胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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「政権交代だね」
 ヘンリーは、執務机を挟んだ向かい側に腰かけているロレンツォに視線を据える。

 ここ最近の最大ニュースは、南米各国で次々と行われている総選挙、社会主義体制から市場経済導入を推進する新体制への穏やかな革命の勝利に関する報道だ。
 南米に覇権を有するボルージャ家への支援と今後の在り方を話しあうために、ロレンツォはアーカシャーHD本社にいるヘンリーを訪れている。

「いよいよ君たちの出番かい?」
 柔らかな口調だが表情の読めないヘンリーに、ロレンツォは考え込んでいるような、まだ決断しかねているような微妙な憂いのある皮肉な笑みを見せ、「ああ」と頷く。

「またあの小僧に借りができた」
「原油の価格操作?」
「南米での復権はボルージャの悲願だからな」
「おめでとう」
 ヘンリーの祝辞に、ロレンツォはにっとおざなりの笑みを返す。

「それで目的はなんなんだ? あの小僧がリチウムを欲しがる理由は?」
「大規模な太陽光発電施設を建設予定なんだよ。そのためにリチウムイオンバッテリーが要る。そんなところじゃないかな」
「太陽光発電?」
「殿下の国にね」
 不可解な視線を向けるロレンツォに、ヘンリーは苦笑して、「ルベリーニは不可侵だよ」と釘を差す。

「そんな気はない」
「それどころではない、だろう?」
 ヘンリーがクスクスと笑うと、ロレンツォはふんっと顎を突きだして唇の端を軽く持ちあげた。

 これからルベリーニは一族を結集して、政権交代を終えたばかりの南米資源国に投資する。経済が崩壊しハイパーインフレで苦しむ各国の経済を統括していくのだ。表では反米政権として米国と対立関係にありながら、その実は原油を高値に保つために米国フェイラー社と結託していた官僚どもや国営企業を一気に駆逐する手筈も整った。
 吉野の目的が何であれ、それがルベリーニに害をもたらさない限り、契約を遂行する。そのことに異存はない。

「あの小僧がわずかに動くだけで風が起きる。それがいつの間にか国をも揺るがす竜巻になっている。なんなんだ、あいつは?」
 ロレンツォのボヤキに、ヘンリーは穏やかな笑みを浮かべて首を振った。
「彼は時流を見極める目を持っているだけだよ。南米の政権崩壊は時間の問題だったし、殿下の国はずっと石油依存からの脱却を模索していた。彼はタイミングを見誤らず行動に移しただけさ」

 そう、ジェームズ・テイラーに告げられた。もちろん、吉野の行った原油の価格操作や、南米におけるボルージャ家の覇権などの話はしていない。吉野の経済に関する考え方や姿勢の話だ。ここぞという時のみに動く、その狩りのやり方を聞かされた。

 天性の動物的な勘と瞬発力。あの無邪気な外見からは伺いしれぬ獰猛さ。

 それが、誰もがあの子を欲しがる理由。
 この話を飛鳥にすると、当人の兄であり一番の理解者である彼は声をあげて笑い飛ばした。

 ――買いかぶりすぎだよ。経済とか投資の話だろ? あいつはたんに数字が読めるだけだよ。あいつは数字の申し子なんだから。

 どちらが正しいのか。おそらく、どちらも正しいのだろう。

 どちらにしろ目まぐるしく動く国際情勢以上に、そこに身を置くことで我が身を危険に晒している吉野の身を案じて、ヘンリーは嘆息するばかりだ。



 加えて――、

「ところで、あの子が付き合っているのは、ルベリーニ一族の女性だそうだね?」とヘンリーは、当面の杞憂の一つを切りだした。

 狐に摘まれたような顔でいるロレンツォに、さらに畳みかける。
「あの子はうちの大事な預かり者だよ。ほどほどにしておいてもらえないかな。十も年上の女性にいいようにされているとあっては、アスカにもトヅキ氏にも申し訳が立たない」
「誰のことを言っている?」

 ロレンツォは瞳に険を走らせている。ヘンリーも冷笑を浮かべて訊ね返した。

「まさか知らないとでも?」

 ヘンリーを睨めつけ、ロレンツォは首を横に振った。

「マリーネ・フォン・アッシェンバッハ」

 あまりにも予期せぬ名前に、ロレンツォは呆気に取られて笑いだした。
「ありえない!」
「かまわないよ、それで。きみの責任で、ありえない事にしてくれるのならね」

 薄ら笑いを浮かべて告げられたその言葉は、有無を言わさぬ命令だ。

 何かの間違いならそれでいい。
 だが事実なら早急な対応が必要だ。他の一族に漏れない内に――。ルベリーニの絶対の掟は、王との契約に関するものだけではない。一族間で裏切り者を出さないための鉄の掟でもある。ルベリーニ当主に自由恋愛などありえないのだ。

 血を繋ぐこと。財産を守りその分散を防ぐこと。
 そして何よりも、憂いの種を作らぬこと――。

 本当にあの小僧、次から次へと――。

 どう考えても、ルベリーニ自分たちを引っ掻き回しているとしか考えられない飛鳥の弟の行動に、ロレンツォは顔をしかめて深く嘆息せずにはいられなかった。



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