胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

壁1

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 宴の後は虚しさがつきまとう。それがどんなに満ち足りたものであったとしても。

 翌朝ヘンリーが起きてきたときには、客の引き払った後の居間は早々にもとの状態に戻されていた。唯一、TS映像のツリーだけを残して。
 ひと気のない空っぽの空間を一瞥し、ヘンリーはティールームに向かった。自分一人の朝食なら、ダイニングよりもティールームの方がまだ侘しさが和らぐというもの。

「おはよう、マーカス」
「おはようございます」
「昨夜はご苦労様。メアリーはもう出発したの?」
「はい。まだ昏いうちに。ご挨拶も申しあげず申し訳ございません、と」
「かまわないよ。せっかくのクリスマスだもの。忙しなくて申し訳なかったね」

 そう、今日はクリスマスなのだ。皆、家族のもとへ帰る日だ。

「今年のクリスマスは――、賑やかだね。やはりヨシノがいるだけで違うね。それに、ウィルとゆっくり話せるのも久しぶりだろ?」
「ええ。息子からアラブ式の紅茶を教わりました」

 にこにこと応え紅茶を注ぐマーカスに、ヘンリーもまた微笑んで相槌を打つ。
「それで、ウィルは?」
「コンサバトリーです」

 怪訝な視線を向けたヘンリーに、マーカスは困ったように唇をすぼめ、「皆さん、徹夜で過ごされておられるので」と付け加える。

「そう。誰が残っているの?」

 昨夜の客はすべて見送ったはずだ。その後でコンサバトリーを使うとなると……。

「サラお嬢さまとアスカさん、ヨシノさんです。ウィリアムが控えております」
「意外な組み合わせだな」
 ヘンリーは眉根を寄せると、カチャリとカトラリーを置いて立ちあがった。
「様子を見てくる。ごちそうさま。片づけてかまわないよ」

 ほとんど手のつけられていない皿を一瞥し、マーカスはわずかに咎めるように主人を見つめた。

「……解った。戻ってくるから、このままに」
「かしこまりました」

 にこやかに微笑む執事の腕を、ヘンリーは苦笑しながらぽんと叩いて通り過ぎる。

 
 静まり返った隣室の閉め切られたドアを開ける。
 コンサバトリー内に踏みこむことを躊躇い、その場に足を留めた。静かに佇んでいるヘンリーに、壁際に立っていたウィリアムが気づいて歩み寄る。口を開きかけた彼を制して、ヘンリーは唇の前で人差し指を立てた。

 ガラス天井の向こうに広がる灰色の空。正面に広がる緑の芝生。いつもの風景に安堵する。そう感じるのは、このコンサバトリー空間が、所狭しと書きこまれた数式で埋めつくされているからだろうか。

 ヘンリーは長ソファーに横たわって眠っているサラを見て顔をしかめ、その向かいのソファーに腰かけたまま微睡んでいる飛鳥の横に腰を下ろす。残る吉野はクッションに顔を埋めて、フロアカーペットの中央に直に寝転んで眠っていた。


「おはよう。コーヒーがいるかな?」
 敏感に目を開けた吉野に、ヘンリーも目敏く気づき声をかけた。
「ああ、ありがとう。ついでに食べる。腹減ってんだ」
 ウィリアムに声をかけるまでもなく、彼は頷いて部屋をでた。

「これは何の数式?」
「教授のだした宿題だよ。それより、このペン面白いな。デヴィのアイデア? 子どもに返った気分で楽しかったよ」
「それを考えたのは、アレンだよ」
「へぇー!」
 意外そうに吉野は声をあげ、半身を起こした。

「あの糞真面目にこんな遊び心があるとは思わなかったよ」と、言いつつ、そうでもないか――、と吉野は首を捻る。昨夜のパーティーテーブルにしろ、インテリアにしろ、アレンのアイデアは子ども受けしそうなものばかりだ。

「商品化には、ほど遠い代物だけどね。この中だからこれだけクリアに描きだせるけれど、実際のところ――、サラ、」

 吉野に応えながら、ヘンリーは身動ぎしない彼女を声を高めてもう一度呼んだ。
「サラ!」
びくりと跳ね起きて自分を見た妹に、厳しい視線を向けている。
「きみはもう部屋に戻って」
 サラは視線を伏せたままヘンリーの傍らに歩み寄って、囁くような小声で呟いた。
「ごめんなさい」
 ヘンリーは微笑んで応え、サラの頬にキスをあげた。
「おやすみ。できるなら晩餐までには起きて。クリスマスだからね」
 サラはちらりと上目遣いで彼を見て、キスを返す。
「そんな遅くまで寝たりしないわ」



「厳しいんだな」
 サラが部屋を出たとたんヘンリーの口から盛大に漏れたため息に、吉野は苦笑を交えて呟いていた。
「普通だろ。まだ結婚前だ」
「いまどきないだろ!」
「環境が特殊だからさ」


 いわれてみれば、彼女は男所帯の紅一点だ。メアリーがいなければ、昨晩のように、生活面など簡単に崩れてしまうのかもしれない。

 初めはハワード教授と吉野の二人で、暗号セキュリティの話をしていたのだ。そこへ飛鳥とサラが加わった。それから純粋数学の話になり、夜も更けてパーティーを終えた後も、またここに戻ってきて、結局、夜明け近くまで遊んでしまっていたのだ。

「世間知らず同士で先が思いやられるな」

 吉野はヘンリーに同意を求めるように苦笑を向けた。だが、眠りこけている飛鳥をぼんやりと眺めているヘンリーの憂いを秘めた表情に、その笑みを消した。

 ふっと、ヘンリーが振り返る。

「そのためにマーカスがいる。彼をこの二人につけるからね。結婚式までに自立しなくてはならないのは僕の方だよ。マクレガーが使える奴ならいいけれど」
 どこか投げ遣りなふうに笑い、「アスカも起こした方がいいのかな? この姿勢じゃつらいだろうに」と、吉野に問う。
「飛鳥は平気だよ。起こすより寝かせといてやって」
「そう――」
 ヘンリーは笑っているとも思えない様子で口角をあげる。

「ああ、そういえば朝食を置いたままなんだ。きみは? ここで食べる?」
「そっちに行くよ。昨夜、面白い話を小耳に挟んだんだ」

 立ちあがり、大きく伸びをする吉野を眺め、ヘンリーはくしゃっと顔を歪めて肩を震わせて笑った。黒いディナージャケットを脱いだ吉野の白いシャツの上にも、顔の上にも、数字が絡みつくように映り込んでいるのだ。数字の中に吉野がいる。

「この部屋のドアを開けたとき、これこそがきみたちの言語で、世界そのものなのだと思ったよ。僕には踏み込むことも、触れることすらできない場所だって」
「ある意味そうだな。俺だって似たようなものだよ。飛鳥のようにはいかない」
「きみでも?」
「サラくらいだろうな。完璧に飛鳥の見ているものが見えるのは。俺は想像するだけだよ。でも、それでいいと思っている。あんたみたいに、諦めたりはしない」
「――諦めているわけじゃない」
「そうか?」

 ついと視線を逸らして皮肉気に唇の端を歪めたヘンリーを目の端で捉えながら、吉野は静かにドアを開けた。

「ほら、早くしろよ、俺、腹減ってんだ」

 



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