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六章
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次第に藍色に沈んでいく西の空に残る雲が茜色に染まる暮れゆくパリの空の下、ルーブル宮に三翼を囲まれたナポレオン広場に内側からオレンジ色に照らされたガラスのピラミッドが、境界に繋がる三角形に切りだされた鏡のような水面から幻想的に浮かびあがる。その一面にある、地下ホールへと続くルーブル美術館中央出入り口から出てきた吉野は、吹きあがる水音に負けぬように、と力んだ声に呼び止められた。
「また会ったな」
吉野はにかっと笑い、平らな噴水の縁に腰かけていた声の主の隣に腰を下ろす。
「白夜のクルージングは良かったか?」
「キャンセルしたよ」
「なんで? もったいない。あんなド田舎まで行ったのに」
「いいんだよ」
きみといられるなら、どこでも良かったんだ。
――予定変更になってさ、パリ観光は後回しにしたんだ。
列車の中で、確か、きみはそう言ったから。
ルーブルの中の美術品よりも、広場にある幾何学的なピラミッドが見たい、と。だから、すぐにパリに戻ってきた。
心中に抱えるそんな想いはおくびにも出さず、マルセルは揶揄うように漆黒の瞳を輝かせ、組んだ足に頬杖をついて吉野を見て笑った。
「美術館、中にもちゃんと入ったんだ? どうでもよさそうだったのに」
吉野は顔を傾げて苦笑する。
「そりゃ、見てきたよ。せっかく来たんだからさ」
「ニケ像を見た?」
「うん。あんたのお薦めだったしね。綺麗だったよ」
吉野の称賛に、マルセルは嬉しそうに頷いた。
「ルーブルの中で一番、いやなににも増して、この像が好きなんだよ! ニケは勝利の女神だからね!」
無邪気に声を弾ませる彼を眺め、吉野はクスクスと笑った。
「神頼み?」
「そうだね。そうかもしれない」
ふっとマルセルの表情に影が差す。
「願いが叶うといいね。じゃ、俺もう行くよ。連れを待たせているんだ」
「会えて良かったよ」
マルセルは立ちあがった吉野に右手を差しだした。「じゃ、またな」と笑って吉野はその手を握り返す。
「え?」
「きっとまた会うよ。二度あることは、三度あるって言うだろ」
「僕は――」
言いかけたまま口を噤み、マルセルは頷いて手を振った。吉野はにっと笑って背中を向け歩きだす。
「これで三度目だよ」
艶やかな黒髪をかき上げ、目を細めて、マルセルは立ち去っていく彼の後ろ姿を見送りながら呟いていた。
マルセルは、吉野のことを知っていたのだ。ニューヨークの鳥籠の中で、吉野が彼の目の前に舞い降りたときから。あの勝利の女神、ニケのように。両の腕を翼のように広げ、真っ白なシャツをなびかせて。
サモトラケのニケ像にもしも頭部があったなら、それはあの時の彼のように、真っすぐに前だけを見つめているに違いない。すべてを燃やし尽くしてしまいそうに、激しくその瞳を輝かせて。
どうしても、もう一度吉野に会いたかったのだ。
だがそんな想いを自分自身嘲笑うかのように、マルセルは皮肉気に唇の先を歪めてくっと咽喉を鳴らした。
そして、目の前に立った相手から視線を逸らし、苛立たしげに顔を伏せた。わずかに視界に入る、投げだしたスニーカーの足先に触れそうなほど近くにある、綺麗に磨かれた黒の革靴が煩わしくて――。
「気が済んだか?」
冷たく落ちてきた、呆れたようなその声から顔を背け、マルセルは立ちあがった。
「追いかける相手を間違っているだろう?」
畳みかけてくるその声に、「僕が間違えたことがあるかい?」とマルセルは眉を寄せ、仕方なさそうに傍らの男を一瞥する。
相手はひょいと肩をすくめ、ニヤニヤ笑いながら頭を振った。
「楽しみだね」
頬を緩ませながらスーツケースに荷物を詰めるアレンを眺め、飛鳥もにこにこと微笑んでいる。
「あいつが馬鹿しないように、しっかり見張っておいて」
「たった三日間ですよ」
アレンは手を止め、ちょっと残念そうな笑みを見せる。
「その後は? 吉野について行かないの?」
意外そうな飛鳥の問いには、小さく首を振る。
「ヨシノの邪魔をしたくないんです。僕は、僕のしなければならないことをします。今はまだ、それが何なのかよく判らないけれど……。この夏の間に必ず見つけます」
すっきりとしたセレストブルーの瞳を向けられ、飛鳥は嬉しそうに微笑んだ。
「きみって本当にいい子だね。あいつにきみの爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」
クスクスと笑い、けれどすぐに飛鳥は大きくため息を漏らす。
「ウィルや、殿下のつけてくれた護衛さんがいるっていっても、やっぱり心配なんだよ――。あいつ、本当に馬鹿だからさ」
そんな飛鳥の顔を穴の開くほど不思議そうな瞳で見つめるアレンは、ふと気づいた事実に驚き、ゴクリと唾を呑み込んでいた。
出発準備を手伝ってくれているこのわずかな間に、飛鳥はいったい何回、あの吉野のことを「馬鹿」と呼んだだろうか、と。
「ヨシノのことを馬鹿って言うのは、アスカさんくらいですよ……」
「馬鹿だよ、あいつ」
アレンの反応に、キョトンとして飛鳥は小首を傾げる。そして顔をしかめると人差し指を立てて、声を低めて続けた。
「騙されちゃ駄目だよ! あいつ、ほんと、何も考えてないからね! もう、すっごい短絡的でさ! 常に最短ルートを探そうとする横着者なんだよ! まったく、危なっかしくって見てられないよ」
言いながら飛鳥は、またもや大きくため息をついている。
なんだかんだといって、可愛い弟が心配で仕方がないのか、とその様子が微笑ましくて、アレンはクスクスと笑いだす。
僕の兄とは大違いだ――。
兄ならきっと、兄は……、兄は僕のことなんて心配しやしないに決まっている――。
顔の上で笑みが凍りつく前に、アレンは無意識に気持ちを引きたてようと微笑んでいた。
「パリに着いてヨシノに会ったら、一番に言っておきますね。あまりアスカさんに心配かけちゃ駄目だよって」
飛鳥は鼻の頭に皺を寄せ、吉野みたいに、にっと笑った。だが吉野とは違い、アレンの目にはちっとも悪戯っ子には見えなかった。
「また会ったな」
吉野はにかっと笑い、平らな噴水の縁に腰かけていた声の主の隣に腰を下ろす。
「白夜のクルージングは良かったか?」
「キャンセルしたよ」
「なんで? もったいない。あんなド田舎まで行ったのに」
「いいんだよ」
きみといられるなら、どこでも良かったんだ。
――予定変更になってさ、パリ観光は後回しにしたんだ。
列車の中で、確か、きみはそう言ったから。
ルーブルの中の美術品よりも、広場にある幾何学的なピラミッドが見たい、と。だから、すぐにパリに戻ってきた。
心中に抱えるそんな想いはおくびにも出さず、マルセルは揶揄うように漆黒の瞳を輝かせ、組んだ足に頬杖をついて吉野を見て笑った。
「美術館、中にもちゃんと入ったんだ? どうでもよさそうだったのに」
吉野は顔を傾げて苦笑する。
「そりゃ、見てきたよ。せっかく来たんだからさ」
「ニケ像を見た?」
「うん。あんたのお薦めだったしね。綺麗だったよ」
吉野の称賛に、マルセルは嬉しそうに頷いた。
「ルーブルの中で一番、いやなににも増して、この像が好きなんだよ! ニケは勝利の女神だからね!」
無邪気に声を弾ませる彼を眺め、吉野はクスクスと笑った。
「神頼み?」
「そうだね。そうかもしれない」
ふっとマルセルの表情に影が差す。
「願いが叶うといいね。じゃ、俺もう行くよ。連れを待たせているんだ」
「会えて良かったよ」
マルセルは立ちあがった吉野に右手を差しだした。「じゃ、またな」と笑って吉野はその手を握り返す。
「え?」
「きっとまた会うよ。二度あることは、三度あるって言うだろ」
「僕は――」
言いかけたまま口を噤み、マルセルは頷いて手を振った。吉野はにっと笑って背中を向け歩きだす。
「これで三度目だよ」
艶やかな黒髪をかき上げ、目を細めて、マルセルは立ち去っていく彼の後ろ姿を見送りながら呟いていた。
マルセルは、吉野のことを知っていたのだ。ニューヨークの鳥籠の中で、吉野が彼の目の前に舞い降りたときから。あの勝利の女神、ニケのように。両の腕を翼のように広げ、真っ白なシャツをなびかせて。
サモトラケのニケ像にもしも頭部があったなら、それはあの時の彼のように、真っすぐに前だけを見つめているに違いない。すべてを燃やし尽くしてしまいそうに、激しくその瞳を輝かせて。
どうしても、もう一度吉野に会いたかったのだ。
だがそんな想いを自分自身嘲笑うかのように、マルセルは皮肉気に唇の先を歪めてくっと咽喉を鳴らした。
そして、目の前に立った相手から視線を逸らし、苛立たしげに顔を伏せた。わずかに視界に入る、投げだしたスニーカーの足先に触れそうなほど近くにある、綺麗に磨かれた黒の革靴が煩わしくて――。
「気が済んだか?」
冷たく落ちてきた、呆れたようなその声から顔を背け、マルセルは立ちあがった。
「追いかける相手を間違っているだろう?」
畳みかけてくるその声に、「僕が間違えたことがあるかい?」とマルセルは眉を寄せ、仕方なさそうに傍らの男を一瞥する。
相手はひょいと肩をすくめ、ニヤニヤ笑いながら頭を振った。
「楽しみだね」
頬を緩ませながらスーツケースに荷物を詰めるアレンを眺め、飛鳥もにこにこと微笑んでいる。
「あいつが馬鹿しないように、しっかり見張っておいて」
「たった三日間ですよ」
アレンは手を止め、ちょっと残念そうな笑みを見せる。
「その後は? 吉野について行かないの?」
意外そうな飛鳥の問いには、小さく首を振る。
「ヨシノの邪魔をしたくないんです。僕は、僕のしなければならないことをします。今はまだ、それが何なのかよく判らないけれど……。この夏の間に必ず見つけます」
すっきりとしたセレストブルーの瞳を向けられ、飛鳥は嬉しそうに微笑んだ。
「きみって本当にいい子だね。あいつにきみの爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」
クスクスと笑い、けれどすぐに飛鳥は大きくため息を漏らす。
「ウィルや、殿下のつけてくれた護衛さんがいるっていっても、やっぱり心配なんだよ――。あいつ、本当に馬鹿だからさ」
そんな飛鳥の顔を穴の開くほど不思議そうな瞳で見つめるアレンは、ふと気づいた事実に驚き、ゴクリと唾を呑み込んでいた。
出発準備を手伝ってくれているこのわずかな間に、飛鳥はいったい何回、あの吉野のことを「馬鹿」と呼んだだろうか、と。
「ヨシノのことを馬鹿って言うのは、アスカさんくらいですよ……」
「馬鹿だよ、あいつ」
アレンの反応に、キョトンとして飛鳥は小首を傾げる。そして顔をしかめると人差し指を立てて、声を低めて続けた。
「騙されちゃ駄目だよ! あいつ、ほんと、何も考えてないからね! もう、すっごい短絡的でさ! 常に最短ルートを探そうとする横着者なんだよ! まったく、危なっかしくって見てられないよ」
言いながら飛鳥は、またもや大きくため息をついている。
なんだかんだといって、可愛い弟が心配で仕方がないのか、とその様子が微笑ましくて、アレンはクスクスと笑いだす。
僕の兄とは大違いだ――。
兄ならきっと、兄は……、兄は僕のことなんて心配しやしないに決まっている――。
顔の上で笑みが凍りつく前に、アレンは無意識に気持ちを引きたてようと微笑んでいた。
「パリに着いてヨシノに会ったら、一番に言っておきますね。あまりアスカさんに心配かけちゃ駄目だよって」
飛鳥は鼻の頭に皺を寄せ、吉野みたいに、にっと笑った。だが吉野とは違い、アレンの目にはちっとも悪戯っ子には見えなかった。
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