胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
430 / 758
七章

しおりを挟む
「急にルベリーニに逢うことになってね。長くはかからないから、ここで待っていてくれる?」と申し訳なさそうに告げて、ヘンリーはナイツブリッジのアパートメントでいったん車を止めた。
 アレンは泣き腫らした顔のままで帰宅することなく一息つけることに安堵し、サラは滅多に来ることのないこの場所を緊張の面持ちで見回している。




 やがてとっぷりと日が暮れてから、三人はケンブリッジの館に帰りついた。予定よりもかなり遅くなってしまっている。

「お帰り! 吉野も戻ってるよ!」
 ぐったりと疲れた様子で玄関を潜る三人を、飛鳥の弾んだ声と嬉しそうな瞳が迎える。
「それは嬉しいね」
 にこやかに応えるヘンリーを尻目に、アレンはうずうずと吉野の姿を辺りに探している。
「えっと、部屋にいなかったら庭かな? 池の様子を気にしてたから、」
 言い終わらない内にアレンはもう、それぞれの個室のある二階へ駆けだしている。

 その背中をにこにこと見送った飛鳥は、彼の姿が見えなくなったとたんに、語調も表情もがらりと変えて、「ヘンリー、TS看板の件なんだけどね、」とすぐさま仕事の話をきりだして、身振り手振りを交えながら帰ってきたばかりの二人をコンサバトリーにいざなう。




 ロンドンからの車中では、しんしんと空から落ちていた雪もすでに止み、頭上は紺青の闇に包まれている。
 きゅっ、きゅっ、と雪を踏みしめて進むごと、足下のセンサーライトに、ぽん、ぽん、と明かりが灯る。小広場から緩やかな坂道を上がりきったところで、アレンは、ふわりと笑みを零す。
 小径に沿って林立するゴールドクレストの一本一本に、夜空の星を撒いたようなイルミネーションが、囁かな光を放っているのだ。

 クリスマスツリーの木立――。

 浮き立つ心のまま、歩を進める。灯りの消えた温室も念のために覗き、誰もいないのを確認する。さらに急ぎ進んでいくと、木立の切れ間に池が見えてくる。

 鏡となった水面は、ところどころに浮かんでいる水連の葉の間に、雪を被り白く輝く木立と常闇を映しながら、微かに揺らいでいる。だが外灯に照らされた緑色のアーチ橋には、目当ての人はいない。 
 アレンはがっかりして橋の中央に立ちつくし、欄干に積もる雪を払い落として池の中を覗き込む。黒く沈む陰影の自分はあまりにも朧げで、形をなして見ることは叶わない。急に、その水面から漂いまといつく凍りつくような冷気を肌に自覚し、アレンはぶるりと身を震わせた。ため息を一つついて、またぞろ足を進ませる。若干、諦めてしまったように、のろのろと。

 すれ違ったのだろうか。
 反対側から、戻ってしまったのかもしれない――。

 もう木立に輝くイルミネーションに目をやることもなく、アレンは俯いたまま先を急いだ。
 林の終わり、高台から見おろせる蜂蜜色の館は、温もりのある灯りに包まれている。煌々とした光の溢れるコンサバトリーでは、床に胡座をかいて座る飛鳥が、サラ、そしてヘンリーと向き合って真剣に何か話し合っているようだ。

「おい!」

 暗闇からいきなり声をかけられてびくりと跳ねあがったアレンは、慌てて辺りを見回した。
 雪景色に溶けこんでいるような六角形の屋根の下、大理石の円柱の陰に置かれたベンチの背に腕をかけて、吉野が手を振っているではないか。

「寒がりのお前がこんな夜中に散歩か? 風邪ひくぞ!」
 薄闇の中でそう言って目を細めた吉野の方が、寒そうに声が震えている。小径を外れ東屋に足を向けると、とたんに足下のセンサーライトが消えた。

 雲の切れ間から覗く弓のような半月に、藍色の雪原を鈍く輝く。

 雪を蹴散らし、吉野の横にすとんと腰をおろすと、アレンはふわりと嬉しそうに微笑んだ。

「父に会ってきたんだ」
「聞いたよ」
 吉野も目を細めてにっと笑う。
「良かったな、親父さんに会えて」
「うん。想像していた以上に、素晴らしい方だった」

 思いだすだけでじんわりと涙が湧いてきそうになって、アレンは振りきるように首を振った。もう吉野の前では泣かない。そう決めたのだ。だから唇を引き結び、心を落ち着けてひと呼吸置いてから、とつとつと話し始めた。

 誰よりも、何よりも一番に、吉野に伝えたかったのだ。お礼を言いたかったのだ。「リチャードはお前の父親だ」と言ってくれた吉野に――。
 不義の子を見つめる父の眼がどれほど慈悲深く、愛情に溢れた瞳であったか……。そして、会いたい想いと同じくらい、否定される恐怖に怯えていた自分の心を優しく包み、涙を払ってくれたことを。

 吉野は優しげに微笑んで、アレンの話にじっと耳を傾けてくれた。
 高揚する想いをすっかり吐きだして、やっと我に返ってアレンは穏やかに佇む吉野の視線の先を追った。相槌を打ってくれながら、ふわりと視線を漂わせた、寒さに身を縮ませながら、それでも微笑んで見つめている彼を――。

 急に黙りこみ、目を見開いてじっと自分を見つめるアレンに、吉野はすっと手を伸ばした。

「目が腫れてる。いっぱい泣いたんだろ?」
 いつものように頭を撫でようとした掌を、思い返してきゅっと握ると、吉野は自分に向けられたセレストブルーのすぐ下の頬を擦る。アレンの肌に触れたその指は、凍りつきそうに冷たかった。

「きみの手、冷え切っている」
「うん。ずっとここにいたからな」
 立ちあがり、吉野はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「何をしていたの?」
「見てたんだ、飛鳥を。すごく幸せそうだな、て。――俺、本当に感謝してるんだ。TSの第一弾がさ、なんでタブレット、通信機器だったか知ってるか?」
「え……?」
「俺、ガン・エデン社に対抗するためだって、ずっと思ってた」
「違うの?」

 アレンは、何年か前に寮長の部屋で吉野と一緒に見たデモ映像を思い返し、首を傾げた。

「リチャードのためだったんだよ。上手く身体が動かせなくても、設定した通りの適切な距離に画面が現れて音声認識で操作できる。音は鼓膜に直接響く。小さな声でもちゃんと拾って適切に反応する。障害があっても、使いこなせるんだ。ヘンリーは、父親リチャードのためにあれの開発をしてたんだよ。TSがそんなふうに作られたって知って、嬉しかったよ。俺、ヘンリーこいつを信じられるって思えた」

 今、決心したばかりなのに、アレンの胸には、またもや熱いものが込みあげてきていた。吉野は、震える瞳で彼を凝視するアレンの頭を、今度は遠慮なくわしわしと撫でた。

「また降ってきたぞ。もう戻ろう。風邪ひくぞ」

 吸い込まれそうな漆黒から、また、ちらちらと白いものが落ちてきている。
 柔らかく舞う結晶に手を伸ばすと、吉野は笑って寒そうに肩をすくめた。
 二人は並んで、東屋から温かい灯りの誘う館へと歩きだした。




しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする

夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】 主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。 そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。 「え?私たち、付き合ってますよね?」 なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。 「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

処理中です...