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八章
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「本当に彼、判りやすいよねぇ」
二階フロアのロートアイアンの手摺にもたれて、デヴィッドはクスクスと笑いながら傍らに立つヘンリーを振りあおぐ。
「どっちの彼?」
ヘンリーの方も、にっと若干皮肉な笑みを浮かべて階下を眺めている。
そこには、スケッチブックを膝に立てかけてそわそわと辺りを見回したり、鉛筆をかまえたかと思うとため息をつき、腹立たしげにスケッチブックを閉じてしまったり、といかにも落ち着かないアレンと、ノートパソコンを膝に抱えたままぼんやりと動かない飛鳥が、隣合わせでソファーに腰かけているのだ。そんな彼らの向かいに座るサラだけが、安定的に、だが空中で踊るように滑らかに指先を動かしている。
「アレンのつもりで言ったんだよ。でも、アスカちゃんもか! 我らが姫君だけだねぇ、いつもと変わりないのはさ」
「サラがヨシノの帰省を気にするようなら、僕の方が、あの二人以上におかしくなってしまうんじゃないかな」
冗談めかしてヘンリーは肩をすくめてみせる。
「ヨシノは選定外? 彼女だって判らないよぉ、心の内までは!」
デヴィッドは悪戯なヘーゼルの瞳をくるくると輝かせる。
もうじき迎えるサラの誕生日を前にして、ヘンリーはやたらと神経質に彼女に気を使っている。今さらながら、彼女が女の子であることを思いだしたように。洋服だの身の回りのものだのに不自由はないか、とこっそりメアリーに訊いていたりしているのだ。
年頃の娘を持つ父親みたいだな、とデヴィッドは、そんなあたふたとしたヘンリーに呆れ半分、ちょっと意外な思いで眺めている。
「それできみはどうなの? やはり駄目なのかな?」
声のトーンを落とし軽く身を寄せて、ヘンリーは慎重な面持ちでデヴィッドを見つめた。
「僕はまぁ、本音を言うと、彼女を嫌いじゃないよ。でも、それじゃあリチャード小父さんがあまりに可哀想だよ。また同じ悲劇が繰り返されるかもしれないだろ? きみの気持ちも判らないでもないけどね、やっぱり、僕のことは除外して欲しいんだ。それに何よりも一番は彼女の気持ちだろ」
階下のサラの後ろ姿になんともいえない視線を注ぎ、デヴィッドはため息を漏らしている。
「いつの間にか綺麗になったねぇ。花の蕾がほころぶように女の子は変わるんだねぇ」
そんな視線を感じたのか、サラは振り返って彼らを見上げると、にっこりと微笑んだ。デヴィッドも微笑み返して軽く手を振る。
ヘンリーも感慨深そうに息をついている。
「もう、18だなんて信じられないよ――。もう、こんな心配をしなきゃいけないなんてね」
「今のままでいいじゃない。それじゃ駄目なのかなぁ」
「ここがネバーランドなら、ね」
残念そうに微笑んだヘンリーに、デヴィッドも苦笑を返すしかない。
ピーターパンのように、子どものままでいられるのなら――。
ヘンリーは自分のことよりも彼女の未来を一番に考え、その将来を憂いている。
皆、大学を卒業して、この擬似家族ごっこもそろそろ終焉を迎えるのだ。
アーネストも、吉野も、すでにこの家を出て久しい。デヴィッドにしても、普段はこの家よりも大学に近いフラットにいる方が多いのだ。
アーカシャーHDは、スイス、ローザンヌにある研究開発拠点に加えて、グローバル本社機能を備えた研究施設をケンブリッジに構えることを決定した。これまで以上に緊密な大学との提携により、IT部門での、ケンブリッジに根づいた研究活動の相互協力がさらに強化されることになる。
ケンブリッジ・クラスターと呼ばれる、産業界と積極的に連携しながら、サイエンス型産業を促進させるサイエンス・パークやイノベーション・パークに参加する企業は、はや千社を超えている。多くのケンブリッジ卒業生が果敢にベンチャー企業を創り、道を切り開き、大きく育てあげてきたこのクラスターに、ヘンリーと飛鳥の二人のケンブリッジ生から生まれた企業であるアーカシャーHDも加わることになるのだ。
ロンドンからケンブリッジに本拠地が移ることは、喜ばしいことにも思え、また、今まで以上に公私混同が起こり、私生活を脅かされる不安もあった。雑多な人間関係に揉まれ、サラのことだけを考えてはいられなくなるであろう未来を想定し、ヘンリーは立ち止まっているのだ。どうするべきかを、決めかねて――。
今までだって、それは変わらなかったはずなのに。
デヴィッドは、幼い頃から常に自分を殺し、家名や周囲を思いやり、何よりもサラを大切に育ててきたヘンリーの抱える軋轢を思い、眉根を寄せて吐き捨てるように呟いていた。
「きみは、もっと自由に生きればいいじゃないか。会社なんか、人工知能にでもやらせておけばいいじゃん」
自分の口からついて出たそんな暴言に、デヴィッドは自分でも呆れたのか苦笑が漏れる。
「それもいいかもね」
だがそのとき、ヘンリーは心ここにあらず、といった風情で手摺にぶらりと腕をかけ、階下を覗きこんでいた。
先ほどまでぼんやりとしていた飛鳥が、今はサラの傍らに席を移して熱心に話し込んでいた。いつもの光景だ。アレンはいつの間にか席を立ってそこにはいない。――じきに吉野が戻ってくるというのに。
「きみ、今どっちを見ていた?」
デヴィッドの問いに、ヘンリーは怪訝そうに彼を振り返る。
「サラ? それともアスカちゃん?」
黄金色のヘーゼルの瞳に、ヘンリーはかすかに苦笑を返しただけだった。
二階フロアのロートアイアンの手摺にもたれて、デヴィッドはクスクスと笑いながら傍らに立つヘンリーを振りあおぐ。
「どっちの彼?」
ヘンリーの方も、にっと若干皮肉な笑みを浮かべて階下を眺めている。
そこには、スケッチブックを膝に立てかけてそわそわと辺りを見回したり、鉛筆をかまえたかと思うとため息をつき、腹立たしげにスケッチブックを閉じてしまったり、といかにも落ち着かないアレンと、ノートパソコンを膝に抱えたままぼんやりと動かない飛鳥が、隣合わせでソファーに腰かけているのだ。そんな彼らの向かいに座るサラだけが、安定的に、だが空中で踊るように滑らかに指先を動かしている。
「アレンのつもりで言ったんだよ。でも、アスカちゃんもか! 我らが姫君だけだねぇ、いつもと変わりないのはさ」
「サラがヨシノの帰省を気にするようなら、僕の方が、あの二人以上におかしくなってしまうんじゃないかな」
冗談めかしてヘンリーは肩をすくめてみせる。
「ヨシノは選定外? 彼女だって判らないよぉ、心の内までは!」
デヴィッドは悪戯なヘーゼルの瞳をくるくると輝かせる。
もうじき迎えるサラの誕生日を前にして、ヘンリーはやたらと神経質に彼女に気を使っている。今さらながら、彼女が女の子であることを思いだしたように。洋服だの身の回りのものだのに不自由はないか、とこっそりメアリーに訊いていたりしているのだ。
年頃の娘を持つ父親みたいだな、とデヴィッドは、そんなあたふたとしたヘンリーに呆れ半分、ちょっと意外な思いで眺めている。
「それできみはどうなの? やはり駄目なのかな?」
声のトーンを落とし軽く身を寄せて、ヘンリーは慎重な面持ちでデヴィッドを見つめた。
「僕はまぁ、本音を言うと、彼女を嫌いじゃないよ。でも、それじゃあリチャード小父さんがあまりに可哀想だよ。また同じ悲劇が繰り返されるかもしれないだろ? きみの気持ちも判らないでもないけどね、やっぱり、僕のことは除外して欲しいんだ。それに何よりも一番は彼女の気持ちだろ」
階下のサラの後ろ姿になんともいえない視線を注ぎ、デヴィッドはため息を漏らしている。
「いつの間にか綺麗になったねぇ。花の蕾がほころぶように女の子は変わるんだねぇ」
そんな視線を感じたのか、サラは振り返って彼らを見上げると、にっこりと微笑んだ。デヴィッドも微笑み返して軽く手を振る。
ヘンリーも感慨深そうに息をついている。
「もう、18だなんて信じられないよ――。もう、こんな心配をしなきゃいけないなんてね」
「今のままでいいじゃない。それじゃ駄目なのかなぁ」
「ここがネバーランドなら、ね」
残念そうに微笑んだヘンリーに、デヴィッドも苦笑を返すしかない。
ピーターパンのように、子どものままでいられるのなら――。
ヘンリーは自分のことよりも彼女の未来を一番に考え、その将来を憂いている。
皆、大学を卒業して、この擬似家族ごっこもそろそろ終焉を迎えるのだ。
アーネストも、吉野も、すでにこの家を出て久しい。デヴィッドにしても、普段はこの家よりも大学に近いフラットにいる方が多いのだ。
アーカシャーHDは、スイス、ローザンヌにある研究開発拠点に加えて、グローバル本社機能を備えた研究施設をケンブリッジに構えることを決定した。これまで以上に緊密な大学との提携により、IT部門での、ケンブリッジに根づいた研究活動の相互協力がさらに強化されることになる。
ケンブリッジ・クラスターと呼ばれる、産業界と積極的に連携しながら、サイエンス型産業を促進させるサイエンス・パークやイノベーション・パークに参加する企業は、はや千社を超えている。多くのケンブリッジ卒業生が果敢にベンチャー企業を創り、道を切り開き、大きく育てあげてきたこのクラスターに、ヘンリーと飛鳥の二人のケンブリッジ生から生まれた企業であるアーカシャーHDも加わることになるのだ。
ロンドンからケンブリッジに本拠地が移ることは、喜ばしいことにも思え、また、今まで以上に公私混同が起こり、私生活を脅かされる不安もあった。雑多な人間関係に揉まれ、サラのことだけを考えてはいられなくなるであろう未来を想定し、ヘンリーは立ち止まっているのだ。どうするべきかを、決めかねて――。
今までだって、それは変わらなかったはずなのに。
デヴィッドは、幼い頃から常に自分を殺し、家名や周囲を思いやり、何よりもサラを大切に育ててきたヘンリーの抱える軋轢を思い、眉根を寄せて吐き捨てるように呟いていた。
「きみは、もっと自由に生きればいいじゃないか。会社なんか、人工知能にでもやらせておけばいいじゃん」
自分の口からついて出たそんな暴言に、デヴィッドは自分でも呆れたのか苦笑が漏れる。
「それもいいかもね」
だがそのとき、ヘンリーは心ここにあらず、といった風情で手摺にぶらりと腕をかけ、階下を覗きこんでいた。
先ほどまでぼんやりとしていた飛鳥が、今はサラの傍らに席を移して熱心に話し込んでいた。いつもの光景だ。アレンはいつの間にか席を立ってそこにはいない。――じきに吉野が戻ってくるというのに。
「きみ、今どっちを見ていた?」
デヴィッドの問いに、ヘンリーは怪訝そうに彼を振り返る。
「サラ? それともアスカちゃん?」
黄金色のヘーゼルの瞳に、ヘンリーはかすかに苦笑を返しただけだった。
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