胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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「ヨシノがひどいんだよ!」
 ノックの音もそこそこに、クリスが部屋に飛び込んできた。彼は涙を滲ませ、頬を膨らませて憤慨しているのだ。フレデリックはわけの判らないまま、とりあえずの笑みを浮かべる。

「クリス、とにかく落ち着いて。何があったの? 順を追って話してくれないと判らないよ」
「わ、別れろって。ジェーンと別れろって……」
「なんで?」
 さすがのフレデリックも唖然として眉を寄せる。クリスは唇をへの字に曲げたまま、ぶんぶんと首を横に振る。
「理由は、教えてくれないんだ」
 憮然と項垂れているクリスに、なんと声をかけたらいいのか――。
 フレデリックは困り果てて、喉元まで出かかっていため息を呑み込むより仕方がない。
「それは、いくらヨシノでも理不尽だね」
「そうだよ! いくらヨシノだって理不尽だよ!」

 仕方なく呟いたフレデリックの一言に、クリスは同意を得たりと捲したて始める。
 
 だいたい、吉野は彼女のことをたいして知りもしないくせに偉そうに言って、絶対に彼女を誤解しているか、もしかしたら彼女があんまりに可愛いからやきもちを焼いているのかもしれない――、等々。

「ヨシノの彼女、絶世の美人だって噂だよ」
「え?」
「噂だけどね。ほら、ヨシノは目立つからさ。ハーフタームとかさ、週末にロンドンで見かけたって奴が何人かいるんだよ」
「じゃ、なんで人の恋路を邪魔するんだろ?」
「んー。僕からさりげなく訊いてみようか? きみには直接言いにくいような理由があるのかも知れないし――」
 瞳ですがりつくクリスにフレデリックは苦笑を返し、小さく吐息を漏らした。

 自分の恋路なんだから、他人になんて言われようがかまわないじゃないか――。

 本当はそう言ってあげたかったのだ。
 だが、いつもの吉野なら、彼こそが、そう言うに違いないのだ。

 クリスマス・コンサートを翌日に控えているこんな時期に、突然こんなことを言いだした吉野の真意をフレデリックも計り兼ねているのだ。
 怒っているというよりも、がっくりと肩を落としているクリスを引き立てるように、勢いよくバンッと背中を叩く。

「ほら、リハーサル、遅れるよ。今回はきみが主役なんだから、こんなことで落ち込まないの!」
「うん!」

 パシッ!

 気を取り直して微笑むクリスと、フレデリックの手のひらが小気味良く打ち合わされる。

「アレンは?」
「先に行っているはずだよ。今日はTSの取りつけ作業にアスカさんが来ているんだって」
「え、本当! 僕も行っていいかな!」

 フレデリックは、嬉しそうに瞳を輝かせている。クリス同様、彼も飛鳥のファンなのだ。そのことをクリスも良く知っていた。

「一般生徒はダメだよ」
 一瞬にして絶望するフレデリックをクリスは悪戯っぽい視線で見つめ、頭を掻きながらつけ加えた。
「でも、まぁ、そこは、監督生特権ってことでいいんじゃないの?」
「ははは、特権乱用だ」
「だからね、外部からの協力者に、うちの生徒が失礼のないように、だね――」

 クリスはフレデリックと肩を組んで、クスクスと笑っている。こんなふうに感情の切り替えが早いのも、彼の良いところだ。さっきまでの泣き言なんて忘れてしまったかのように、もう声を立てて笑っているのだから。

「ありがとう。ほら、早く行こう」

 フレデリックは机の上に開いていたノートを閉じ、クリスの背中を押すようにして自室を後にした。





 午後の課外授業を終えたばかりのコンサート・ホールは、まだ出演する生徒たちもそれほど集まってはおらず、忙しく立ち働いているのはコズモスからの出張スタッフがほとんどだ。
 そんな中、ステージ中央に立ちスタッフに指示を出している弟の姿を頼もしく眺めながら、飛鳥はアレンと並んで客席に陣取っていた。

「やっぱり吉野は手際がいいね。僕じゃ、こうはいかないよ」
 飛鳥は自慢そうにアレンを振り返る。
「僕は初めてなんです。彼がたち働いている姿を見るのは。ニューヨークでも設定する部署は企業秘密みたいな扱いで、僕は入れてもらえなくて――」
「へぇー、そうなんだ。見られたって、どうってことないのにねぇ」
 目を丸くしている飛鳥の頭上から、「終わったぞ、飛鳥!」とステージ上で吉野が腕を伸ばして合図を送ってきた。

「OK! もう始めていいのかな? それとも生徒さんが揃うまで待つの?」
「先に始める! 色の調節をしたい! 照明、落として!」

 トッ、とステージから飛びおりると、吉野が駆け寄ってきた。


「問題はね、時間なんだよ。生演奏って、きっちり同じ時間で終わるか判らないだろ? 演奏と映像があまりにズレたら間抜け、っていうかさぁ……」
 飛鳥は膝の上のノートパソコンを真剣に見つめながら独り言のように呟いている。吉野はその横で画面を覗きながら、時折ステージに目をやっている。


「おい、」
 声をかけられていることに、アレンは気づかない。目をまん丸に見開いて、魂を吸いこまれているような集中力でステージを見つめているのだ。
「アレン」
 軽く肩を叩かれ、はっとして振り返る。
「どうかな、四季をイメージしてみたんだけれど」
 隣の座席の飛鳥とその横にいる吉野の視線が、じっと自分に注がれていた。
「演奏の気が散るかな、とも思うんだ。だから奏者からは映像が見えないようにした方がいいかな、て。きみはどう思う?」
「え? ああ、どうでしょうね? 確かに、僕なんか演奏するのも忘れて見惚れてしまうかも」

 今、夢から覚めたばかりのように、アレンは幸せそうにうっとりと微笑んでいる。
「やっぱり、チラチラしすぎるかなぁ? なぁ、吉野?」

 隣にいたはずの吉野は、いつの間にか席を外して、背の高い派手な赤のウェストコートの生徒と話している。

「飛鳥、そろそろ揃ったらしいぞ。ステージに上げてもいいか? ほらアレン、お前もさっさと行け」

 吉野は渋い顔で顎をしゃくる。アレンはそそくさと立ちあがり、飛鳥に会釈してステージ上に向かった。

「それじゃあ、ちょっとだけ見えるバージョンを流してみてもいいかな?」
「レイモンド、俺ここから指示を出すからさ、あいつらに伝えてくれ」

 吉野はくだんの上級生に簡潔に指示を伝えると、座席に戻ってまた腰を下ろした。そして前の座席の背もたれに脚をあげ、偉そうにふんぞり返っているのだ。飛鳥は眉をひそめて「こらっ!」と小声でたしなめて、その脚をパシッと叩いた。


「ヨシノ! アスカさん!」

 今度はレイモンド・マーカイルと入れ違いにやってきたフレデリックが、二人を呼んでいる。だがその瞳は、ステージに向かうレイモンドの背中を訝しげに追いかけている。

「よう! 来たのか!」
 だが普段通りの吉野の声にほっとして、フレデリックは彼の横に滑りこむように腰をおろした。

「ちょうど良かった。お前を呼びだそうと思っていたんだ」
 吉野は、ステージに立つヴァイオリニストに人差し指を立てて合図を送り、じっとステージを睨みつけながら喋り続ける。
「当日、ここの会場に監督生何名くらい配置する予定?」

「ああ、駄目だね、これは……」
 横で飛鳥が呟いた。
 ステージ上の生徒二人はかろうじて手は動かして演奏を続けているものの、視線はすっかり宙を漂っている。

「ごめん! もう一回初めから!」
 吉野が大声をあげて演奏を止める。

「やっぱり、そうなるよな」
 横にいるフレデリックも、すっかり目を見開いて呆けているのだ。
「なぁ、演奏会なのにさぁ、こんな派手に映像流しちまっていいのかな?」

 吉野の疑わしそうな視線に、飛鳥も、どうしたものかと困ったように肩をすくめた。



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