349 / 758
六章
3
しおりを挟む
「よぉ、元気だったか?」
パリ北駅に到着したユーロスターからきょろきょろと辺りを見廻しながらホームに降り立ったアレンを、吉野が変わらぬにこやかな笑顔で迎えている。その顔を見つけたとたんに、アレンの頬は自然に緩んでいた。
「うん。きみは?」
訊ね返したのに、吉野はすでに背後のボディーガード二人に視線を移して、傍らの屈強そうな褐色の肌の男を紹介している。
「サイモン、デューク、よろしく頼むよ。アリーだ」
簡単な挨拶を済ますと急かすように顎をしゃくり、もう歩きだしている。
「それでお前、どこに行きたい?」
行きかけてふり返り、小首を傾げる。けれどその眼はせわしなく辺りを伺い、苛立ちが垣間見えている。久しぶりに会うこんな吉野のどこか冷めた応対に、アレンはいつも以上に緊張してすんなりと言葉がでてこなかった。
「お前、ずいぶん緊張してるんだな」
呆れ顔の吉野を、アレンは泣きたい気持ちで見つめ返した。だがすぐに、そんな想いを呑みこんで顔を伏せた。今日、明日と泊まるホテルのレストランの朝食の席で気まずくなるのは嫌だったのだ。それなのに、口から滑りでてきたのは、まったく心にないはずの言葉だった。
「きみは、いったいどこを見ているの?」
訝しげに眉根を寄せる吉野に、アレンはもう一度繰り返した。止まらなかった。
「一度も僕の方を見ようとしない」
言ってしまってから後悔で唇を噛んだ。
「ごめん」
謝ろうと口を開きかけたアレンよりも早く、吉野の唇が動いていた。
「緊張していたのは俺の方だな」
大きく目を見開いたアレンに、吉野は苦笑して肩をすくめる。
「お前な、もう思っていた以上に顔を知られているんだ。警備をどうするかとか、移動ルートとか、そんなことばっか考えてた。ごめんな」
「警備って――」
「サイモンとデュークだけじゃ心配なんだよ、俺が。俺の失態だよ。TSの店舗はロンドンとニューヨークだけだし、常に品薄で、店ができてからもほとんど予約販売と変わらない状況だろ? エリオットにいるみたいにさ、誰もがお前のこと知っているなんてことはないと高を括ってたんだ」
「うん。僕もそう思う……」
「俺のミスだよ」
吉野はため息をひとつ漏らすと、TS画面をくるりとアレンの前に向けた。
「一週間後、通信機器のパリ見本市があるんだ。これがアーカシャ―HDが出しているポスター」
画面の中の見覚えのある自分の顔に、アレンは軽く眩暈を覚えた。
「いたる所にあるバス停に貼ってあるんだ。パリ中のな」
昨夜、『吉野によろしく伝えておいて』、とクスリと笑って言った兄の顔を思いだし、アレンは脱力して吐息を漏らす。
「どうすれば、きみや兄に迷惑をかけずに済むのかな……」
アレンは、クリスマスや創立祭でのコンサートの騒ぎを思いだし、ぐっと奥歯を噛みしめた。そして、そっと上目使いに吉野を見あげると、彼は、さっきのしおらしさはどこへやらで、クロワッサンにジャムをたっぷりと付けて、パクパクと頬ばっている。
「ま、何とかするからさ、食えよ。このフランボワーズのジャムが一番旨いぞ。でもここの一番のお薦めはな、トリュフの載ったエッグベネディクト」
「ヨシノ、甘いもの、嫌いなんじゃ……」
「果物は食うよ。ジャムも、まぁ、少しなら。やっぱ、フランスは卵料理、旨いよな」
今度はふわふわのオムレツにナイフを入れている吉野に、あっと思いだしたようにアレンはにっこりする。
「卵料理といえば、アスカさんが玉子焼きを作ってくれたよ」
「飛鳥が?」
せっせとカトラリーを動かしていた手を止め、吉野は信じられないと眉根を寄せる。
「腹、壊さなかったか?」
「デヴィッド卿が、美味しいって食べていたよ」
「冗談だろ? まぁ、あいつならアリかな。味覚オンチだし」
アレンの前に置かれたエッグベネディクトに、サーヴィスマンが熱々のソースをたっぷりとかけている。
吉野のお薦めは、外れたことがない。
にこにことカトラリーを手にしたアレンに、吉野はほっとしたような笑みを向けた。
「まずは、美術館だろ? ルーブルと、オルセーと、他には?」
「オランジュリー美術館。モネの『水蓮』が見たい」
「OK」
眉をしかめ、俯いたアレンを吉野が訝しげに見つめた。
「どした?」
「向こうの席の紳士にウインクされた」
アレンは腹立たしげに呟き、エッグベネディクトをパクリと口に運ぶ。
「お前、ちょっと変わったな」
吉野に言われ、アレンは視線だけをあげた。
「ちょっと前なら、怒って席を立ってただろ」
クスクスと笑われて、アレンは心持ち唇を尖らせて、いつも吉野のするように鼻の頭に皺を寄せてやった。
朝食後は、一番にオランジュリー美術館に入館した。吉野の用意していたミュージアムパスで並ばずに入れた。じっくりと時間をかけて見て廻るアレンに、吉野は文句も言わずつき合っている。
目当てのモネの描いた『水蓮の間』で、アレンは息を呑んで立ち止まる。あまりのすばらしさに、息をすることさえ忘れてしまったように。
吉野にそっと肩を叩かれ、はっとして足を運んだ。楕円形のガラス天井から白く柔らかな自然光が降り注ぐ中、ゆるりとカーブを描く壁面に沿って、ゆっくりと歩を進める。
その間、吉野は中央のベンチに腰かけて、白い天井、白い床、白い壁に上下を挟まれた三百六十度広がる『水蓮』の池に、ぼんやりと視線を漂わせていた。
ぐるりと一周したアレンが吉野の横に腰をおろし、柔らかな吐息を漏らした。
「お前、そんなにこの絵が好きなの?」
じっと絵を見つめたまま呟いた吉野に、アレンは興奮したように頬を染めて頷く。
「ずっと憧れていたんだ」
離れたところから全体を眺めたり、何度も絵に沿って歩いてみたり、結局一時間近くこの『水蓮の間』にいたかもしれない。
美術館を出てから、アレンはふと気がついたように首を捻っていた。
「僕たちが『水蓮の間』にいた間、他の見学者は一人も来なかったね。他のフロアや、この部屋までの廊下には確か、もっとたくさんの人がいたはずなのに」
不思議そうに吉野の顔を見ると、吉野は悪戯っぽく目を細めて、「そんなこともあるさ」と澄ました顔でにっと笑った。
パリ北駅に到着したユーロスターからきょろきょろと辺りを見廻しながらホームに降り立ったアレンを、吉野が変わらぬにこやかな笑顔で迎えている。その顔を見つけたとたんに、アレンの頬は自然に緩んでいた。
「うん。きみは?」
訊ね返したのに、吉野はすでに背後のボディーガード二人に視線を移して、傍らの屈強そうな褐色の肌の男を紹介している。
「サイモン、デューク、よろしく頼むよ。アリーだ」
簡単な挨拶を済ますと急かすように顎をしゃくり、もう歩きだしている。
「それでお前、どこに行きたい?」
行きかけてふり返り、小首を傾げる。けれどその眼はせわしなく辺りを伺い、苛立ちが垣間見えている。久しぶりに会うこんな吉野のどこか冷めた応対に、アレンはいつも以上に緊張してすんなりと言葉がでてこなかった。
「お前、ずいぶん緊張してるんだな」
呆れ顔の吉野を、アレンは泣きたい気持ちで見つめ返した。だがすぐに、そんな想いを呑みこんで顔を伏せた。今日、明日と泊まるホテルのレストランの朝食の席で気まずくなるのは嫌だったのだ。それなのに、口から滑りでてきたのは、まったく心にないはずの言葉だった。
「きみは、いったいどこを見ているの?」
訝しげに眉根を寄せる吉野に、アレンはもう一度繰り返した。止まらなかった。
「一度も僕の方を見ようとしない」
言ってしまってから後悔で唇を噛んだ。
「ごめん」
謝ろうと口を開きかけたアレンよりも早く、吉野の唇が動いていた。
「緊張していたのは俺の方だな」
大きく目を見開いたアレンに、吉野は苦笑して肩をすくめる。
「お前な、もう思っていた以上に顔を知られているんだ。警備をどうするかとか、移動ルートとか、そんなことばっか考えてた。ごめんな」
「警備って――」
「サイモンとデュークだけじゃ心配なんだよ、俺が。俺の失態だよ。TSの店舗はロンドンとニューヨークだけだし、常に品薄で、店ができてからもほとんど予約販売と変わらない状況だろ? エリオットにいるみたいにさ、誰もがお前のこと知っているなんてことはないと高を括ってたんだ」
「うん。僕もそう思う……」
「俺のミスだよ」
吉野はため息をひとつ漏らすと、TS画面をくるりとアレンの前に向けた。
「一週間後、通信機器のパリ見本市があるんだ。これがアーカシャ―HDが出しているポスター」
画面の中の見覚えのある自分の顔に、アレンは軽く眩暈を覚えた。
「いたる所にあるバス停に貼ってあるんだ。パリ中のな」
昨夜、『吉野によろしく伝えておいて』、とクスリと笑って言った兄の顔を思いだし、アレンは脱力して吐息を漏らす。
「どうすれば、きみや兄に迷惑をかけずに済むのかな……」
アレンは、クリスマスや創立祭でのコンサートの騒ぎを思いだし、ぐっと奥歯を噛みしめた。そして、そっと上目使いに吉野を見あげると、彼は、さっきのしおらしさはどこへやらで、クロワッサンにジャムをたっぷりと付けて、パクパクと頬ばっている。
「ま、何とかするからさ、食えよ。このフランボワーズのジャムが一番旨いぞ。でもここの一番のお薦めはな、トリュフの載ったエッグベネディクト」
「ヨシノ、甘いもの、嫌いなんじゃ……」
「果物は食うよ。ジャムも、まぁ、少しなら。やっぱ、フランスは卵料理、旨いよな」
今度はふわふわのオムレツにナイフを入れている吉野に、あっと思いだしたようにアレンはにっこりする。
「卵料理といえば、アスカさんが玉子焼きを作ってくれたよ」
「飛鳥が?」
せっせとカトラリーを動かしていた手を止め、吉野は信じられないと眉根を寄せる。
「腹、壊さなかったか?」
「デヴィッド卿が、美味しいって食べていたよ」
「冗談だろ? まぁ、あいつならアリかな。味覚オンチだし」
アレンの前に置かれたエッグベネディクトに、サーヴィスマンが熱々のソースをたっぷりとかけている。
吉野のお薦めは、外れたことがない。
にこにことカトラリーを手にしたアレンに、吉野はほっとしたような笑みを向けた。
「まずは、美術館だろ? ルーブルと、オルセーと、他には?」
「オランジュリー美術館。モネの『水蓮』が見たい」
「OK」
眉をしかめ、俯いたアレンを吉野が訝しげに見つめた。
「どした?」
「向こうの席の紳士にウインクされた」
アレンは腹立たしげに呟き、エッグベネディクトをパクリと口に運ぶ。
「お前、ちょっと変わったな」
吉野に言われ、アレンは視線だけをあげた。
「ちょっと前なら、怒って席を立ってただろ」
クスクスと笑われて、アレンは心持ち唇を尖らせて、いつも吉野のするように鼻の頭に皺を寄せてやった。
朝食後は、一番にオランジュリー美術館に入館した。吉野の用意していたミュージアムパスで並ばずに入れた。じっくりと時間をかけて見て廻るアレンに、吉野は文句も言わずつき合っている。
目当てのモネの描いた『水蓮の間』で、アレンは息を呑んで立ち止まる。あまりのすばらしさに、息をすることさえ忘れてしまったように。
吉野にそっと肩を叩かれ、はっとして足を運んだ。楕円形のガラス天井から白く柔らかな自然光が降り注ぐ中、ゆるりとカーブを描く壁面に沿って、ゆっくりと歩を進める。
その間、吉野は中央のベンチに腰かけて、白い天井、白い床、白い壁に上下を挟まれた三百六十度広がる『水蓮』の池に、ぼんやりと視線を漂わせていた。
ぐるりと一周したアレンが吉野の横に腰をおろし、柔らかな吐息を漏らした。
「お前、そんなにこの絵が好きなの?」
じっと絵を見つめたまま呟いた吉野に、アレンは興奮したように頬を染めて頷く。
「ずっと憧れていたんだ」
離れたところから全体を眺めたり、何度も絵に沿って歩いてみたり、結局一時間近くこの『水蓮の間』にいたかもしれない。
美術館を出てから、アレンはふと気がついたように首を捻っていた。
「僕たちが『水蓮の間』にいた間、他の見学者は一人も来なかったね。他のフロアや、この部屋までの廊下には確か、もっとたくさんの人がいたはずなのに」
不思議そうに吉野の顔を見ると、吉野は悪戯っぽく目を細めて、「そんなこともあるさ」と澄ました顔でにっと笑った。
5
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる