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九章
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「なんだか無茶苦茶なことになっちゃったね」
飛鳥は眼前の空中モニターに眼を据えたまま、眉をひそめている。
画面の中では、床の上に座りこんだままでぽかんと大口を開けているロバート・カールトンの伸びた脚のうえに、まるで異空間にでも投げだされたような、ぐにゃりと歪んだヘンリーが揺らめいている。
押し問答のすえ、ヘンリーに縋りつくように伸ばされたロバートの腕を、招待客に紛れていたボディーガードがすかさずねじあげた。はずみで彼は倒れてしまったのだ。映像のうえに。
捩じ曲がるヘンリーの姿に周囲から悲鳴があがった。間髪入れずデヴィッドが現れ、「みなさん、お騒がせして申し訳ありません、実は……、」と場を沈める。そこへまた、人垣をぬって新たに歩み寄っていた背中が「失礼したね」と、ロバートに向かって手を差し伸べた。
称賛の拍手が鳴り響く中、どこか魅入られたような恍惚とした表情で、ロバートはその手を握り立ちあがった。
「あなたが本物で、こっちがTSですか、ハリー?」
「申し訳ない。その呼び方だけはやめてもらえるかな? 急かされているようで気が滅入るんだ。毎日、秘書に『急いで!』『急いで!』と言われているんだよ」
おどけて肩をすくめてみせるヘンリーに、周囲からどっと笑い声があがる。
「世界中がきみの名を呼んで、急かしているんだよ!」
「次の新製品はまだかまだかってね!」
「この喋る立体映像がその新製品なのかい?」
次々と繰りだされる質問、生身のヘンリーに握手を求める手に阻まれて、返事をする間もなくロバートは人の輪から弾きだされている。
画面の死角に入り追い続けることのできなくなったロバートが気になって、視点を切り替えてくれるようにと飛鳥が口を開けたと同時に、「ヘンリーはあんなにも人気者なのね」と、サラの愛らしい唇が小さく呟く。
喜んでいるのか、誇らしいのか、それとも大勢の人たちに囲まれる彼が妬ましいのか、飛鳥にはサラの表情からその想いを読み取ることはできない。
「彼は、いつでも、どこにいても、あんな感じだよ。彼を嫌う人間なんてそうそういないんじゃないかな。ね、アレン」
飛鳥は同意を求めて視線を振った。だが、驚いて息を詰め、アレンの視線の先を追うことになる。おそらく彼が見ているのは、ヘンリーではない。こんなにも蒼白な顔で……。飛鳥がその誰かを見つけだす前に、アレンは両手で顔の下半分を握りつぶさんばかりに覆って、上半身を折り曲げていた。
「こっちへ! 歩ける? 僕が支える、寄りかかって、アレン。レストルームまで我慢できる?」
自分よりもずっと長身のアレンを抱えこむように背後から支え、飛鳥は付き添って部屋をでる。
「大丈夫?」
何度も繰り返し嘔吐くアレンの、苦しげに激しく上下する背中を擦り、蒼褪めた彼の脂汗の浮く額に纏いつく毛髪を、飛鳥は丁寧にかきあげる。
「すみません。もう大丈夫です」
アレンはやっと面をあげ、手の甲で血の気のひいた唇を拭い笑みを作る。
「無理しないで」
飛鳥は洗面台でコップに水を汲み、口を濯ぐようにと手渡した。
次いで、何度も水を叩きつけるようにして顔を洗うアレンの背中を眺めながら、飛鳥は、何が、誰が、彼の中に胃をひっくり返すほどの恐怖を引き起こしたのかを、訊ねるべきか迷っていた。けれど、立っているのもやっとのように見える彼をそれ以上追い詰めることは、飛鳥にはやはりできなかった。
「寝室で休んでいるといいよ」
「でも、」
飛鳥は戸惑い震えている彼の瞳に微笑みかけた。
「ファミリータイプだからね。ベッドルームは二つあるんだ。気にしないで平気だよ」
それでも申し訳なさそうな顔をするアレンの腕を取って、寝室のドアを開ける。
「少し落ち着いたら水分を取ろうね。今は休んでいて」
ジャケットを脱ぎ、遠慮がちに横たわるアレンの枕を整え、上掛けをふわりとかけてやる。
「ありがとうございます」
「僕は学生時代、ヘンリーの制服に吐いたことがあるからね。ちゃんと我慢できたきみは偉いよ!」
くしゃりと髪を撫でられ、アレンはふふっと頬を緩める。
「兄は怒りましたか?」
「怒ったりしなかったよ。ここに吐けって、彼が制服を僕の口にもってきたんだもの。その時はどうしようもなかったけれど、後から思いだすと堪らなかったな」
飛鳥はにっと鼻の頭に皺をよせた。
「休んでいて」
「はい。きっとインテリアの詰めで緊張しすぎていたのだと思います。ご迷惑かけてごめんなさい」とアレンは柔らかく微笑んで告げる。
もう一度さらりと髪を撫でてからベッドサイドを離れた飛鳥を、アレンは笑みを湛えたまま眼で追った。静かに彼がドアの向こうに消えると、とたんにすっと表情から力が抜ける。どこまでも沈みこんでいくように。
「まさか、いまだにこんな――」
ため息とともに漏れた言葉に唇を歪め、アレンは寝返りを打って枕に顔を埋めた。
「彼は?」
「大丈夫みたいだよ。本店での仕事で緊張しすぎていた反応が、今頃でたんじゃないかって」
「そう」
空中モニターを食い入るように見ているサラも、様子がおかしい。飛鳥は自分だけが取り残されたような困惑した想いで、モニター画面に視線を移す。
映像は元のクリアな像に戻っている。その横に、ヘンリーの妹が誇らしげに佇んでいる。それにロバート・カールトンも。聞き取れないほどの早口で、飽きもせず映像に話しかけているようだ。
だが彼ではなく、サラはキャルを見つめているのだ。自分とは血の繋がらないヘンリーの妹を。ヘンリーと同じ瞳の色、同じ髪色の面差しの似た彼の妹を。
浅はかだった、と飛鳥はぎゅっと奥歯を噛みしめていた。彼女が米国のヘンリーの家族のことをどの程度知っているのか、どう思っているのか、ヘンリーからは何も聞いていない。
こうして同じ家で暮らすアレンとでさえ、いまだ打ち解けているとはいい難い状況なのに。
必要以上に干渉しあわないこの家族関係は、飛鳥の理解を超えている。触れていいものかどうかも判らない。
頭の中でぐるぐると思考を巡らせている最中、飛鳥は人垣の中にいる吉野に気づき、ほっと顔を緩ませた。着飾った紳士淑女の集うこの会場で、見劣りしないその堂々とした姿が嬉しかった。だが次の瞬間、吉野の喋っている相手がこちらに顔を向けた時、飛鳥もまたアレンと同じように、血の気が引いていく感覚を味わっていたのだ。
「彼だ」
アレンをああも怯えさせた人物――。
彼を残酷に傷つけ、踏み躙った相手。湧きあがる怒りに、飛鳥もまた震えるほど拳を握りこんでいた。
飛鳥は眼前の空中モニターに眼を据えたまま、眉をひそめている。
画面の中では、床の上に座りこんだままでぽかんと大口を開けているロバート・カールトンの伸びた脚のうえに、まるで異空間にでも投げだされたような、ぐにゃりと歪んだヘンリーが揺らめいている。
押し問答のすえ、ヘンリーに縋りつくように伸ばされたロバートの腕を、招待客に紛れていたボディーガードがすかさずねじあげた。はずみで彼は倒れてしまったのだ。映像のうえに。
捩じ曲がるヘンリーの姿に周囲から悲鳴があがった。間髪入れずデヴィッドが現れ、「みなさん、お騒がせして申し訳ありません、実は……、」と場を沈める。そこへまた、人垣をぬって新たに歩み寄っていた背中が「失礼したね」と、ロバートに向かって手を差し伸べた。
称賛の拍手が鳴り響く中、どこか魅入られたような恍惚とした表情で、ロバートはその手を握り立ちあがった。
「あなたが本物で、こっちがTSですか、ハリー?」
「申し訳ない。その呼び方だけはやめてもらえるかな? 急かされているようで気が滅入るんだ。毎日、秘書に『急いで!』『急いで!』と言われているんだよ」
おどけて肩をすくめてみせるヘンリーに、周囲からどっと笑い声があがる。
「世界中がきみの名を呼んで、急かしているんだよ!」
「次の新製品はまだかまだかってね!」
「この喋る立体映像がその新製品なのかい?」
次々と繰りだされる質問、生身のヘンリーに握手を求める手に阻まれて、返事をする間もなくロバートは人の輪から弾きだされている。
画面の死角に入り追い続けることのできなくなったロバートが気になって、視点を切り替えてくれるようにと飛鳥が口を開けたと同時に、「ヘンリーはあんなにも人気者なのね」と、サラの愛らしい唇が小さく呟く。
喜んでいるのか、誇らしいのか、それとも大勢の人たちに囲まれる彼が妬ましいのか、飛鳥にはサラの表情からその想いを読み取ることはできない。
「彼は、いつでも、どこにいても、あんな感じだよ。彼を嫌う人間なんてそうそういないんじゃないかな。ね、アレン」
飛鳥は同意を求めて視線を振った。だが、驚いて息を詰め、アレンの視線の先を追うことになる。おそらく彼が見ているのは、ヘンリーではない。こんなにも蒼白な顔で……。飛鳥がその誰かを見つけだす前に、アレンは両手で顔の下半分を握りつぶさんばかりに覆って、上半身を折り曲げていた。
「こっちへ! 歩ける? 僕が支える、寄りかかって、アレン。レストルームまで我慢できる?」
自分よりもずっと長身のアレンを抱えこむように背後から支え、飛鳥は付き添って部屋をでる。
「大丈夫?」
何度も繰り返し嘔吐くアレンの、苦しげに激しく上下する背中を擦り、蒼褪めた彼の脂汗の浮く額に纏いつく毛髪を、飛鳥は丁寧にかきあげる。
「すみません。もう大丈夫です」
アレンはやっと面をあげ、手の甲で血の気のひいた唇を拭い笑みを作る。
「無理しないで」
飛鳥は洗面台でコップに水を汲み、口を濯ぐようにと手渡した。
次いで、何度も水を叩きつけるようにして顔を洗うアレンの背中を眺めながら、飛鳥は、何が、誰が、彼の中に胃をひっくり返すほどの恐怖を引き起こしたのかを、訊ねるべきか迷っていた。けれど、立っているのもやっとのように見える彼をそれ以上追い詰めることは、飛鳥にはやはりできなかった。
「寝室で休んでいるといいよ」
「でも、」
飛鳥は戸惑い震えている彼の瞳に微笑みかけた。
「ファミリータイプだからね。ベッドルームは二つあるんだ。気にしないで平気だよ」
それでも申し訳なさそうな顔をするアレンの腕を取って、寝室のドアを開ける。
「少し落ち着いたら水分を取ろうね。今は休んでいて」
ジャケットを脱ぎ、遠慮がちに横たわるアレンの枕を整え、上掛けをふわりとかけてやる。
「ありがとうございます」
「僕は学生時代、ヘンリーの制服に吐いたことがあるからね。ちゃんと我慢できたきみは偉いよ!」
くしゃりと髪を撫でられ、アレンはふふっと頬を緩める。
「兄は怒りましたか?」
「怒ったりしなかったよ。ここに吐けって、彼が制服を僕の口にもってきたんだもの。その時はどうしようもなかったけれど、後から思いだすと堪らなかったな」
飛鳥はにっと鼻の頭に皺をよせた。
「休んでいて」
「はい。きっとインテリアの詰めで緊張しすぎていたのだと思います。ご迷惑かけてごめんなさい」とアレンは柔らかく微笑んで告げる。
もう一度さらりと髪を撫でてからベッドサイドを離れた飛鳥を、アレンは笑みを湛えたまま眼で追った。静かに彼がドアの向こうに消えると、とたんにすっと表情から力が抜ける。どこまでも沈みこんでいくように。
「まさか、いまだにこんな――」
ため息とともに漏れた言葉に唇を歪め、アレンは寝返りを打って枕に顔を埋めた。
「彼は?」
「大丈夫みたいだよ。本店での仕事で緊張しすぎていた反応が、今頃でたんじゃないかって」
「そう」
空中モニターを食い入るように見ているサラも、様子がおかしい。飛鳥は自分だけが取り残されたような困惑した想いで、モニター画面に視線を移す。
映像は元のクリアな像に戻っている。その横に、ヘンリーの妹が誇らしげに佇んでいる。それにロバート・カールトンも。聞き取れないほどの早口で、飽きもせず映像に話しかけているようだ。
だが彼ではなく、サラはキャルを見つめているのだ。自分とは血の繋がらないヘンリーの妹を。ヘンリーと同じ瞳の色、同じ髪色の面差しの似た彼の妹を。
浅はかだった、と飛鳥はぎゅっと奥歯を噛みしめていた。彼女が米国のヘンリーの家族のことをどの程度知っているのか、どう思っているのか、ヘンリーからは何も聞いていない。
こうして同じ家で暮らすアレンとでさえ、いまだ打ち解けているとはいい難い状況なのに。
必要以上に干渉しあわないこの家族関係は、飛鳥の理解を超えている。触れていいものかどうかも判らない。
頭の中でぐるぐると思考を巡らせている最中、飛鳥は人垣の中にいる吉野に気づき、ほっと顔を緩ませた。着飾った紳士淑女の集うこの会場で、見劣りしないその堂々とした姿が嬉しかった。だが次の瞬間、吉野の喋っている相手がこちらに顔を向けた時、飛鳥もまたアレンと同じように、血の気が引いていく感覚を味わっていたのだ。
「彼だ」
アレンをああも怯えさせた人物――。
彼を残酷に傷つけ、踏み躙った相手。湧きあがる怒りに、飛鳥もまた震えるほど拳を握りこんでいた。
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