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九章
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「吉野? あいつがどうかした?」
サラからいきなり吉野の名を聞くなんて、これまでにあっただろうか?
飛鳥は緊張を含んだ瞳で彼女を見つめた。吉野がまた自分の知らない金融取引で、何か重大な過失でも犯したのではないかと不安が先立つ。なにせつい先日、吉野が統括する国有企業の処理問題で、世界を震撼させるほどの為替変動を引き起こしたばかりなのだ。
だが彼女は、飛鳥のそんな内心の変化は気にもとめない。ぼんやりと虚空に視線を漂わせたまま、胸にすくう想いを吐きだすように大きくため息をついている。
「羨ましくて」
次いで告げられたのは、そんな言葉で。
飛鳥は拍子抜け、軽く首を捻った。
「何が?」
サラの放つ想いの先回りがしたいのに、飛鳥にはいまだに彼女の考えること、言いだす事が見当もつかない。そんな自分に苛立ち、膝の上の手をぐっと握りしめるばかりだ。
「すごく楽しかったの。ハワード教授とお話できて。ヨシノはいつもあんな楽しい時間を持てているのかと思ったら、羨ましくて」
「ハワード教授――」
思いがけない名前に、飛鳥はぽかんと目を見開いてしまった。
「それなのにヨシノは、大学よりも砂漠の方が大切なのでしょう? もうあの計画は軌道に乗っているのだから、ヨシノ自身が砂漠にいなきゃいけない理由なんてないのに。必要とされているって事なら、ヨシノも、ヘンリーみたいにスペアを作ればいいと思うの」
サラは怒ってでもいるかのように唇を尖らせ、ひと息にまくしたてる。
吉野が滅多に帰ってこないことが淋しいのか、それとも世界有数の数学者に師事しながら、その幸運を生かそうとしない彼の傲慢さが腹立たしいのか。あるいは――。飛鳥はサラの真意を掴もうとあれこれ憶測し、ようやく思い至った見解を口にしてみた。
「サラ、教授にまた遊びにきていただこうか? ハワード教授なら、この館へ招いてもヘンリーは反対したりしないよ。教授も、またきみに逢いたいと仰って下さっていたしね」
一瞬にして煌めきを増したペリドットの瞳に、飛鳥も釣られて笑みを零す。
「本当?」
「うん。ヘンリーに訊いてごらん。きちんと許可を取った方がきみも安心だろ?」
話す先から、サラはローテーブルの上にあるTSタブレットに手を伸ばしている。これは私信なので、仕事中のヘンリーを慮り、電話ではなくメールを打っている。
「僕の方から教授に予定を訊ねようか?」
「お願い、アスカ!」
子どものように明るい上擦った声だな、とこれまで聞いたことのなかった調子に驚きながら、思わぬサラの願望に応えることができた自分に、飛鳥はじんわりと染み入るような満足を覚えていた。
「サラ、何でも言って。もっと教えて欲しいんだ。きみのしたい事、好きな事、欲しいもの。もっと知りたいんだ、きみの事が」
優しい微笑を湛えて自分を見つめる飛鳥に、サラはきょとんと小鳥のように小首を傾げる。
「アスカは私のことは何でも知っていると思っていた」
「わからない事だらけだよ」
「でも、私はアスカに自分の事を説明したことなんてないのに、アスカは初めから知っていたわ」
不思議そうな色彩を湛える瞳を縁どる濃く長い睫毛が、数度瞬かれる。飛鳥も同じように小首を傾げて瞬きした。
「どういう事だろう?」
「知りたいのは私」
「僕はきみの何を知っている、て思っていたの?」
「私が言わなくても、パソコンルームには角砂糖が置いてある」
「ブドウ糖だよ。僕に必要なんだ」
「面白い数学の課題をいつも見せてくれたわ」
「あれは吉野の課題でもあるんだ」
「動物性たんぱく抜きの昼食にも何も言わなかった」
出されたものが何かなんて、いちいち気にしたことがない。
もしかして自分は彼女の事を知らず知らずにでも理解できていたのか、と飛鳥のなかで膨れかけていた希望的観測は、みるみるうちに萎んでいく。
「ただの偶然だよ。やはり、きみから教えてもらわなきゃ、以心伝心で判るってわけにはいかないみたいだ」
残念そうに笑う飛鳥に、サラは大真面目な顔で首を横に振る。
「共時性よ。私とアスカは共鳴するの。だからこんなにも好きなものが同じ」
好きなものが同じ――。
けれどそれは偶然にすぎない。同じく数学が好きだったから、出逢ったのだから。出逢ってから、数学が好きだと知ったのではない。砂糖にしたって、頭脳労働をするものが糖分を好むのはごく一般的な現象だ。
そうは思っても、さすがに口にだして言うことは、いくら飛鳥でもしなかった。代わりに、サラに、にっこりと微笑みかけた。
「きみは運命を信じる?」
眼前の彼女は、吸い込まれそうに透明な瞳で飛鳥を見つめたまま頷く。
「だと思った。ヘンリーと同じだ。きみもロマンチストだ」
「アスカは違うの?」
「信じてるよ」
そう、信じている。飛鳥は、ヘンリーがその手でねじ伏せ、整えてきた運命を歩んでいるのだから――。
「とても感謝してるよ。こうしてきみに出逢わせてくれた運命に」
微笑んだままふっと瞼を伏せた飛鳥を、サラは不思議そうに見つめていた。
サラからいきなり吉野の名を聞くなんて、これまでにあっただろうか?
飛鳥は緊張を含んだ瞳で彼女を見つめた。吉野がまた自分の知らない金融取引で、何か重大な過失でも犯したのではないかと不安が先立つ。なにせつい先日、吉野が統括する国有企業の処理問題で、世界を震撼させるほどの為替変動を引き起こしたばかりなのだ。
だが彼女は、飛鳥のそんな内心の変化は気にもとめない。ぼんやりと虚空に視線を漂わせたまま、胸にすくう想いを吐きだすように大きくため息をついている。
「羨ましくて」
次いで告げられたのは、そんな言葉で。
飛鳥は拍子抜け、軽く首を捻った。
「何が?」
サラの放つ想いの先回りがしたいのに、飛鳥にはいまだに彼女の考えること、言いだす事が見当もつかない。そんな自分に苛立ち、膝の上の手をぐっと握りしめるばかりだ。
「すごく楽しかったの。ハワード教授とお話できて。ヨシノはいつもあんな楽しい時間を持てているのかと思ったら、羨ましくて」
「ハワード教授――」
思いがけない名前に、飛鳥はぽかんと目を見開いてしまった。
「それなのにヨシノは、大学よりも砂漠の方が大切なのでしょう? もうあの計画は軌道に乗っているのだから、ヨシノ自身が砂漠にいなきゃいけない理由なんてないのに。必要とされているって事なら、ヨシノも、ヘンリーみたいにスペアを作ればいいと思うの」
サラは怒ってでもいるかのように唇を尖らせ、ひと息にまくしたてる。
吉野が滅多に帰ってこないことが淋しいのか、それとも世界有数の数学者に師事しながら、その幸運を生かそうとしない彼の傲慢さが腹立たしいのか。あるいは――。飛鳥はサラの真意を掴もうとあれこれ憶測し、ようやく思い至った見解を口にしてみた。
「サラ、教授にまた遊びにきていただこうか? ハワード教授なら、この館へ招いてもヘンリーは反対したりしないよ。教授も、またきみに逢いたいと仰って下さっていたしね」
一瞬にして煌めきを増したペリドットの瞳に、飛鳥も釣られて笑みを零す。
「本当?」
「うん。ヘンリーに訊いてごらん。きちんと許可を取った方がきみも安心だろ?」
話す先から、サラはローテーブルの上にあるTSタブレットに手を伸ばしている。これは私信なので、仕事中のヘンリーを慮り、電話ではなくメールを打っている。
「僕の方から教授に予定を訊ねようか?」
「お願い、アスカ!」
子どものように明るい上擦った声だな、とこれまで聞いたことのなかった調子に驚きながら、思わぬサラの願望に応えることができた自分に、飛鳥はじんわりと染み入るような満足を覚えていた。
「サラ、何でも言って。もっと教えて欲しいんだ。きみのしたい事、好きな事、欲しいもの。もっと知りたいんだ、きみの事が」
優しい微笑を湛えて自分を見つめる飛鳥に、サラはきょとんと小鳥のように小首を傾げる。
「アスカは私のことは何でも知っていると思っていた」
「わからない事だらけだよ」
「でも、私はアスカに自分の事を説明したことなんてないのに、アスカは初めから知っていたわ」
不思議そうな色彩を湛える瞳を縁どる濃く長い睫毛が、数度瞬かれる。飛鳥も同じように小首を傾げて瞬きした。
「どういう事だろう?」
「知りたいのは私」
「僕はきみの何を知っている、て思っていたの?」
「私が言わなくても、パソコンルームには角砂糖が置いてある」
「ブドウ糖だよ。僕に必要なんだ」
「面白い数学の課題をいつも見せてくれたわ」
「あれは吉野の課題でもあるんだ」
「動物性たんぱく抜きの昼食にも何も言わなかった」
出されたものが何かなんて、いちいち気にしたことがない。
もしかして自分は彼女の事を知らず知らずにでも理解できていたのか、と飛鳥のなかで膨れかけていた希望的観測は、みるみるうちに萎んでいく。
「ただの偶然だよ。やはり、きみから教えてもらわなきゃ、以心伝心で判るってわけにはいかないみたいだ」
残念そうに笑う飛鳥に、サラは大真面目な顔で首を横に振る。
「共時性よ。私とアスカは共鳴するの。だからこんなにも好きなものが同じ」
好きなものが同じ――。
けれどそれは偶然にすぎない。同じく数学が好きだったから、出逢ったのだから。出逢ってから、数学が好きだと知ったのではない。砂糖にしたって、頭脳労働をするものが糖分を好むのはごく一般的な現象だ。
そうは思っても、さすがに口にだして言うことは、いくら飛鳥でもしなかった。代わりに、サラに、にっこりと微笑みかけた。
「きみは運命を信じる?」
眼前の彼女は、吸い込まれそうに透明な瞳で飛鳥を見つめたまま頷く。
「だと思った。ヘンリーと同じだ。きみもロマンチストだ」
「アスカは違うの?」
「信じてるよ」
そう、信じている。飛鳥は、ヘンリーがその手でねじ伏せ、整えてきた運命を歩んでいるのだから――。
「とても感謝してるよ。こうしてきみに出逢わせてくれた運命に」
微笑んだままふっと瞼を伏せた飛鳥を、サラは不思議そうに見つめていた。
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