンを手にすると、アレンはポリッジを一口含んだ。口内に広がる甘い味に涙がでそうになった。スコットランド生まれのボイドさんの作るポリッジは塩味だと聞いていたのに、これは、吉野の味がしたのだ。
アレンはずっと兄のようになりたくて、兄の背中を追っていた。今は吉野の背中を追い駆けている。けれどアレンは、吉野のようになりたいわけではない。アレンはアレン自身として吉野の横に並びたいのだ。
吉野が認めてくれる自分自身になりたい――。
やるべきことがたくさんあった。吉野がいない間にしなければならないことが……。
まず兄に訊ねなければならない。
ルベリーニとは何なのか。フレデリックやクリスに聞いただけではよく判らなかった『接吻』の意味も。
それから教えを乞う。
吉野は何を望んでいるのか、どうせ彼自身で考えたところで分かる訳がないのだから。無知で馬鹿な自分のような人間は、兄のような賢い人に訊くのが一番だろう、と。
それから、父に会いにいく。初めから答えは一つしかなかったのに、動揺して兄を待たせてしまっている。急いで返事をしなければならない。
それから――。
でもまず一番に、このポリッジを残さず食べよう。そして、ボイドさんにお礼を言おう。
甘いポリッジをありがとうございます、と。
そんな穏やかで幸せな気分で気持ちを固めて、アレンは、ポリッジを口に運び、コーヒーを飲んだのだった。
「きみは、朝は紅茶よりコーヒーだったね?」
「ありがとうございます」
コーヒーのポットと、湯気のたつポリッジがのったトレイを渡すと、飛鳥はにっこりと笑って、アレンの頭を撫でて言った。
「みんな下にいるからね、気分がマシになったら下りておいで」
相変わらず顔色の悪いアレンを見て、心配そうに目を細めて――。
飛鳥はよくアレンの頭を撫でる。吉野のように、くしゃりと撫でてくる。彼が小さな子供ででもあるかのように。けれど飛鳥にそうされると、アレンは小さな子どものように嬉しくなるのだ。
彼にとって、飛鳥の手は怖くなかった。吉野の手も、怖くない。この手はアレンを叩かない。這うように撫でまわしたりしない。いつも壊れ物を触るように、そっと優しく触れてくれる。通りすぎる風みたいに――。
きっと吉野がいつも優しいから、吉野の周りの人たちも釣られてアレンに優しくしてくれるのだろう。
飛鳥も、ラザフォード卿も、あの兄でさえ――。
アレンは、自室の窓辺にあるティーテーブルにトレーを置いて腰かけると、眼下の緑に視線を落とした。鮮やかな芝に続く、強い夏の日差しに緑を濃くした木々の連なりが眩しい。花のない緑一色の景色に、心までが単調に染まり静まりかえっていく。
考えなければいけないこと、決めなければいけないことが多すぎて空回りしていた。緑の中に吸いこまれ、これからのことよりも、これまでのことばかりに心が傾いていた。
吉野が泣いているアレンに手を差し伸べ、立ちあがらせてくれたときから、すべてが一変した。
それまでのアレンは、嫌だと言って聞きいれられたことなどなかったのに。彼はずっと、叫び続けていたのだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だと!
嘲笑われ、踏みにじられても、決して誰の耳に届かなくても、絶望して心が壊れてしまいそうでも、声にならない声で叫び続けていた。
吉野だけがアレンの声を聞き取ってくれた。吉野はアレンに言った。嫌だと言ってもいいのだ、と。嫌だと言わなければいけないのだ、と。すべてを諦めていたアレンに、誇り高くあれ、と。同じエリオット校生なのだから――、と。
アレンはアレンである前にフェイラーで、それは彼にとって、自分であることよりも大事なことだった。
誰もアレンという人間を見ない。アレンという人間を必要としない。
アレンはフェイラーの孫か、ヘンリー・ソールスベリーの弟で、それ以外の名などなかった。
だがアレンは、フェイラーであることよりも、せめて大好きな兄の弟でありたかった。兄のようにはなれないと判っていても、似ていると言われると嬉しかったのだ。アレンの中に、わずかにでも兄と似ている部分を見いだしてもらえたら、少し兄に近づけたような気になれたから。
けれど吉野は、アレンの中に彼の兄ではなく、アレン自身を見いだしてくれた。アレンは、アレンでしかないのだ。吉野は一度だって、アレンの上にヘンリーを重ねたりはしなかった。吉野だけが、フェイラーの孫でも、兄の弟でもないアレン自身を見てくれていた。
だからアレンは、吉野に振り回されていると思ったことなどない。吉野になにかを強制されたと感じたこともない。吉野はいつだって、アレンにどうしたいのか訊ねてきた。そして、アレンは自分で決めてきたのだ。それはアレン自身の意思だった。
吉野はいつだって優しい。だけど、アレンだけに優しいわけじゃない。誰にだって優しい。皆、吉野が好きだし吉野と一緒にいたいと思っている。でも、皆分かっているのだ。吉野はいつもどこか息苦しそうで、もしも誰かが彼を束縛しようとしたら、彼はきっとすべてを捨ててどこかへ行ってしまうだろう、と。
だから、アレンが吉野に我儘を言えないのは、決して振り回されているからではなくて――。ただ、怖いだけなのだ。
アレンは、ぼんやりと目の前の食事に視線を戻し、ポットのコーヒーを注いだ。
アレンには、吉野は判らないのだ。いまだに、コーヒーのどこが美味しいのか判らないように、理解できない。けれど今では、コ―ヒーの香りを嗅ぐとほっとする。苦みのあるこの味に顔をしかめながらも心が休まる。それがなぜだか判らないのに。
だからきっと、好きという感情はそんなものなのだと、アレンは思うのだ。理解するのではなくて自分の一部になることだ、と。そして、それが生きることを楽しくしてくれるに違いない。吉野の中には好きがたくさんあるのだ。だからこそあんなに魅力的で、皆、好きなことを自由にしている吉野が好きなのだ。
スプーンを手にすると、アレンはポリッジを一口含んだ。口内に広がる甘い味に涙がでそうになった。スコットランド生まれのボイドさんの作るポリッジは塩味だと聞いていたのに、これは、吉野の味がしたのだ。
アレンはずっと兄のようになりたくて、兄の背中を追っていた。今は吉野の背中を追い駆けている。けれどアレンは、吉野のようになりたいわけではない。アレンはアレン自身として吉野の横に並びたいのだ。
吉野が認めてくれる自分自身になりたい――。
やるべきことがたくさんあった。吉野がいない間にしなければならないことが……。
まず兄に訊ねなければならない。
ルベリーニとは何なのか。フレデリックやクリスに聞いただけではよく判らなかった『接吻』の意味も。
それから教えを乞う。
吉野は何を望んでいるのか、どうせ彼自身で考えたところで分かる訳がないのだから。無知で馬鹿な自分のような人間は、兄のような賢い人に訊くのが一番だろう、と。
それから、父に会いにいく。初めから答えは一つしかなかったのに、動揺して兄を待たせてしまっている。急いで返事をしなければならない。
それから――。
でもまず一番に、このポリッジを残さず食べよう。そして、ボイドさんにお礼を言おう。
甘いポリッジをありがとうございます、と。
そんな穏やかで幸せな気分で気持ちを固めて、アレンは、ポリッジを口に運び、コーヒーを飲んだのだった。
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