胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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「ご心配なく。僕はあなたが思われているほど、好戦的な人間ではありませんよ」

 艶やかな紅い唇が紡ぎだしたのは、彼に相応しい冷ややかな言葉だ。アレンの在学中には、彼と並び称され讃えられてきた華やかな容姿のフィリップである。だがその見た目とは裏腹に、彼には常に暴力的なイメージが付きまとっていることは、本人も自覚していた。

 ケネスは彼の険のある物言いにも和やかな笑みを崩さない。
 こうしてこの二人が並んでいると目の保養だな、などと、自分が彼を挑発したことさえどこ吹く風で。

「ああ、そうじゃない。僕はきみが思っているほど、きみのことを好戦的だとは思ってないよ。血の気は多いようだけど、いたって良心的な人物だと考えているよ」と、穏やかな口調で応える。

 ケネスのエリオット校在学最終年度に、フィリップは新入学年生として入学してきた。彼の記憶には、あどけなさを残した13才の少年のイメージの方がいまだ根強いのかもしれない。フィリップにしてみれば、この子ども扱いが癪に障るのかな、とアレンは、この突然の訪問者とあくまで無表情を装っている後輩とを複雑な想いで見守っている。

 眼前の彼フィリップにしてみれば、ケネス・アボット元生徒総監は、吉野と同じくらい反りが合わないのではないか。
 そんな想像からくる居た堪れなさで、アレンはどうにも落ち着かない。
 好き嫌いはともかく、フィリップは自分を守護するためにここにいるのだ。そして彼もまた、好き嫌いは関係なくここにいなければならない。その事実に、若干の申し訳なさを感じていたのだ。

「総監、ところで兄に頼まれて、というのは吉野に関係したことなのでしょうか?」

 アレンはこのぎこちない空気を払拭するためにも、努めて明るく尋ねかけた。吉野に逢いに、という理由なら大学のことかもしれない。彼も大学院は、吉野も所属するケンブリッジのハワード教授の研究室に入ることが決まっている、と聴いたのを思いだしたのだ。

「ん? 彼のことは別件。それにしても総監はよしてくれよ、卒業して何年も経つんだ。ケネスでかまわないよ」

 そうは言われても、と戸惑うアレンに、ケネスは念を押すように微笑みかける。そして、その笑みを湛えたまま視線をフィリップ滑らせた。

「ヘンリー卿からの頼まれごとはね、きみや彼に関係ないわけでもないけれど、」と彼はアレンを一瞥し、再びフィリップに視線を戻す。
「どちらかというと、あなたの監視かな、ド・パルデュー公爵」

 あまりにも想定外なケネスの言葉にアレンは目を剥き、無表情ながら一瞬にして激しく空気を揺らす憤りを発散させたフィリップを、困惑気味に見つめた。
 あ、確かに――、感情が丸わかりだ、と納得しながら。



「どういう意味でしょうか」
 
 一呼吸置いてから訊ねたのは、ケネスの思惑に反してアレンの方だった。

「言葉通りだよ。ヘンリー卿は、米国にいるセドリック子爵の身の安全を懸念しておられる。で、彼と直接話すように僕をここへよこしたというわけ」

 濃紺の瞳をたぎらせて口を開きかけたフィリップは、ちょうど現れたマーカスをちらりと見遣ると、いったんその言葉を呑み込んだ。


「少し冷えてきましたね。室内に移られますか?」
 マーカスに問われ、アレンはなにげなく空を見あげた。そういえば、さきほどまでの蒼空はいつの間にか雲に覆われている。ひと雨きてもおかしくない空模様だ。

「移動しましょう」

 椅子から立ちあがったアレンがふと見ると、フィリップはケネスの傍らに立ち、ごく当たり前に軽く折り曲げた右腕を差しだしている。椅子に腰かけたままだったケネスは、苦笑して「ありがとうメルシ」とフランス語で礼を言い、その腕をぐっと掴んで立ちあがる。
 その様子を目を丸くして見つめていたアレンを一瞥したフィリップは、恥ずかしい行為でも見られてしまったかのように、視線を伏せた。

「ほら、どうしたの。行くよ」

 ぼんやりと佇んだままのアレンを、ケネスが呼んだ。アレンは慌ててあとを追った。

 

 テラスに面したティールームに移る移るのかと思いきや、マーカスが案内したのは、蔦の絡まるガラス天井が美しい、南国風の緑豊かなコンサバトリーだ。アレンはここに足を踏み入れるのは初めてだった。コンサバトリーでお茶を、と勧められても、ヘンリー邸の飛鳥の実験室のイメージがあって無意識に避けていたのだ。まさかこんな普通の温室だとは思ってもみなかった。

「ニューヨーク支店みたいだ」

 鳥籠のような、とアレンは懐かしげに呟いていた。オープン時のロンドン本店がヘンリーと飛鳥の通ったウエスタンの風景をなぞった装飾だったように、米国や、各国都市部にあるアーカシャー支店のどこかには、ヘンリーを形作る原風景が折り込まれているのかもしれない。

 またぼんやりと自分だけの物思いに耽っていると、「アレンさま」と呼ばれた。はっと我に返り、辺りをきょろきょろと見回して。

「どうぞ、お茶が入りました」

 涼しげでシャープな葉型がいくつも重なりあい大きく広がるアレカヤシのふもとに置かれたガラステーブルには、すでにお茶が用意されている。ケネスもフィリップもラタンのソファーに先に腰を下ろして自分を待っている。
 アレンは「失礼」と、空いていたケネスの横に腰を据えた。


 マーカスが場を外すのを待ちかまえていたように、フィリップは話を切りだした。

 



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