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九章
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ヘンリーは彼のことをどんな風に言っていただろうか?
相変わらず我がもの顔で映像を独占し続けるロバートの意味のない会話を右から左へと聞き流しながら、飛鳥は瞼裏に焼きつけた、がっしりと体格のいい金髪の男のことを考えていた。もう名前すら憶えていない。記憶に残る醜悪な写真で見たあの顔が、上品にとり澄ましたタキシード姿の男と同一人物だということさえ信じられないほどだ。むしろアレンのあの反応がなければ、気づくことすらなかったのかもしれない。
朧な記憶を探ってみても、浮かんでくるのはあの時の堪らない不快感ばかりで――。アレンを傷つけ、その様子を撮影して彼を脅迫していた下劣な男。そんな悪辣なあの男からアレンを救いだすために、吉野とアーネスト、そして飛鳥で証拠写真を取り戻してデータを処分したのだ。そんな相手を今頃になって、こんな場所で目にすることになるなんて……。なぜ?
――処分するには大物すぎる。
あの事件の後、ヘンリーは確かそんな言い方をしていなかったか? 父親が政治家で、って。
不快さと、自分の記憶のあまりの頼りなさに、飛鳥は大きくため息をついた。父親の縁故で、大使館主催のパーティーに出席している。おそらく何の不思議もないのだろう。
人の集まっている騒動のいきさつを、たまたま近くにいた吉野に訊ねていただけかもしれない。本当に、偶然そこにいただけで。
ぼんやりと考えんでいた飛鳥の肩を、隣に座るサラが乱暴に揺する。
「アスカ、見て」
モニター画面の端で、クリスがにこにこと微笑んで手を振っている。思わず飛鳥も手を振り返す。けれどすぐに、こちらの様子は相手には見えないのを思いだして苦笑する。
「横にいる人が、さっき話していたヨシノの友人かな?」
銀髪の、鋭利な刃物のような冷ややかな印象の青年が、じっとこちらを見据えて会釈している。まるで、画面越しの自分が見えているかのようだ。
「初めまして。吉野がお世話になりました」飛鳥は画面に向かって頭を下げた。
「何で? 向こうからは見えないのに」
「解っているけれど。そうせずにはいられないっていうか。本当は、ちゃんと挨拶に行きたい、」
言いかけて、飛鳥は語尾を濁した。一人なら行けるのに。そんな気持ちが脳裏を過っていたのだ。サラの婚約者としてではなく、吉野の保護者としてあの場に立ちたい。吉野の話を聴きたい想いで溢れ返りそうになっている心の内を、この透明なペリドットの瞳に見透かされるのが嫌だった。
「アレンの様子を見てくるよ」
そんな想いを誤魔化して飛鳥は立ちあがる。冷蔵庫からスポーツドリンクを取りだし、寝室のドアをノックする。
「眠ったの?」
返事がないことにかえって不安をかきたてられ、静かにドアノブを捻る。ベッドサイドの小さな灯りのみで仄暗く浮かぶ部屋のなか、アレンはベッドヘッドにもたれたままぼんやりとしていた。だがすぐに、ゆらりと髪の毛が揺れた。視線が向けられ、柔らかな笑みが飛鳥を迎えいれる。
「水分を取らなきゃ」飛鳥はサイドテーブルのグラスを取り、ペットボトルから注いで手渡す。「少しづつだよ」アレンのコクリと飲み下す喉の動きと、自分に向けられた静かなセレストブルーとに、飛鳥はほっと安堵する。
「モニター画面から、クリスが手を振ってくれてたよ。銀髪のすごく頭の良さそうな人と一緒だった。彼が噂のエリオットの先輩かな?」
「金の瞳の?」
「そこまでは判らなかったな、遠目で。でも独特の雰囲気のある人だった」
「きっとアボット寮長です。綺麗な銀髪の方でしょう?」
懐かしそうに眼を細め、アレンは顔をほころばせている。皆がいた時の反応とはまるで違う。
あの時やはりアレンは、あの男を思い浮かべたのではないだろうか。吉野の友人として――。
まさかそんなはずがない。あり得ない。あの事件で誰よりも憤り、まっ直ぐに彼を助けたいと行動したのは吉野ではないか。
けれど、吉野が判らない。アレンなら、今は自分以上に吉野のことを知っているかもしれない。訊けば応えてくれるのかもしれない。けれど……。
だが彼の心に深く刻まれた傷を覗きみるのが、飛鳥は怖かった。その傷口からいまだに赤い血がドクドクと流れだしているようで。こうして傍にいることすら居た堪れないのだ。
――この子は、なんて強い子なのだろう。
「僕は知っていたはずなのに、その事を思いだすことすらなかったよ。きみは本当に綺麗で、誰よりも清らかな子に見えていた。僕だけじゃなくて誰もがそう思ってる」
何者にも汚されることのない至高の魂。だからこそ彼は天使と呼ばれ続ける。飛鳥には、そう思わずにはいられなかった。
「ありがとうございます。でも僕は清らかなんかじゃありません」
アレンは困ったように、軽く眉根を寄せて苦笑する。
知っている――。
アレンはそれを自分の神経質で病的な面、潔癖症や今みたいな神経症的な発作のことを指しているのだと受け取ったのだ。彼の隠したかったそんな心の弱さを、解っているから遠慮するなと言ってくれているのだ、と。でもだからこそ、差し伸べられる優しさに縋りついてはならない。泣きだしてしまいそうな自分を押しとどめるために、アレンは微笑む。
「弱くて、本当にだめで……。こんなことじゃ、いつまでたってもヨシノを守れない。せっかくフェイラーに生まれついたというのに」
自分の口からでた言葉にアレン自身が驚いたように、その一瞬、表情が固まる。「あ……」と、しなやかな、けれどいつもにも増して白く透き通る手が口許を覆う。
「アスカさん」
「何?」
「起きます。何か食べませんか? お腹が空きました」
やがておもむろに口に当てていた手を握りこみ、アレンはにっこりと笑みを見せた。飛鳥も頷いて、ほっとしたような笑顔で応えた。
相変わらず我がもの顔で映像を独占し続けるロバートの意味のない会話を右から左へと聞き流しながら、飛鳥は瞼裏に焼きつけた、がっしりと体格のいい金髪の男のことを考えていた。もう名前すら憶えていない。記憶に残る醜悪な写真で見たあの顔が、上品にとり澄ましたタキシード姿の男と同一人物だということさえ信じられないほどだ。むしろアレンのあの反応がなければ、気づくことすらなかったのかもしれない。
朧な記憶を探ってみても、浮かんでくるのはあの時の堪らない不快感ばかりで――。アレンを傷つけ、その様子を撮影して彼を脅迫していた下劣な男。そんな悪辣なあの男からアレンを救いだすために、吉野とアーネスト、そして飛鳥で証拠写真を取り戻してデータを処分したのだ。そんな相手を今頃になって、こんな場所で目にすることになるなんて……。なぜ?
――処分するには大物すぎる。
あの事件の後、ヘンリーは確かそんな言い方をしていなかったか? 父親が政治家で、って。
不快さと、自分の記憶のあまりの頼りなさに、飛鳥は大きくため息をついた。父親の縁故で、大使館主催のパーティーに出席している。おそらく何の不思議もないのだろう。
人の集まっている騒動のいきさつを、たまたま近くにいた吉野に訊ねていただけかもしれない。本当に、偶然そこにいただけで。
ぼんやりと考えんでいた飛鳥の肩を、隣に座るサラが乱暴に揺する。
「アスカ、見て」
モニター画面の端で、クリスがにこにこと微笑んで手を振っている。思わず飛鳥も手を振り返す。けれどすぐに、こちらの様子は相手には見えないのを思いだして苦笑する。
「横にいる人が、さっき話していたヨシノの友人かな?」
銀髪の、鋭利な刃物のような冷ややかな印象の青年が、じっとこちらを見据えて会釈している。まるで、画面越しの自分が見えているかのようだ。
「初めまして。吉野がお世話になりました」飛鳥は画面に向かって頭を下げた。
「何で? 向こうからは見えないのに」
「解っているけれど。そうせずにはいられないっていうか。本当は、ちゃんと挨拶に行きたい、」
言いかけて、飛鳥は語尾を濁した。一人なら行けるのに。そんな気持ちが脳裏を過っていたのだ。サラの婚約者としてではなく、吉野の保護者としてあの場に立ちたい。吉野の話を聴きたい想いで溢れ返りそうになっている心の内を、この透明なペリドットの瞳に見透かされるのが嫌だった。
「アレンの様子を見てくるよ」
そんな想いを誤魔化して飛鳥は立ちあがる。冷蔵庫からスポーツドリンクを取りだし、寝室のドアをノックする。
「眠ったの?」
返事がないことにかえって不安をかきたてられ、静かにドアノブを捻る。ベッドサイドの小さな灯りのみで仄暗く浮かぶ部屋のなか、アレンはベッドヘッドにもたれたままぼんやりとしていた。だがすぐに、ゆらりと髪の毛が揺れた。視線が向けられ、柔らかな笑みが飛鳥を迎えいれる。
「水分を取らなきゃ」飛鳥はサイドテーブルのグラスを取り、ペットボトルから注いで手渡す。「少しづつだよ」アレンのコクリと飲み下す喉の動きと、自分に向けられた静かなセレストブルーとに、飛鳥はほっと安堵する。
「モニター画面から、クリスが手を振ってくれてたよ。銀髪のすごく頭の良さそうな人と一緒だった。彼が噂のエリオットの先輩かな?」
「金の瞳の?」
「そこまでは判らなかったな、遠目で。でも独特の雰囲気のある人だった」
「きっとアボット寮長です。綺麗な銀髪の方でしょう?」
懐かしそうに眼を細め、アレンは顔をほころばせている。皆がいた時の反応とはまるで違う。
あの時やはりアレンは、あの男を思い浮かべたのではないだろうか。吉野の友人として――。
まさかそんなはずがない。あり得ない。あの事件で誰よりも憤り、まっ直ぐに彼を助けたいと行動したのは吉野ではないか。
けれど、吉野が判らない。アレンなら、今は自分以上に吉野のことを知っているかもしれない。訊けば応えてくれるのかもしれない。けれど……。
だが彼の心に深く刻まれた傷を覗きみるのが、飛鳥は怖かった。その傷口からいまだに赤い血がドクドクと流れだしているようで。こうして傍にいることすら居た堪れないのだ。
――この子は、なんて強い子なのだろう。
「僕は知っていたはずなのに、その事を思いだすことすらなかったよ。きみは本当に綺麗で、誰よりも清らかな子に見えていた。僕だけじゃなくて誰もがそう思ってる」
何者にも汚されることのない至高の魂。だからこそ彼は天使と呼ばれ続ける。飛鳥には、そう思わずにはいられなかった。
「ありがとうございます。でも僕は清らかなんかじゃありません」
アレンは困ったように、軽く眉根を寄せて苦笑する。
知っている――。
アレンはそれを自分の神経質で病的な面、潔癖症や今みたいな神経症的な発作のことを指しているのだと受け取ったのだ。彼の隠したかったそんな心の弱さを、解っているから遠慮するなと言ってくれているのだ、と。でもだからこそ、差し伸べられる優しさに縋りついてはならない。泣きだしてしまいそうな自分を押しとどめるために、アレンは微笑む。
「弱くて、本当にだめで……。こんなことじゃ、いつまでたってもヨシノを守れない。せっかくフェイラーに生まれついたというのに」
自分の口からでた言葉にアレン自身が驚いたように、その一瞬、表情が固まる。「あ……」と、しなやかな、けれどいつもにも増して白く透き通る手が口許を覆う。
「アスカさん」
「何?」
「起きます。何か食べませんか? お腹が空きました」
やがておもむろに口に当てていた手を握りこみ、アレンはにっこりと笑みを見せた。飛鳥も頷いて、ほっとしたような笑顔で応えた。
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