胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
484 / 758
八章

しおりを挟む
「本当に彼、判りやすいよねぇ」
 二階フロアのロートアイアンの手摺にもたれて、デヴィッドはクスクスと笑いながら傍らに立つヘンリーを振りあおぐ。
「どっちの彼?」
 ヘンリーの方も、にっと若干皮肉な笑みを浮かべて階下を眺めている。

 そこには、スケッチブックを膝に立てかけてそわそわと辺りを見回したり、鉛筆をかまえたかと思うとため息をつき、腹立たしげにスケッチブックを閉じてしまったり、といかにも落ち着かないアレンと、ノートパソコンを膝に抱えたままぼんやりと動かない飛鳥が、隣合わせでソファーに腰かけているのだ。そんな彼らの向かいに座るサラだけが、安定的に、だが空中で踊るように滑らかに指先を動かしている。

「アレンのつもりで言ったんだよ。でも、アスカちゃんもか! 我らが姫君だけだねぇ、いつもと変わりないのはさ」
「サラがヨシノの帰省を気にするようなら、僕の方が、あの二人以上におかしくなってしまうんじゃないかな」
 冗談めかしてヘンリーは肩をすくめてみせる。
「ヨシノは選定外? 彼女だって判らないよぉ、心の内までは!」
 デヴィッドは悪戯なヘーゼルの瞳をくるくると輝かせる。

 もうじき迎えるサラの誕生日を前にして、ヘンリーはやたらと神経質に彼女に気を使っている。今さらながら、彼女が女の子であることを思いだしたように。洋服だの身の回りのものだのに不自由はないか、とこっそりメアリーに訊いていたりしているのだ。
 年頃の娘を持つ父親みたいだな、とデヴィッドは、そんなあたふたとしたヘンリーに呆れ半分、ちょっと意外な思いで眺めている。


「それできみはどうなの? やはり駄目なのかな?」
 声のトーンを落とし軽く身を寄せて、ヘンリーは慎重な面持ちでデヴィッドを見つめた。
「僕はまぁ、本音を言うと、彼女を嫌いじゃないよ。でも、それじゃあリチャード小父さんがあまりに可哀想だよ。また同じ悲劇が繰り返されるかもしれないだろ? きみの気持ちも判らないでもないけどね、やっぱり、僕のことは除外して欲しいんだ。それに何よりも一番は彼女の気持ちだろ」

 階下のサラの後ろ姿になんともいえない視線を注ぎ、デヴィッドはため息を漏らしている。

「いつの間にか綺麗になったねぇ。花の蕾がほころぶように女の子は変わるんだねぇ」

 そんな視線を感じたのか、サラは振り返って彼らを見上げると、にっこりと微笑んだ。デヴィッドも微笑み返して軽く手を振る。

 ヘンリーも感慨深そうに息をついている。
「もう、18だなんて信じられないよ――。もう、こんな心配をしなきゃいけないなんてね」
「今のままでいいじゃない。それじゃ駄目なのかなぁ」
「ここがネバーランドなら、ね」
 残念そうに微笑んだヘンリーに、デヴィッドも苦笑を返すしかない。


 ピーターパンのように、子どものままでいられるのなら――。

 ヘンリーは自分のことよりも彼女の未来を一番に考え、その将来を憂いている。

 皆、大学を卒業して、この擬似家族ごっこもそろそろ終焉を迎えるのだ。
 アーネストも、吉野も、すでにこの家を出て久しい。デヴィッドにしても、普段はこの家よりも大学に近いフラットにいる方が多いのだ。


 アーカシャーHDは、スイス、ローザンヌにある研究開発拠点に加えて、グローバル本社機能を備えた研究施設をケンブリッジに構えることを決定した。これまで以上に緊密な大学との提携により、IT部門での、ケンブリッジに根づいた研究活動の相互協力がさらに強化されることになる。

 ケンブリッジ・クラスターと呼ばれる、産業界と積極的に連携しながら、サイエンス型産業を促進させるサイエンス・パークやイノベーション・パークに参加する企業は、はや千社を超えている。多くのケンブリッジ卒業生が果敢にベンチャー企業を創り、道を切り開き、大きく育てあげてきたこのクラスターに、ヘンリーと飛鳥の二人のケンブリッジ生から生まれた企業であるアーカシャーHDも加わることになるのだ。


 ロンドンからケンブリッジに本拠地が移ることは、喜ばしいことにも思え、また、今まで以上に公私混同が起こり、私生活を脅かされる不安もあった。雑多な人間関係に揉まれ、サラのことだけを考えてはいられなくなるであろう未来を想定し、ヘンリーは立ち止まっているのだ。どうするべきかを、決めかねて――。 

 今までだって、それは変わらなかったはずなのに。

 デヴィッドは、幼い頃から常に自分を殺し、家名や周囲を思いやり、何よりもサラを大切に育ててきたヘンリーの抱える軋轢を思い、眉根を寄せて吐き捨てるように呟いていた。

「きみは、もっと自由に生きればいいじゃないか。会社なんか、人工知能にでもやらせておけばいいじゃん」
 自分の口からついて出たそんな暴言に、デヴィッドは自分でも呆れたのか苦笑が漏れる。
「それもいいかもね」

 だがそのとき、ヘンリーは心ここにあらず、といった風情で手摺にぶらりと腕をかけ、階下を覗きこんでいた。

 先ほどまでぼんやりとしていた飛鳥が、今はサラの傍らに席を移して熱心に話し込んでいた。いつもの光景だ。アレンはいつの間にか席を立ってそこにはいない。――じきに吉野が戻ってくるというのに。



「きみ、今どっちを見ていた?」

 デヴィッドの問いに、ヘンリーは怪訝そうに彼を振り返る。

「サラ? それともアスカちゃん?」

 黄金色のヘーゼルの瞳に、ヘンリーはかすかに苦笑を返しただけだった。





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする

夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】 主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。 そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。 「え?私たち、付き合ってますよね?」 なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。 「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

処理中です...