445 / 758
七章
3
しおりを挟む
重くのしかかる曇天を見上げて、白く凍りついていく息を、吉野はわざと大きく空に向けて吐きだした。
「なぁ、この窓、もう閉めていいだろ? 腹減っていると寒さが骨身に染みるんだよ」
この広い美術室でキャンバスに向かうアレンの背中に声をかける。驚いた顔で振り向いた彼は、今気づいたように開け放たれたフランス窓に視線を流し、慌てて駆け寄り閉めきる。
「ごめん」
「換気するとか言って、そのまま忘れてたのかよ」
呆れ声の吉野をアレンは眉を八の字にして上目遣いに見上げ、小首を傾げてにこっと微笑む。
「お茶、飲みに行く? もう少ししたら」
「いいよ、お前のもう少しは長いから。期待すると絶望する」
白い蛇腹のセントラルヒーティングの前まで椅子を引きずり、吉野は座面をまたいでどっかと腰かける。
ほどよく温まってきた背中を丸め、背もたれに腕をかけて、その上に頭をのせて絵筆を握るアレンを眺める。形の良い眉を怒っているようにきゅっと寄せたかと思うと、いきなりにやにやと口許を緩めたり、唇を尖らせたり引き結んだり――。百面相しながらアレンはキャンバスを睨んでいるのだ。
糸を張ったような静寂の満ちた教室内に、時折、カシャカシャと細かな音が散る。
身動きすることすら罪悪のような、自分のわずかな息遣いすら煩わしく感じるこの空間に溶けてしまったかのように吉野はその場に座っている。
どれくらい経っただろうか、夢中で絵筆を走らせていたアレンは、ほうっと息を漏らし、はっと思いだしたように周囲を見回した。窓の外はもう真っ暗だ。壁際のセントラルヒーティングの前に、背もたれに頬をついている吉野を見つける。
「終わり?」
吉野の方が先に口を開いた。
「うん。起きてたの? 眠っていると思っていた」
「見てたんだ」
「どう?」
「綺麗だよ」
目を細めた吉野に、アレンは嬉しそうに微笑み返す。
「アレン」
ガラリと戸が開き、フレデリックが顔を覗かせる。
「遅いから迎えにきたよ」
「フレッド」
ガタッと椅子から立ちあがった吉野は、すたすたと戸口に向かう。肩の高さに掌を挙げてフレデリックと手と手を打ち合す。
「俺、飯食いに行くからさ、後は頼んだぞ」
え? と、アレンが慌てて道具を片づけにかかった時には、吉野の姿はもうなかった。
「あ、怒らせちゃったかなぁ。ずいぶん待たせてしまったから……」
一瞬にして落ち込んだアレンを慰めるように、フレデリックはその肩を叩いた。
「いつものことだよ。絵はこれで完成? 綺麗だね」
「ううん。まだ下絵なんだ。もうすぐASレベル試験だから、とりあえずここまで」
森閑とした雪景色の中に埋もれる東屋から、遠くを見つめる青年の姿が描かれているその絵は、ほとんど色がない。青みがかった白一色の濃淡だけで表現され、身体をひねってベンチに腰かける黒いローブの青年だけが、色彩を持って浮きあがり存在感を示している。
「これ、彼だね?」
「うん」
「ヨシノ、何も言わなかった?」
「綺麗だって」
嬉しそうに笑ったアレンを、フレデリックは意外そうに見つめ返した。あの吉野が自分の絵を描かれて文句も言わず、なおかつ綺麗だなんて! 信じられない面持ちで、吉野の座っていた椅子を眺める。
「ヨシノ、ずっとそこで付き合ってくれていたんだ。眠らずに」
アレンは肩をすくめてクスクスと笑った。吉野が居眠りせずに自分の絵を見ていてくれたことがよほど嬉しかったのだろう。
フレデリックは頷いて、吉野の使っていた椅子に腰をおろした。
「彼、近くできみの絵を見た?」
のんびりと筆を洗い、丁寧にパレットの絵の具を拭き取っているアレンを、フレデリックは座ったまま見上げる。
「ずっとそこに座っていたよ。寒いからって。彼、冬でも平気で木に登るくせに、今日は猫みたいに暖房の前で丸くなっていた」
クスリと笑ったフレデリックに、アレンも手を動かしながら可笑しそうに応えた。
「腹減ったー、って言っていたんだろ? いつものエネルギー切れだね」
クスクス笑いながら、同時にフレデリックはやるせなく息を漏らした。
この位置からはあの絵は見えない。彼はアレンの絵を見ていないのだ。
ウイングカラーシャツに灰色のウエストコート、その上に生成りの丈の長いエプロンをしたアレンを、フレデリックはじっと見つめた。
波打つ黄金の髪。伏し目がちな青紫の瞳にかかる金の睫毛、整った鼻梁。花弁のような唇。抜けるように白い肌――。その表情には、入学したての頃のような幼さはもうない。それなのに、彼は今でも天使さながらに無垢で透明だ。彼の描くこの絵のように――。
「綺麗だ」
呟いたフレデリックに、アレンは面をあげて花が開くように微笑んだ。
「冬試験が終わるまで続きはお預けだなんてね。もう、頭の中ではできあがっているのに! なんだかもどかしいよ」
「うん、僕もだ。今は試験優先だからね。さぁ、僕も手伝うよ。早く片づけて僕らも夕食に行かないと」
フレデリックは立ちあがり軽く伸びをすると、にっこりとアレンに微笑みかけた。
「なぁ、この窓、もう閉めていいだろ? 腹減っていると寒さが骨身に染みるんだよ」
この広い美術室でキャンバスに向かうアレンの背中に声をかける。驚いた顔で振り向いた彼は、今気づいたように開け放たれたフランス窓に視線を流し、慌てて駆け寄り閉めきる。
「ごめん」
「換気するとか言って、そのまま忘れてたのかよ」
呆れ声の吉野をアレンは眉を八の字にして上目遣いに見上げ、小首を傾げてにこっと微笑む。
「お茶、飲みに行く? もう少ししたら」
「いいよ、お前のもう少しは長いから。期待すると絶望する」
白い蛇腹のセントラルヒーティングの前まで椅子を引きずり、吉野は座面をまたいでどっかと腰かける。
ほどよく温まってきた背中を丸め、背もたれに腕をかけて、その上に頭をのせて絵筆を握るアレンを眺める。形の良い眉を怒っているようにきゅっと寄せたかと思うと、いきなりにやにやと口許を緩めたり、唇を尖らせたり引き結んだり――。百面相しながらアレンはキャンバスを睨んでいるのだ。
糸を張ったような静寂の満ちた教室内に、時折、カシャカシャと細かな音が散る。
身動きすることすら罪悪のような、自分のわずかな息遣いすら煩わしく感じるこの空間に溶けてしまったかのように吉野はその場に座っている。
どれくらい経っただろうか、夢中で絵筆を走らせていたアレンは、ほうっと息を漏らし、はっと思いだしたように周囲を見回した。窓の外はもう真っ暗だ。壁際のセントラルヒーティングの前に、背もたれに頬をついている吉野を見つける。
「終わり?」
吉野の方が先に口を開いた。
「うん。起きてたの? 眠っていると思っていた」
「見てたんだ」
「どう?」
「綺麗だよ」
目を細めた吉野に、アレンは嬉しそうに微笑み返す。
「アレン」
ガラリと戸が開き、フレデリックが顔を覗かせる。
「遅いから迎えにきたよ」
「フレッド」
ガタッと椅子から立ちあがった吉野は、すたすたと戸口に向かう。肩の高さに掌を挙げてフレデリックと手と手を打ち合す。
「俺、飯食いに行くからさ、後は頼んだぞ」
え? と、アレンが慌てて道具を片づけにかかった時には、吉野の姿はもうなかった。
「あ、怒らせちゃったかなぁ。ずいぶん待たせてしまったから……」
一瞬にして落ち込んだアレンを慰めるように、フレデリックはその肩を叩いた。
「いつものことだよ。絵はこれで完成? 綺麗だね」
「ううん。まだ下絵なんだ。もうすぐASレベル試験だから、とりあえずここまで」
森閑とした雪景色の中に埋もれる東屋から、遠くを見つめる青年の姿が描かれているその絵は、ほとんど色がない。青みがかった白一色の濃淡だけで表現され、身体をひねってベンチに腰かける黒いローブの青年だけが、色彩を持って浮きあがり存在感を示している。
「これ、彼だね?」
「うん」
「ヨシノ、何も言わなかった?」
「綺麗だって」
嬉しそうに笑ったアレンを、フレデリックは意外そうに見つめ返した。あの吉野が自分の絵を描かれて文句も言わず、なおかつ綺麗だなんて! 信じられない面持ちで、吉野の座っていた椅子を眺める。
「ヨシノ、ずっとそこで付き合ってくれていたんだ。眠らずに」
アレンは肩をすくめてクスクスと笑った。吉野が居眠りせずに自分の絵を見ていてくれたことがよほど嬉しかったのだろう。
フレデリックは頷いて、吉野の使っていた椅子に腰をおろした。
「彼、近くできみの絵を見た?」
のんびりと筆を洗い、丁寧にパレットの絵の具を拭き取っているアレンを、フレデリックは座ったまま見上げる。
「ずっとそこに座っていたよ。寒いからって。彼、冬でも平気で木に登るくせに、今日は猫みたいに暖房の前で丸くなっていた」
クスリと笑ったフレデリックに、アレンも手を動かしながら可笑しそうに応えた。
「腹減ったー、って言っていたんだろ? いつものエネルギー切れだね」
クスクス笑いながら、同時にフレデリックはやるせなく息を漏らした。
この位置からはあの絵は見えない。彼はアレンの絵を見ていないのだ。
ウイングカラーシャツに灰色のウエストコート、その上に生成りの丈の長いエプロンをしたアレンを、フレデリックはじっと見つめた。
波打つ黄金の髪。伏し目がちな青紫の瞳にかかる金の睫毛、整った鼻梁。花弁のような唇。抜けるように白い肌――。その表情には、入学したての頃のような幼さはもうない。それなのに、彼は今でも天使さながらに無垢で透明だ。彼の描くこの絵のように――。
「綺麗だ」
呟いたフレデリックに、アレンは面をあげて花が開くように微笑んだ。
「冬試験が終わるまで続きはお預けだなんてね。もう、頭の中ではできあがっているのに! なんだかもどかしいよ」
「うん、僕もだ。今は試験優先だからね。さぁ、僕も手伝うよ。早く片づけて僕らも夕食に行かないと」
フレデリックは立ちあがり軽く伸びをすると、にっこりとアレンに微笑みかけた。
5
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる