胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

煌めき6

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 ナイツブリッジのアパートメントに戻るなり、飛鳥はアレンをお茶に誘った。覇気のない彼がずっと気にかかっていたのだが、こうして安全圏に戻るまで理由を尋ねることを躊躇していたのだ。

「どうしたの? あいつがまた何か無神経なことでもやらかしたのかな?」
 キッチンでお湯を沸かしながら、飛鳥は何げなさを装って問いかけてみた。
「あ、僕がやります」
 だがアレンはそれには答えずに、どこか気負った様子で、勝手知ったる戸棚からそそくさと茶葉を取りだす。
「えっと、コーヒーの方がいいですか?」
「どっちでも。きみは?」
 つい今しがたまで、お腹がたぽたぽになるほど紅茶を飲んできたところだ。誘った飛鳥の本音としては、どちらもいらない、が正しい。
「じゃあ、コーヒーを」
 出したばかりの茶葉の缶を棚にしまい、アレンはコーヒーを淹れる準備に取りかかる。



 二人は香り立つコーヒーの湯気をくゆらせながら、キッチンの続きの温室に移動した。ガラス張りの内側から見上げる曇天を、霞んだ夕日が鈍色の中に茜を混ぜ込んだまだら模様に染めあげている。夕闇に沈む手前の中庭では、常緑の低木のそこかしこにスノードロップが顔を覗かせていた。

「スノードロップだ。たくさん咲いているね」
「学校でも――」
「今が盛りだね。スノードロップは冬の終わりと春の訪れを告げる花だって、ヘンリーに教えてもらったよ。――それで、きみを冬に繋ぎ留めている憂いは何? 吉野のことなんだろ?」

 顔を伏せて黙りこんでしまったアレンから目を逸らし、飛鳥は闇の濃くなってゆく中庭に面を向け、コーヒーカップを両手で包むように持ちあげて、ゆっくりと口に運ぶ。
「ごめん。心配なだけなんだ。あいつ馬鹿だからさ、きみを傷つけているんじゃないかって」

「ヨシノの、彼のせいじゃありません。僕の問題なんです」
 消えいりそうなか細い声が返ってきた。飛鳥はふわりと優しい笑顔を浮かべてそんな彼を受け止める。
「じゃあ、きみの問題は何? 言いたくなければ言わなくてもいい。でも、もし吐きだすことできみが少しでも楽になれるのなら、教えて欲しいんだ。僕にとってはね、きみも吉野も、同じように可愛いんだよ」

 アレンは飛鳥に、泣きだしてしまいそうな衝動を瞳を震わせて堪えている、縋りつかんばかりの視線を向けた。だがふたたび顔を伏せ、きゅっと眉根を寄せて唇を噛んだ。ツイードのトラウザーズの生地を握りしめていた拳に、ぽとりと涙が一粒落ちる。

「……僕は、彼が苦手で、怖くて」
「彼って? ロニー?」

 首を横に振るアレンに、飛鳥は、ああ、やっぱり、と納得して、同情から出たため息を呑みこむ。

 あんなふうに吉野が血相を変えて心配しているなんて、尋常じゃない、と飛鳥ですら思ったのだ。生来、病弱だからと聴いて納得はしたが。吉野は優しいから、ああいうタイプは放っておけないのだ。この子の前でああも露骨に態度にださなくても、と内心歯がゆく感じてはいたけれど、案の定、アレンは傷ついてしまっている。でも――。

「吉野は誰にでも優しいんだよ。昔っから面倒見のいい奴なんだ。だから気にすることなんて、」
「アスカさん、」
 アレンは飛鳥の言葉を遮り、潤んだ瞳を見開いてじっと見つめ返してきた。
「心の中で友人が占める割合って、どのくらいのなんでしょう?」

 え? と、問い返した飛鳥の瞳から目を逸らさずに、アレンはもう一度繰り返す。

「僕は彼の心の中に、少しでもいるのでしょうか? ヨシノは僕よりも、サウードや、フレッド、それにクリスとの方がずっと親しいし、たぶん、か、彼、マルセルだって……」
 眉間に皺を寄せ、アレンはまた瞼を伏せて瞬かせた。
「僕に、兄の弟という以上の価値があるとは思えない」

「きみ――」
 飛鳥は悲しみを込めて息を吐いた。
「じゃあ、きみにとって、僕はあいつの兄、って以上の価値はないのかな?」

 アレンは驚いて顔を跳ねあげる。

「きみがあいつのことを好きでいてくれるのは、あいつが、きみのことをすごく大事にしてきたからだ、と僕は思ってるよ。きみがそんなふうに思っていることを知ったら、きっとあいつ、悲しむよ」

 あ、と薄く開いたアレンの唇から出かかった言葉は、音をなさなかった。

「あいつを誰にも渡したくない?」
 じっとアレンの眼を見つめて、飛鳥は静かに問いかけた。
「きみの好きは、恋なの? あいつを、自分だけのものにしたいの?」
 重ねて問われた言葉に、アレンはゆっくりと首を振る。
「――無理です。彼は誰のものにもならない。彼が誰を好きになるとしても、誰も彼を自分のものにはできません。ヨシノは、誰にも所有されたりしない」
「あいつがきみを特別大事にしているのは、きみが、あいつのことをちゃんと解ってやってくれているからだよ。ありがとう、アレン」

 飛鳥はにっこりして、アレンの金色の、柔らかな髪をくしゃりと撫でた。

「きみだけが、吉野を欲しがらないでいてくれる」

 そして、吉野に与えられるものがないと嘆いてくれる――。

 いるだけで心を和ませてくれるこの美しい子は、自分の価値にまるで気がついていないのだ。おそらくアレンは、吉野やヘンリー、親しいわずかな友人たち以外の口から出るどんな賛美も賞賛も、信じてはいないのだろう。それどころか、耳に入れることすらしないのかもしれない。
 吉野やヘンリーを通してしか自我を認識できない、幼い子ども――。


 恋だのなんだの、というレベルではないのだと、飛鳥はほっとしたような、少し残念なような吐息を漏らした。
 あの極楽蜻蛉の吉野のことを、こんなに思ってくれる子なんて、他にいるわけがないのに――、と。

 だが同時に、おそらく恋人がいる、それにマルセルのような世話を焼かずにはいられない友人もたくさんいる、決して自分だけを見てくれる存在にはなりえない吉野のような人間を自分の中心に据えてしまっている、この子の苦しさはいかほどだろうか――と、飛鳥はすっと頭を引いてアレンを眺めた。

 飛鳥の口にしたどの言葉が心に響いたのか、今は薄らと微笑みさえ浮かべて、アレンはコーヒーを口に運んでいる。

「アスカさん。コーヒーを飲むのって、すごく久しぶりなんです。秋に髪を切って以来かな。いつもは我慢しているんですよ。僕にコーヒーの美味しさを教えてくれたのはヨシノだから、この香りだけで、僕は、ちゃんと、頑張れる、て、解ったから――、本当に辛い時だけ……。この香りが、彼は、いつだって傍にいてくれているんだって教えてくれて、――安心、」

 言い終わる前に、アレンは薄手のカップの縁を唇に当てた。
 絞りだすように語られた言葉と、大切な想いとを一緒に飲み下したアレンの喉がコクリと鳴る。



「罪じゃない。きみの想いは罪じゃないよ、アレン」

 届かないであろう、小さな声で飛鳥は呟いた。



 傍にいて欲しい。かまって欲しい。自分だけを見ていて欲しい――。

 そんな想いを、この子はどれほど殺してきたのだろうか。

 この子の望む相手が吉野でさえなかったら――。

 誰にでも優しい吉野は、誰にも本質的に興味がない。血の繋がった家族だけが特別。そんな弟の残酷さを飛鳥は誰よりも知っていた。
 決して報われることはないと知っていて、それでも、弟のことを大切に想い続けて欲しいと、そう願ってしまうのは強欲だろうか。
 誰をも愛さない吉野を理解したうえで、それでも友人でいてやってくれと願うのは、罪だろうか。


 飛鳥は、落ち着いてコーヒーを口許に運んでいるアレンを、憂いを含んだ哀しい瞳でぼんやりと見つめていた。

 アレンはその視線に気がつくと、「ごめんなさい。ご心配かけてしまって。もう大丈夫です」とちょっと申し訳なさそうに言い、曖昧で儚い天使の微笑を飛鳥にみせた。





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