胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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「どうぞ! あ――、すみません。でも、こんな汚いところじゃ落ち着かないよね。部屋、移りましょう」
「どうぞ、そのままで。僕の部屋も似たようなものですよ。訪ねてくる友人にいつも叱られています」

 慌ててベッドから出ようとした飛鳥を制して、ケネスは足下に注意を払うでもなく、器用に散乱しているあれこれをよけながらベッドまでやってきた。そしてサイドボードにトレイを置くと、窓辺のティーテーブルから、片手で椅子をわずかに持ちあげて運ぶ。その様子をアレンはぼんやりと眺めていて、それから急に「すみません!」と悲鳴のように叫んだかと思うと、そばに駆け寄って椅子を奪いとった。

「気が利かなくて」
「それより、それ――」

 ケネスは、今しがたアレンが踏みつけて、ビリリッと音をたてていた床の上の図面を指さした。アレンの目が見開かれ、その手に握られたばかりの椅子が、ガタンッと大きな音を立てて手から滑り落ちる。

「平気、平気だから気にしないで!」
 何事かと眺めていた飛鳥は、アレンの顔から血の気が失せ切ってしまう前に、ベッドから落ちそうに身を乗りだして叫んでいた。




 各々おのおの温かなティーカップを手にほっこりとしたところで、飛鳥はなんとも微妙な笑みを口許にたたえ、思いだしたように呟く。
「ウイスタンでもそうだったけどさ、エリオットでの上下関係も、想像以上に厳しいんだね」
「ええ、まぁ……」アレンは曖昧に笑い、ケネスは少し驚いたように目を見開いて飛鳥を見つめる。けれどすぐに彼は、「椅子の件は、僕が上級生だからではないですよ」と唇を結んだままクスクス笑った。目を細めて、優しげな眼差しでアレンを一瞥する。
「僕は脚が悪いのでね、彼は僕を気遣って重い椅子を運んでくれたんですよ。彼はどちらかというと、あなたの言われるようなエリオットの校風には馴染まなかったんじゃないかな。ね、アレン」

 え、と飛鳥とアレン同時に、吐息のような声が漏れていた。だが、その意味するところは違っていただろう。飛鳥は彼の言葉の前半に、アレンは後半にそれぞれ反応してのことだったのだから。

「それに、きみの学年はヨシノにかなり影響されていたようだしね」
「影響って?」
 弟の名前に、飛鳥は反射的に訊き返していた。「いえ、そんなことは、」というアレンの弁解がましい声音は、ケネスの凛とした、楽しげな張りのある声にかき消されてしまっている。
「自由奔放。権威なんてものともしない。伝統を重んじるエリオットの校風に、ある種、実力主義を植え付けてくれましたよ、あなたの弟さんは。それを今、さらに洗練して踏襲しているのが、あの子、ド・パルデュです」
「実力主義――。吉野は、エリオットにその流れを作ったのはヘンリーだって言ってたと思う」

 褒められているのか、皮肉られているのか、英国人との会話はその辺りの判断が難しい。あるいは、そのどちらも含んでいる、が正解だろうか。ケネスの表情、眼差しからは、これが皮肉だと飛鳥には思えない。けれど――。

 影響、実力主義。彼の言うように、吉野がエリオットに何らかの影響を残してきたとすれば、ケネスもまたヘンリーの残していった影響を受け踏襲しているのだろうか。揺るがない、何かを――。

 飛鳥はケネスの真意を読み解こうと、一見冷ややかにも見える、彼の透き通る金の瞳の奥の奥をじっと覗きこんでいた。
 彼のまとう知的な空気は怜悧で威圧的でさえあるのに、この男は信頼できる、とそう思わせる温もりがある。彼の印象はどこかヘンリーを彷彿とさせる。
 だがそんな外面的なものではなく、もっと本質的な、彼がヘンリーから受け継いだものは何なのか、それを飛鳥は見極めたいと思った。
 飛鳥は吉野が彼らに似ているとは思わない。にもかかわらず、その何かは同じく吉野へも踏襲されているのではないのか、とそんな気がするのだ。だが飛鳥が、ヘンリーから眼前の彼ケネス、そして吉野、フィリップと、それぞれの姿を思い浮かべるとき、この流れはおそらくケネスにとっては皮肉である、と、自分でもひねくれていると感じられる考えを、打ち消すことができないでいた。


 ヘンリーの名前が出たことで、話題は吉野からヘンリーの思い出話に移っていた。彼と同じプレップ・スクールだったというケネスは、サラ以上にヘンリーの幼少期を知っている。年下とはいえケネスもまた、デヴィッドやアーネストのように、ごく幼いころからの親しい間柄なのだということが、朧に飛鳥にも理解できた。
 プレップ・スクールでわずか8歳から始まる寮生活。家族のように24時間ともに暮らして。ヘンリーと過ごしてきた時間は、血の繋がるアレンよりもケネスの方がずっと長いのだろう。サラがケネスに感じている親近感は、同じ時間を共有してきた仲間のみに許される連帯感のような独特の空気ゆえなのかもしれないと、飛鳥はふっと何とも言えない疎外感のようなものを感じていたのだ。

 飛鳥のなかで、自分自身よりもよほど兄を知っているケネス・アボットに、頬を紅潮させ、瞳を輝かせて思い出話をねだるアレンの姿が、サラに重なる。弟妹から神のごとく崇拝されているヘンリーは、飛鳥には遠い。その関係性は、飛鳥と吉野との間柄ともかけ離れている。理解できないまま目を逸らしてきた彼らの歪な関係性を、ケネスによって炙り出されているような気がしてやるせない。



 だが、つい先ほどまで懐疑と緊張に満ちた不安のなかにいたアレンに、この涼しげな佇まいで応える男が、安心をもたらしているのも確かなのだ。解っていてそうしているのか、それとも、ヘンリーが飛鳥に対してそうであったように彼もまた、こうして人心を掴んでいくのだろうか。
 飛鳥は、アレンが吉野への不満を一時忘れ、彼らしい喜びでもって満たされているのが嬉しい反面、ここにはいないヘンリーの存在を如実に知らしめるケネスに、一抹の不安を感じたのだった。
 

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