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九章
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ベランダに吹きあがってくる川風に晒されながら、フレデリックは澄んだ星空を見あげていた。吸いこまれそうな虚空に重心が揺らぎ、思わず添えていた手摺りをしっかりと掴み直して。
「フレッド」
「ワインを飲みすぎたみたいだ」
逆光の中のアレンに、フレデリックは微笑みかける。
「天使みたいだ」
「え?」
「ちょうど、光がね」
「最近はもう言われなくなったよ」
歩み寄るアレンも、どこかふわふわとした足取りで。
「僕も酔いを醒ましにきたんだ」
「うん。ヨシノといるとすぐに酔ってしまう」
彼の話に。壮大な夢に。独特の空気に。いつも心地良く酔わされてしまう。酒が入るとなるとなおさらだ。
「きみはね、ずっと僕の天使だった」
すっきりとした笑顔でアレンを優しく見つめながら、唐突に切りだされた言葉に、アレンは怪訝そうに小首を傾げる。
「生身の人間だって知っているのにね。それでも」
こんなにも近くにいる。理解できている。とても大切に想っている。愛しているのかもしれない。だけど――。
「僕は、解っているようで、解っていなかったんだなぁ」
「全然、解らないよ」
くだけた様子で微笑んでいるフレデリックに、アレンもくすくすと笑って答えた。
「うん。僕もだ」
こんなにも神聖で、侵すべからずの存在。
そんな愛を捧げられたところで、アレンは救われない。彼の苦しみを癒すことなどできはしない。
どうして今まで気づくことすらなかったのかと、自嘲し始めると笑いが止まらなくなっていた。全身を緩やかに巡るアルコールのせいだろうか。そうだといい。笑い話にしてしまえる。
フレデリックは笑いながら大きく伸びをし、つんと凍りついた空気を胸いっぱいに吸いこむ。
「ヨシノが帰ってくれて良かったね」
「まだ何がどうなるか、ちっとも判らないけどね」
アレンはちょっと肩をすくめる。
吉野の言う事の、どこまでが本当でどこからが嘘か、など今もって判らない。吉野は嘘つきだ。解っているのに信じている。それは変わらない。変われない。真実なんてどうでもいいと思っている、自分がいる。
結局、吉野といると、それまで悶々と悩み続けた問題など大した事ではないように思えてくるのだ。自分がどんな選択をし、決意をしたところで、吉野が動じることなどない。彼にとって都合が悪ければ、吉野は自分で修正を入れる。いつの間にか流れを変える。望むままに。
その流れに流されるだけの自分に腹立ちを覚えるのに、それ以上に、それを望んでいる自分もいる。
本当に望んでいることはひとつだけだ。今も昔も変わらずに。
フレデリックと並んで白い息を吐き、アレンも夜空を見あげた。
「天使って言われて、褒め言葉だと思ったことはないんだ」
「知っているよ。きみがそう思っていたって」
フレデリックは、穏やかに頷いて。
「ごめんよ」
アレンは苦笑しながら首を振って。
「僕が虚ろで、存在が希薄だからだろう、ってずっとそう思っていた」
「そうじゃない」
「いいんだ。ヨシノだけが僕を血の通った人間にしてくれる。だから僕は皆と一緒にいられる。心は空っぽのままなのに。きみにはそれが見えていたんだと思う。あまりにも、温かみも人間味もない僕の本性がさ」
「アレン……」
表情を消し唇を引き結んだフレデリックに、アレンは自嘲的に嗤い再び頭を振った。
「前にも同じような話をしたことがあったなぁ」
どこか張り詰めてしまった空気を解すかのように、フレデリックはため息をつく。
「クリスの彼女と皆でお茶した後だったかな……。きみは空っぽなんかじゃないよ。きみいっぱいに詰まっている」
吉野への想いが。それだけが。
ずっと見ていた。そんなきみを。そんな無私の愛を捧げるきみを、天使だと思っていた。
手の届くことのないどこか遠くに置くことで、安心していたのかもしれない。自分とは違う特別な存在だからと。宗教画の天使のように、いつまでも汚れなく微笑み続けてくれる存在だと、勝手な願いを込めていたのかもしれない。
彼の本当の心を知っていながら……。
「アレン、きみが天使じゃないように、ヨシノもきみの神じゃない。きみと同じ、僕たちと同じ生身の人間なんだ。進むべきだよ」
「進む――」
今以上にどうしろと言うのだろう、とアレンは鸚鵡返しに呟くだけで、虚空に視線を漂わせている。
「……無理だよ」
白い息と共に吐きだされたのは、諦めか。
「人は変わるものだよ、アレン。たとえヨシノであっても。僕はきみが絶対に諦めないことを、きっと誰よりも良く知っている。――そろそろ中に戻ろうか? ヨシノがイライラしだす頃だ」
ガラス戸に足を向けたちょうどその時開かれたドアに、フレデリックは「ほらね」とアレンを振り返り、軽くウインクしてみせる。
「お前ら、どこに行ったかと探したんだぞ」
「作戦会議だよ。次のセットは負けたくないからね」
フレデリックのほころぶ笑顔に、吉野はにっと不敵に笑い返す。
「勝たせてやろうか?」
「まさか! 必要ないよ。正攻法で勝てる」
吉野と肩を組んで室内へ戻るフレデリックの背中を、アレンはなんともいえない表情で見つめている。
「おい、」
吉野が振り向いて顎をしゃくる。反射的に微笑んで、アレンもぱっと駆けていた。
「フレッド」
「ワインを飲みすぎたみたいだ」
逆光の中のアレンに、フレデリックは微笑みかける。
「天使みたいだ」
「え?」
「ちょうど、光がね」
「最近はもう言われなくなったよ」
歩み寄るアレンも、どこかふわふわとした足取りで。
「僕も酔いを醒ましにきたんだ」
「うん。ヨシノといるとすぐに酔ってしまう」
彼の話に。壮大な夢に。独特の空気に。いつも心地良く酔わされてしまう。酒が入るとなるとなおさらだ。
「きみはね、ずっと僕の天使だった」
すっきりとした笑顔でアレンを優しく見つめながら、唐突に切りだされた言葉に、アレンは怪訝そうに小首を傾げる。
「生身の人間だって知っているのにね。それでも」
こんなにも近くにいる。理解できている。とても大切に想っている。愛しているのかもしれない。だけど――。
「僕は、解っているようで、解っていなかったんだなぁ」
「全然、解らないよ」
くだけた様子で微笑んでいるフレデリックに、アレンもくすくすと笑って答えた。
「うん。僕もだ」
こんなにも神聖で、侵すべからずの存在。
そんな愛を捧げられたところで、アレンは救われない。彼の苦しみを癒すことなどできはしない。
どうして今まで気づくことすらなかったのかと、自嘲し始めると笑いが止まらなくなっていた。全身を緩やかに巡るアルコールのせいだろうか。そうだといい。笑い話にしてしまえる。
フレデリックは笑いながら大きく伸びをし、つんと凍りついた空気を胸いっぱいに吸いこむ。
「ヨシノが帰ってくれて良かったね」
「まだ何がどうなるか、ちっとも判らないけどね」
アレンはちょっと肩をすくめる。
吉野の言う事の、どこまでが本当でどこからが嘘か、など今もって判らない。吉野は嘘つきだ。解っているのに信じている。それは変わらない。変われない。真実なんてどうでもいいと思っている、自分がいる。
結局、吉野といると、それまで悶々と悩み続けた問題など大した事ではないように思えてくるのだ。自分がどんな選択をし、決意をしたところで、吉野が動じることなどない。彼にとって都合が悪ければ、吉野は自分で修正を入れる。いつの間にか流れを変える。望むままに。
その流れに流されるだけの自分に腹立ちを覚えるのに、それ以上に、それを望んでいる自分もいる。
本当に望んでいることはひとつだけだ。今も昔も変わらずに。
フレデリックと並んで白い息を吐き、アレンも夜空を見あげた。
「天使って言われて、褒め言葉だと思ったことはないんだ」
「知っているよ。きみがそう思っていたって」
フレデリックは、穏やかに頷いて。
「ごめんよ」
アレンは苦笑しながら首を振って。
「僕が虚ろで、存在が希薄だからだろう、ってずっとそう思っていた」
「そうじゃない」
「いいんだ。ヨシノだけが僕を血の通った人間にしてくれる。だから僕は皆と一緒にいられる。心は空っぽのままなのに。きみにはそれが見えていたんだと思う。あまりにも、温かみも人間味もない僕の本性がさ」
「アレン……」
表情を消し唇を引き結んだフレデリックに、アレンは自嘲的に嗤い再び頭を振った。
「前にも同じような話をしたことがあったなぁ」
どこか張り詰めてしまった空気を解すかのように、フレデリックはため息をつく。
「クリスの彼女と皆でお茶した後だったかな……。きみは空っぽなんかじゃないよ。きみいっぱいに詰まっている」
吉野への想いが。それだけが。
ずっと見ていた。そんなきみを。そんな無私の愛を捧げるきみを、天使だと思っていた。
手の届くことのないどこか遠くに置くことで、安心していたのかもしれない。自分とは違う特別な存在だからと。宗教画の天使のように、いつまでも汚れなく微笑み続けてくれる存在だと、勝手な願いを込めていたのかもしれない。
彼の本当の心を知っていながら……。
「アレン、きみが天使じゃないように、ヨシノもきみの神じゃない。きみと同じ、僕たちと同じ生身の人間なんだ。進むべきだよ」
「進む――」
今以上にどうしろと言うのだろう、とアレンは鸚鵡返しに呟くだけで、虚空に視線を漂わせている。
「……無理だよ」
白い息と共に吐きだされたのは、諦めか。
「人は変わるものだよ、アレン。たとえヨシノであっても。僕はきみが絶対に諦めないことを、きっと誰よりも良く知っている。――そろそろ中に戻ろうか? ヨシノがイライラしだす頃だ」
ガラス戸に足を向けたちょうどその時開かれたドアに、フレデリックは「ほらね」とアレンを振り返り、軽くウインクしてみせる。
「お前ら、どこに行ったかと探したんだぞ」
「作戦会議だよ。次のセットは負けたくないからね」
フレデリックのほころぶ笑顔に、吉野はにっと不敵に笑い返す。
「勝たせてやろうか?」
「まさか! 必要ないよ。正攻法で勝てる」
吉野と肩を組んで室内へ戻るフレデリックの背中を、アレンはなんともいえない表情で見つめている。
「おい、」
吉野が振り向いて顎をしゃくる。反射的に微笑んで、アレンもぱっと駆けていた。
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