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七章
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「あれ? ヨシノは?」
フレデリックが、タクシー乗り場までクリスたちを見送って戻ってくると、ロビーに飾られている絵をもう少し見たい、というアレンと並んでいた吉野がいなくなっている。
「あ、もう帰ったよ。電車に遅れるからって」
「ケンブリッジに? きみは? 一緒に戻らなくてよかったの?」
「僕はこっちに泊まるんだ。明日の開店前に、本店舗でデヴィッド卿と試作品の最終チェックがあるんだよ」
アレンは誇らしげに微笑んでいる。
「試作品? 新製品がでるの?」
フレデリックは興味津々にアレンに顔を寄せ、周囲を伺いながら声を潜めて訊ねた。会社のことを外で漏らしたら強制送還――。以前、吉野がそう零していたのが脳裏にあったのだ。
「あ、そうじゃないんだ」
アレンは首を横に振りながら、同じようにフレデリックの耳元で掌を丸め、こそこそと告げる。
「店舗ディスプレイの3D映像。今回は、店舗内にイベントスペースを作って発表するんだって」
「イベントって、あのメイボールみたいなの?」
羨ましそうに目を瞠り、顔を輝かせたフレデリックに、アレンはにっこり微笑み返す。
「きみも来る?」
「いいの!」
思わず大声をあげてしまい、はっとして、フレデリックは辺りを見回し肩をすぼめる。
「デヴィッド卿に聞いてみるね」
アレンはその場でTSネクストに指示をだして電話する。
「いつ見ても不思議だねぇ。きみたちが電話しているところ。独り言を言ってるようにしか見えないもの」
「そう? 慣れると便利だよ。いちいち取りださなくていいし。デヴィッド卿はかまわないって。きみに会えるのを楽しみにしているって、おっしゃっていたよ」
ほっとしたように顔をほころばせたアレンに、フレデリックは嬉しそうだが、でもどこか迷っているような、複雑な笑みを見せた。
「どうしたの? こう連日じゃ時間が取れない?」
わずかに陰ったアレンの瞳に気づき、フレデリックは慌てて首を横に振る。
「行くよ! こんな機会そうそうないし、嬉しいよ。ありがとう、アレン。ただね、――豆の上のお姫さまにお会いできるんだ、と思ったら緊張してしまって」
「豆?」
「豆の上のお姫様。デヴィッド卿のエリオット在学中のあだ名だよ」
――うちの学校には、すこぶる美人が三人いてね。一人は一個上の先輩で、恐れ多くて誰もあだ名でなんか呼ばない。後の二人は一個下で、一人が豆の上のお姫様って呼ばれている。もう一人は、眠り姫。そう呼んでいるのは僕だけだけどね。いつも神経を張り詰めていて、話をしていても、ぷつんと糸が切れたみたいに眠りこけたりするんだよ。
昔、兄に聞いた話を思いだしながらフレデリックは目を細めていた。
そして、今うちの学校で一番の美人と言われているのは――。
「そうだ、アレン、僕はきみに謝らなければ」
ん? と首を傾げる彼に、フレデリックは言いにくそうに下を向いた。
「怒らないでくれる?」
覚悟を決めたように真っ直ぐに視線を戻した彼に、アレンも背筋を伸ばして頷く。
「僕は今まで、きみを天使だと形容するのは褒め言葉だと思っていたんだ」
緊張した声音で告げた告白への、拍子抜けしたようにぽかんとしたアレンの反応に、フレデリックは自罰的な視線をちらと向けてすぐに伏せ、ふわりと柔らかな笑みを模る口許だけを向ける。
「きみがピアノを弾いているとき、クリスの彼女が言ってたんだ。本当に、きみは天使みたいに綺麗だって」
アレンはわずかに眉根を寄せる。
「それからクリスに、『あなたがただの人間で良かった』って。僕はそれを聞いたとき、ほっとして、同時に心が痛かった」
「メイボールのときみたいに――」
「ならなくて良かったって正直思ったよ。でも、」
フレデリックは言葉を切って、哀しげに顔を歪めた。
メイボールのダンスホールでは、誰もが当たり前のようにアレンばかりをちやほやしていた。一緒に踊っているときでさえ、彼女たちの視線はアレンを追っていたのだ。あんな屈辱的な思いは二度としたくない。男なら誰だってそう思うだろう。
彼のような誰もが振り返るほどの美貌の持ち主を、自分の彼女に紹介したいはずがない。フレデリックはそう思っていた。けれど、クリスは堂々と彼女にアレンを紹介した。そして、返ってきた言葉がこれだ。
綺麗な天使と一緒では、楽しめない――。
そんなふうに聞こえた。実際彼女は、アレンが席を外したとたんに、寛いで喋り始めたのだから。
「ヨシノだけだったんだね。きみをちゃんと一人の人間として扱っていたのは――。彼は、きみに見とれる彼女の頭を冷やすために席を立ったきみが、お茶すら満足に飲んでいないことにすぐに気がついていた」
フレデリックは自嘲的に口元を引き締め、言葉を続ける。
「きみだって、お腹も空けば喉も渇く。同じ人間なんだから。そんな当たり前のことを僕らは忘れていたんだ。本当にごめん」
「そんなこと――」
アレンは困ったように微笑んだ。まったく気にしてないよ、と首を振って。
「それよりも、僕のせいで二人の仲がおかしくならなくて良かったよ」
顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
目の前にいる彼は、天使なんかじゃない。
人一倍傷付きやすくて繊細な、そして、しなやかに強い僕の自慢の友人なのだ――。
フレデリックは、今度こそ頭を高くあげて微笑んだ。
「でも彼女、ヨシノにもずいぶん驚いてたよ。きみを見たとき以上に」
「ヨシノの印象って、強烈だものね」
「野生動物?」
サウードがいつも言うように、フレデリックが冗談めかすと、アレンも同意するように口許を緩ませた。
吉野のあの独特の雰囲気はなんとも形容しがたい。東洋の神秘、なんて曖昧なものではなく、もっと強烈で凶暴だ。そのくせ静かで、黙っているときは気配すら感じさせない。草むらで獲物に飛びかかる瞬間を待つ肉食獣の静と動が混在する。
フレデリックはぼんやりと、先ほどの吉野を思いだしていた。
ピアノを弾くアレンに、親鳥が雛に餌を与えるように食餌させていた優しげな吉野の横顔を――。
そして、吉野が席を立ってなお、その背中を追い続けていたクリスの彼女の食い入るような視線を――。
フレデリックが、タクシー乗り場までクリスたちを見送って戻ってくると、ロビーに飾られている絵をもう少し見たい、というアレンと並んでいた吉野がいなくなっている。
「あ、もう帰ったよ。電車に遅れるからって」
「ケンブリッジに? きみは? 一緒に戻らなくてよかったの?」
「僕はこっちに泊まるんだ。明日の開店前に、本店舗でデヴィッド卿と試作品の最終チェックがあるんだよ」
アレンは誇らしげに微笑んでいる。
「試作品? 新製品がでるの?」
フレデリックは興味津々にアレンに顔を寄せ、周囲を伺いながら声を潜めて訊ねた。会社のことを外で漏らしたら強制送還――。以前、吉野がそう零していたのが脳裏にあったのだ。
「あ、そうじゃないんだ」
アレンは首を横に振りながら、同じようにフレデリックの耳元で掌を丸め、こそこそと告げる。
「店舗ディスプレイの3D映像。今回は、店舗内にイベントスペースを作って発表するんだって」
「イベントって、あのメイボールみたいなの?」
羨ましそうに目を瞠り、顔を輝かせたフレデリックに、アレンはにっこり微笑み返す。
「きみも来る?」
「いいの!」
思わず大声をあげてしまい、はっとして、フレデリックは辺りを見回し肩をすぼめる。
「デヴィッド卿に聞いてみるね」
アレンはその場でTSネクストに指示をだして電話する。
「いつ見ても不思議だねぇ。きみたちが電話しているところ。独り言を言ってるようにしか見えないもの」
「そう? 慣れると便利だよ。いちいち取りださなくていいし。デヴィッド卿はかまわないって。きみに会えるのを楽しみにしているって、おっしゃっていたよ」
ほっとしたように顔をほころばせたアレンに、フレデリックは嬉しそうだが、でもどこか迷っているような、複雑な笑みを見せた。
「どうしたの? こう連日じゃ時間が取れない?」
わずかに陰ったアレンの瞳に気づき、フレデリックは慌てて首を横に振る。
「行くよ! こんな機会そうそうないし、嬉しいよ。ありがとう、アレン。ただね、――豆の上のお姫さまにお会いできるんだ、と思ったら緊張してしまって」
「豆?」
「豆の上のお姫様。デヴィッド卿のエリオット在学中のあだ名だよ」
――うちの学校には、すこぶる美人が三人いてね。一人は一個上の先輩で、恐れ多くて誰もあだ名でなんか呼ばない。後の二人は一個下で、一人が豆の上のお姫様って呼ばれている。もう一人は、眠り姫。そう呼んでいるのは僕だけだけどね。いつも神経を張り詰めていて、話をしていても、ぷつんと糸が切れたみたいに眠りこけたりするんだよ。
昔、兄に聞いた話を思いだしながらフレデリックは目を細めていた。
そして、今うちの学校で一番の美人と言われているのは――。
「そうだ、アレン、僕はきみに謝らなければ」
ん? と首を傾げる彼に、フレデリックは言いにくそうに下を向いた。
「怒らないでくれる?」
覚悟を決めたように真っ直ぐに視線を戻した彼に、アレンも背筋を伸ばして頷く。
「僕は今まで、きみを天使だと形容するのは褒め言葉だと思っていたんだ」
緊張した声音で告げた告白への、拍子抜けしたようにぽかんとしたアレンの反応に、フレデリックは自罰的な視線をちらと向けてすぐに伏せ、ふわりと柔らかな笑みを模る口許だけを向ける。
「きみがピアノを弾いているとき、クリスの彼女が言ってたんだ。本当に、きみは天使みたいに綺麗だって」
アレンはわずかに眉根を寄せる。
「それからクリスに、『あなたがただの人間で良かった』って。僕はそれを聞いたとき、ほっとして、同時に心が痛かった」
「メイボールのときみたいに――」
「ならなくて良かったって正直思ったよ。でも、」
フレデリックは言葉を切って、哀しげに顔を歪めた。
メイボールのダンスホールでは、誰もが当たり前のようにアレンばかりをちやほやしていた。一緒に踊っているときでさえ、彼女たちの視線はアレンを追っていたのだ。あんな屈辱的な思いは二度としたくない。男なら誰だってそう思うだろう。
彼のような誰もが振り返るほどの美貌の持ち主を、自分の彼女に紹介したいはずがない。フレデリックはそう思っていた。けれど、クリスは堂々と彼女にアレンを紹介した。そして、返ってきた言葉がこれだ。
綺麗な天使と一緒では、楽しめない――。
そんなふうに聞こえた。実際彼女は、アレンが席を外したとたんに、寛いで喋り始めたのだから。
「ヨシノだけだったんだね。きみをちゃんと一人の人間として扱っていたのは――。彼は、きみに見とれる彼女の頭を冷やすために席を立ったきみが、お茶すら満足に飲んでいないことにすぐに気がついていた」
フレデリックは自嘲的に口元を引き締め、言葉を続ける。
「きみだって、お腹も空けば喉も渇く。同じ人間なんだから。そんな当たり前のことを僕らは忘れていたんだ。本当にごめん」
「そんなこと――」
アレンは困ったように微笑んだ。まったく気にしてないよ、と首を振って。
「それよりも、僕のせいで二人の仲がおかしくならなくて良かったよ」
顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
目の前にいる彼は、天使なんかじゃない。
人一倍傷付きやすくて繊細な、そして、しなやかに強い僕の自慢の友人なのだ――。
フレデリックは、今度こそ頭を高くあげて微笑んだ。
「でも彼女、ヨシノにもずいぶん驚いてたよ。きみを見たとき以上に」
「ヨシノの印象って、強烈だものね」
「野生動物?」
サウードがいつも言うように、フレデリックが冗談めかすと、アレンも同意するように口許を緩ませた。
吉野のあの独特の雰囲気はなんとも形容しがたい。東洋の神秘、なんて曖昧なものではなく、もっと強烈で凶暴だ。そのくせ静かで、黙っているときは気配すら感じさせない。草むらで獲物に飛びかかる瞬間を待つ肉食獣の静と動が混在する。
フレデリックはぼんやりと、先ほどの吉野を思いだしていた。
ピアノを弾くアレンに、親鳥が雛に餌を与えるように食餌させていた優しげな吉野の横顔を――。
そして、吉野が席を立ってなお、その背中を追い続けていたクリスの彼女の食い入るような視線を――。
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