697 / 758
九章
4
しおりを挟む
「どうぞ! あ――、すみません。でも、こんな汚いところじゃ落ち着かないよね。部屋、移りましょう」
「どうぞ、そのままで。僕の部屋も似たようなものですよ。訪ねてくる友人にいつも叱られています」
慌ててベッドから出ようとした飛鳥を制して、ケネスは足下に注意を払うでもなく、器用に散乱しているあれこれをよけながらベッドまでやってきた。そしてサイドボードにトレイを置くと、窓辺のティーテーブルから、片手で椅子をわずかに持ちあげて運ぶ。その様子をアレンはぼんやりと眺めていて、それから急に「すみません!」と悲鳴のように叫んだかと思うと、そばに駆け寄って椅子を奪いとった。
「気が利かなくて」
「それより、それ――」
ケネスは、今しがたアレンが踏みつけて、ビリリッと音をたてていた床の上の図面を指さした。アレンの目が見開かれ、その手に握られたばかりの椅子が、ガタンッと大きな音を立てて手から滑り落ちる。
「平気、平気だから気にしないで!」
何事かと眺めていた飛鳥は、アレンの顔から血の気が失せ切ってしまう前に、ベッドから落ちそうに身を乗りだして叫んでいた。
各々温かなティーカップを手にほっこりとしたところで、飛鳥はなんとも微妙な笑みを口許にたたえ、思いだしたように呟く。
「ウイスタンでもそうだったけどさ、エリオットでの上下関係も、想像以上に厳しいんだね」
「ええ、まぁ……」アレンは曖昧に笑い、ケネスは少し驚いたように目を見開いて飛鳥を見つめる。けれどすぐに彼は、「椅子の件は、僕が上級生だからではないですよ」と唇を結んだままクスクス笑った。目を細めて、優しげな眼差しでアレンを一瞥する。
「僕は脚が悪いのでね、彼は僕を気遣って重い椅子を運んでくれたんですよ。彼はどちらかというと、あなたの言われるようなエリオットの校風には馴染まなかったんじゃないかな。ね、アレン」
え、と飛鳥とアレン同時に、吐息のような声が漏れていた。だが、その意味するところは違っていただろう。飛鳥は彼の言葉の前半に、アレンは後半にそれぞれ反応してのことだったのだから。
「それに、きみの学年はヨシノにかなり影響されていたようだしね」
「影響って?」
弟の名前に、飛鳥は反射的に訊き返していた。「いえ、そんなことは、」というアレンの弁解がましい声音は、ケネスの凛とした、楽しげな張りのある声にかき消されてしまっている。
「自由奔放。権威なんてものともしない。伝統を重んじるエリオットの校風に、ある種、実力主義を植え付けてくれましたよ、あなたの弟さんは。それを今、さらに洗練して踏襲しているのが、あの子、ド・パルデュです」
「実力主義――。吉野は、エリオットにその流れを作ったのはヘンリーだって言ってたと思う」
褒められているのか、皮肉られているのか、英国人との会話はその辺りの判断が難しい。あるいは、そのどちらも含んでいる、が正解だろうか。ケネスの表情、眼差しからは、これが皮肉だと飛鳥には思えない。けれど――。
影響、実力主義。彼の言うように、吉野がエリオットに何らかの影響を残してきたとすれば、ケネスもまたヘンリーの残していった影響を受け踏襲しているのだろうか。揺るがない、何かを――。
飛鳥はケネスの真意を読み解こうと、一見冷ややかにも見える、彼の透き通る金の瞳の奥の奥をじっと覗きこんでいた。
彼の纏う知的な空気は怜悧で威圧的でさえあるのに、この男は信頼できる、とそう思わせる温もりがある。彼の印象はどこかヘンリーを彷彿とさせる。
だがそんな外面的なものではなく、もっと本質的な、彼がヘンリーから受け継いだものは何なのか、それを飛鳥は見極めたいと思った。
飛鳥は吉野が彼らに似ているとは思わない。にもかかわらず、その何かは同じく吉野へも踏襲されているのではないのか、とそんな気がするのだ。だが飛鳥が、ヘンリーから眼前の彼ケネス、そして吉野、フィリップと、それぞれの姿を思い浮かべるとき、この流れはおそらくケネスにとっては皮肉である、と、自分でもひねくれていると感じられる考えを、打ち消すことができないでいた。
ヘンリーの名前が出たことで、話題は吉野からヘンリーの思い出話に移っていた。彼と同じプレップ・スクールだったというケネスは、サラ以上にヘンリーの幼少期を知っている。年下とはいえケネスもまた、デヴィッドやアーネストのように、ごく幼いころからの親しい間柄なのだということが、朧に飛鳥にも理解できた。
プレップ・スクールでわずか8歳から始まる寮生活。家族のように24時間ともに暮らして。ヘンリーと過ごしてきた時間は、血の繋がるアレンよりもケネスの方がずっと長いのだろう。サラがケネスに感じている親近感は、同じ時間を共有してきた仲間のみに許される連帯感のような独特の空気ゆえなのかもしれないと、飛鳥はふっと何とも言えない疎外感のようなものを感じていたのだ。
飛鳥のなかで、自分自身よりもよほど兄を知っているケネス・アボットに、頬を紅潮させ、瞳を輝かせて思い出話をねだるアレンの姿が、サラに重なる。弟妹から神のごとく崇拝されているヘンリーは、飛鳥には遠い。その関係性は、飛鳥と吉野との間柄ともかけ離れている。理解できないまま目を逸らしてきた彼らの歪な関係性を、ケネスによって炙り出されているような気がしてやるせない。
だが、つい先ほどまで懐疑と緊張に満ちた不安のなかにいたアレンに、この涼しげな佇まいで応える男が、安心をもたらしているのも確かなのだ。解っていてそうしているのか、それとも、ヘンリーが飛鳥に対してそうであったように彼もまた、こうして人心を掴んでいくのだろうか。
飛鳥は、アレンが吉野への不満を一時忘れ、彼らしい喜びでもって満たされているのが嬉しい反面、ここにはいないヘンリーの存在を如実に知らしめるケネスに、一抹の不安を感じたのだった。
「どうぞ、そのままで。僕の部屋も似たようなものですよ。訪ねてくる友人にいつも叱られています」
慌ててベッドから出ようとした飛鳥を制して、ケネスは足下に注意を払うでもなく、器用に散乱しているあれこれをよけながらベッドまでやってきた。そしてサイドボードにトレイを置くと、窓辺のティーテーブルから、片手で椅子をわずかに持ちあげて運ぶ。その様子をアレンはぼんやりと眺めていて、それから急に「すみません!」と悲鳴のように叫んだかと思うと、そばに駆け寄って椅子を奪いとった。
「気が利かなくて」
「それより、それ――」
ケネスは、今しがたアレンが踏みつけて、ビリリッと音をたてていた床の上の図面を指さした。アレンの目が見開かれ、その手に握られたばかりの椅子が、ガタンッと大きな音を立てて手から滑り落ちる。
「平気、平気だから気にしないで!」
何事かと眺めていた飛鳥は、アレンの顔から血の気が失せ切ってしまう前に、ベッドから落ちそうに身を乗りだして叫んでいた。
各々温かなティーカップを手にほっこりとしたところで、飛鳥はなんとも微妙な笑みを口許にたたえ、思いだしたように呟く。
「ウイスタンでもそうだったけどさ、エリオットでの上下関係も、想像以上に厳しいんだね」
「ええ、まぁ……」アレンは曖昧に笑い、ケネスは少し驚いたように目を見開いて飛鳥を見つめる。けれどすぐに彼は、「椅子の件は、僕が上級生だからではないですよ」と唇を結んだままクスクス笑った。目を細めて、優しげな眼差しでアレンを一瞥する。
「僕は脚が悪いのでね、彼は僕を気遣って重い椅子を運んでくれたんですよ。彼はどちらかというと、あなたの言われるようなエリオットの校風には馴染まなかったんじゃないかな。ね、アレン」
え、と飛鳥とアレン同時に、吐息のような声が漏れていた。だが、その意味するところは違っていただろう。飛鳥は彼の言葉の前半に、アレンは後半にそれぞれ反応してのことだったのだから。
「それに、きみの学年はヨシノにかなり影響されていたようだしね」
「影響って?」
弟の名前に、飛鳥は反射的に訊き返していた。「いえ、そんなことは、」というアレンの弁解がましい声音は、ケネスの凛とした、楽しげな張りのある声にかき消されてしまっている。
「自由奔放。権威なんてものともしない。伝統を重んじるエリオットの校風に、ある種、実力主義を植え付けてくれましたよ、あなたの弟さんは。それを今、さらに洗練して踏襲しているのが、あの子、ド・パルデュです」
「実力主義――。吉野は、エリオットにその流れを作ったのはヘンリーだって言ってたと思う」
褒められているのか、皮肉られているのか、英国人との会話はその辺りの判断が難しい。あるいは、そのどちらも含んでいる、が正解だろうか。ケネスの表情、眼差しからは、これが皮肉だと飛鳥には思えない。けれど――。
影響、実力主義。彼の言うように、吉野がエリオットに何らかの影響を残してきたとすれば、ケネスもまたヘンリーの残していった影響を受け踏襲しているのだろうか。揺るがない、何かを――。
飛鳥はケネスの真意を読み解こうと、一見冷ややかにも見える、彼の透き通る金の瞳の奥の奥をじっと覗きこんでいた。
彼の纏う知的な空気は怜悧で威圧的でさえあるのに、この男は信頼できる、とそう思わせる温もりがある。彼の印象はどこかヘンリーを彷彿とさせる。
だがそんな外面的なものではなく、もっと本質的な、彼がヘンリーから受け継いだものは何なのか、それを飛鳥は見極めたいと思った。
飛鳥は吉野が彼らに似ているとは思わない。にもかかわらず、その何かは同じく吉野へも踏襲されているのではないのか、とそんな気がするのだ。だが飛鳥が、ヘンリーから眼前の彼ケネス、そして吉野、フィリップと、それぞれの姿を思い浮かべるとき、この流れはおそらくケネスにとっては皮肉である、と、自分でもひねくれていると感じられる考えを、打ち消すことができないでいた。
ヘンリーの名前が出たことで、話題は吉野からヘンリーの思い出話に移っていた。彼と同じプレップ・スクールだったというケネスは、サラ以上にヘンリーの幼少期を知っている。年下とはいえケネスもまた、デヴィッドやアーネストのように、ごく幼いころからの親しい間柄なのだということが、朧に飛鳥にも理解できた。
プレップ・スクールでわずか8歳から始まる寮生活。家族のように24時間ともに暮らして。ヘンリーと過ごしてきた時間は、血の繋がるアレンよりもケネスの方がずっと長いのだろう。サラがケネスに感じている親近感は、同じ時間を共有してきた仲間のみに許される連帯感のような独特の空気ゆえなのかもしれないと、飛鳥はふっと何とも言えない疎外感のようなものを感じていたのだ。
飛鳥のなかで、自分自身よりもよほど兄を知っているケネス・アボットに、頬を紅潮させ、瞳を輝かせて思い出話をねだるアレンの姿が、サラに重なる。弟妹から神のごとく崇拝されているヘンリーは、飛鳥には遠い。その関係性は、飛鳥と吉野との間柄ともかけ離れている。理解できないまま目を逸らしてきた彼らの歪な関係性を、ケネスによって炙り出されているような気がしてやるせない。
だが、つい先ほどまで懐疑と緊張に満ちた不安のなかにいたアレンに、この涼しげな佇まいで応える男が、安心をもたらしているのも確かなのだ。解っていてそうしているのか、それとも、ヘンリーが飛鳥に対してそうであったように彼もまた、こうして人心を掴んでいくのだろうか。
飛鳥は、アレンが吉野への不満を一時忘れ、彼らしい喜びでもって満たされているのが嬉しい反面、ここにはいないヘンリーの存在を如実に知らしめるケネスに、一抹の不安を感じたのだった。
7
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる