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八章
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「僕が何者かという問いにはまだ答えられないけれど、アスカが何者かは、一言で言えるよ」
ヘンリーは寂しげな笑みを浮かべて、遥か彼方にいるように感じられる朧なデヴィッドの姿に言葉を投げかけた。
「彼は何者?」
「混沌」
足元から巻きあがる渦潮の中央に立つ彼は、頭上から降りおちてくる白い飛沫に顔をしかめながら、潮騒に負けじと大声で答えた。
「人魚姫の海が、どうしてこんな真っ黒な荒れた海なんだい? アスカは僕がここにいるのを知っていて、意地悪をしているんじゃないのかい?」
映像とはいえ、先ほどから何度も荒れ狂う大波を叩きつけられているのだ。逆巻く渦に囲まれた彼の気分はもう、嵐に巻きこまれ、大海に放りだされて溺れた王子さながらだ。
「童話の筋立て通りに場面が動いているだけだよ。何、悲観的になってるんだよ、ヘンリー!」
デヴィッドは、波に揉まれながらケラケラと声をたてて笑っている。
「ほら、夜明けだよ!」
水平線のはてから、金の光が荒れ狂う海を平定していた。
緩やかな波間に光が揺蕩っている。いつしか二人は浜辺に立ち、朝焼けの赤金色に染まりながら打ち寄せては引いていく波を眺めている。
と、安堵したのもつかの間、次に激しく立ちあがった波が、ザブリと覆い被さったかと思うと、今度は澄んだ青に染まる海の中に佇んでいた。
群なす極彩色の魚たちが視界を横ぎっていく。足を進めると絡みあう腕を伸ばしている紅い珊瑚たちが身を捩って道を開けてくれる。ゆらゆらと輝く光の織りなす揺らぎの中を、気泡が煌めく七色の宝石となって天を目指す。
「きみと違ってね、僕にとってのアスカちゃんはねぇ、宝石箱だよ!」
水面から差しこんで水に溶けていく光を目を細めて眺めていたデヴィッドが、いきなりくるりとヘンリーを振り返ると弾むような声音で告げていた。
「こんな綺麗な情景が、彼の中にはいっぱい詰まってるんだ。彼の描く絵はアレなのにさぁ!」
くすくす笑いながら、デヴィッドは足元の黒いトゲトゲを拾いあげる。それを、ぽーんとヘンリーに放ってよこした。
「これは何? トロール?」
「ははは! さすがヘンリー、きみにはウニに見えないんだ! 当たりだよ、アスカ画伯の代表作だ!」
ヘンリーは映像のトゲトゲを両手でふわりと受け止め、思わず笑みを零していた。
ウイスタンでの、飛鳥との初めての共同作品である黒兎。彼の描いたそれはとても兎には見えなくて、ヘンリーは大真面目に、トロールだね、と言ってしまったのだ。
「ラッキーだね、ヘンリー。この子には滅多に会えないんだよ!」
飛鳥の作る映像には、どこかに必ず、このトロールが潜んでいるのだそうだ。それは毎回その場にある何かに擬態していて、見つけるのは難しい。だから、それに出会えたらラッキー。そんな迷信まで生まれている。
「僕は誰?」
ヘンリーは悩ましげな微笑を湛えて、手の上のその黒いもやもやに問いかけてみた。とたんにそれは数多の泡になり消えてしまった。
「残念! 問いではなく答えを言わなきゃね!」
うねる視界にまといつく気泡――。ヘンリーの脳を支配する揺らぎに、デヴィッドまでが歪んで見える。
揺らめく空間に弾ける炭酸のような気泡は、収縮と拡大を繰り返す透明な海月の群れとなって、昏い水底から日のさす彼方へと泳ぎだしている。
「さぁ、次の部屋へ」
「ちょっと待ってくれるかい、デイヴ。おそらく――、映像酔いだ」
海月の消えたあとの海底に、ヘンリーは片手を口許に当てうずくまっていたのだ。デヴィッドは目を瞠って駆けよった。慌てて支えた彼の肩は、息が乱れているのか激しく上下している。
「いったん出よう。僕に掴まって」
差しだされた腕を掴み、ヘンリーは深く息をついた。
「あの子、何て言っていたかな、こんな時は――」
「ゆっくり呼吸しろ、って。視界が揺れるようなら目を瞑って。僕が誘導するから」
「いや、大丈夫だ。収まってきた」
はてのない水底の彼方には、オーロラのように揺らめく輝きを放つ透明な宮殿が幻想的にそびえている。七色の煌めく鱗屋根を囲むいくつもの尖塔が細かく光を反射している。
「城に招待してもらいそこねたな。人魚のティータイムに行きたかったのに――」
蒼白な面で笑うヘンリーの肩を支えていたデヴィッドは、その肩をパンッと叩いた。
「さすが、CEO! いいね、海底でのティーパーティー。それ、次回からオプションで入れようか?」
くしゃっと緊張していた表情を崩して悪戯っ子のように笑うと、デヴィッドは眼前の岩場に生える深紅のイソギンチャクを握ってくるりと捻り、外界へ続く非常ドアを開けた。
ヘンリーは寂しげな笑みを浮かべて、遥か彼方にいるように感じられる朧なデヴィッドの姿に言葉を投げかけた。
「彼は何者?」
「混沌」
足元から巻きあがる渦潮の中央に立つ彼は、頭上から降りおちてくる白い飛沫に顔をしかめながら、潮騒に負けじと大声で答えた。
「人魚姫の海が、どうしてこんな真っ黒な荒れた海なんだい? アスカは僕がここにいるのを知っていて、意地悪をしているんじゃないのかい?」
映像とはいえ、先ほどから何度も荒れ狂う大波を叩きつけられているのだ。逆巻く渦に囲まれた彼の気分はもう、嵐に巻きこまれ、大海に放りだされて溺れた王子さながらだ。
「童話の筋立て通りに場面が動いているだけだよ。何、悲観的になってるんだよ、ヘンリー!」
デヴィッドは、波に揉まれながらケラケラと声をたてて笑っている。
「ほら、夜明けだよ!」
水平線のはてから、金の光が荒れ狂う海を平定していた。
緩やかな波間に光が揺蕩っている。いつしか二人は浜辺に立ち、朝焼けの赤金色に染まりながら打ち寄せては引いていく波を眺めている。
と、安堵したのもつかの間、次に激しく立ちあがった波が、ザブリと覆い被さったかと思うと、今度は澄んだ青に染まる海の中に佇んでいた。
群なす極彩色の魚たちが視界を横ぎっていく。足を進めると絡みあう腕を伸ばしている紅い珊瑚たちが身を捩って道を開けてくれる。ゆらゆらと輝く光の織りなす揺らぎの中を、気泡が煌めく七色の宝石となって天を目指す。
「きみと違ってね、僕にとってのアスカちゃんはねぇ、宝石箱だよ!」
水面から差しこんで水に溶けていく光を目を細めて眺めていたデヴィッドが、いきなりくるりとヘンリーを振り返ると弾むような声音で告げていた。
「こんな綺麗な情景が、彼の中にはいっぱい詰まってるんだ。彼の描く絵はアレなのにさぁ!」
くすくす笑いながら、デヴィッドは足元の黒いトゲトゲを拾いあげる。それを、ぽーんとヘンリーに放ってよこした。
「これは何? トロール?」
「ははは! さすがヘンリー、きみにはウニに見えないんだ! 当たりだよ、アスカ画伯の代表作だ!」
ヘンリーは映像のトゲトゲを両手でふわりと受け止め、思わず笑みを零していた。
ウイスタンでの、飛鳥との初めての共同作品である黒兎。彼の描いたそれはとても兎には見えなくて、ヘンリーは大真面目に、トロールだね、と言ってしまったのだ。
「ラッキーだね、ヘンリー。この子には滅多に会えないんだよ!」
飛鳥の作る映像には、どこかに必ず、このトロールが潜んでいるのだそうだ。それは毎回その場にある何かに擬態していて、見つけるのは難しい。だから、それに出会えたらラッキー。そんな迷信まで生まれている。
「僕は誰?」
ヘンリーは悩ましげな微笑を湛えて、手の上のその黒いもやもやに問いかけてみた。とたんにそれは数多の泡になり消えてしまった。
「残念! 問いではなく答えを言わなきゃね!」
うねる視界にまといつく気泡――。ヘンリーの脳を支配する揺らぎに、デヴィッドまでが歪んで見える。
揺らめく空間に弾ける炭酸のような気泡は、収縮と拡大を繰り返す透明な海月の群れとなって、昏い水底から日のさす彼方へと泳ぎだしている。
「さぁ、次の部屋へ」
「ちょっと待ってくれるかい、デイヴ。おそらく――、映像酔いだ」
海月の消えたあとの海底に、ヘンリーは片手を口許に当てうずくまっていたのだ。デヴィッドは目を瞠って駆けよった。慌てて支えた彼の肩は、息が乱れているのか激しく上下している。
「いったん出よう。僕に掴まって」
差しだされた腕を掴み、ヘンリーは深く息をついた。
「あの子、何て言っていたかな、こんな時は――」
「ゆっくり呼吸しろ、って。視界が揺れるようなら目を瞑って。僕が誘導するから」
「いや、大丈夫だ。収まってきた」
はてのない水底の彼方には、オーロラのように揺らめく輝きを放つ透明な宮殿が幻想的にそびえている。七色の煌めく鱗屋根を囲むいくつもの尖塔が細かく光を反射している。
「城に招待してもらいそこねたな。人魚のティータイムに行きたかったのに――」
蒼白な面で笑うヘンリーの肩を支えていたデヴィッドは、その肩をパンッと叩いた。
「さすが、CEO! いいね、海底でのティーパーティー。それ、次回からオプションで入れようか?」
くしゃっと緊張していた表情を崩して悪戯っ子のように笑うと、デヴィッドは眼前の岩場に生える深紅のイソギンチャクを握ってくるりと捻り、外界へ続く非常ドアを開けた。
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