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九章
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ソファーで寝ていた吉野の鼻先が「いい加減に起きなよ!」と、ぎゅっとつままれた。
ぱちり、と瞼が開く。こんなことをするのは、やはりデヴィッドだ。だが、「なんだ、ずいぶん疲れた顔してるな、どうしたの?」と、記憶とは違う彼の顔色に、つい気遣う言葉がでていた。
起きぬけの吉野に逆に心配され、デヴィッドは額にかかるブルネットの巻き毛をかきあげて、くくくっと喉を鳴らして笑う。寝起きの悪い彼に反撃されるものと身構えて待っていたのに、とんだ肩透かしだ。
「そんな酷い顔してるかなぁ? 仮眠はとったんだけどねぇ。いつ帰ってきたのか知らないけれど、きみの方は色艶いいねぇ! この悪ガキが!」
ペシッと吉野の額を叩く。吉野は眉をしかめ、背をよじって除けたのだが、できた隙間にデヴィッドは割り込むように腰をすえ、さらによいしょ、と吉野の半身を押して起き上がらせた。
「ほら、起きなって。ぐうたら寝てる暇があるんならちょっと見てほしいものがあるんだ」
「あ、サンキュ。お茶、淹れてくれてたのか」
「それ、僕のだよ。でもいいよ、飲んで。カップをもう一つ取ってくるか」
「デヴィ、なんか食いものも」
「言わなくても分かってるって!」
デヴィッドは片手をひらひらと振って、ドアの向こうに消えた。
吉野は湯気の立つ紅茶をカップにゆっくりと注ぎ、ぼんやりと部屋を見回す。
白い壁。セピア色の毛足の長い絨毯。朝方帰ってきて、同じ色のソファーに寝転がって眠っていた。英国に来たばかりの頃に、時間が巻き戻ったような気がしていたのだ。
「はい、お待たせ。僕のお昼用だったんだけどね、食欲がないんだ。全部たべちゃっていいよ」
「げ、甘いのばっかじゃんかよ!」
ブツブツ文句を言いながら、吉野は眼前に置かれたアイシングのたっぷりとかかったドライフルーツ入り菓子パンにかぶりつく。
「昼メシぐらい、もっとマシなもの食えよな!」
「じゃあさ、あとで何か作ってよ」
「え、俺、こんなもんで買収されたってことなのか?」
「フェアトレードだよ!」
デヴィッドはにこにこしながら、頬を膨らませている吉野を眺める。眉をしかめて膨れてはいるけれど、それはきっと、この交換条件のせいではなく甘すぎる菓子パンのせいだろう。とはいえ、疲れすぎて食欲がないのは本当なのだ。何か、を具体的にするなら、昼食ではなく夕食がいい。それまでは、もう少し作業を進めたい、とデヴィッドは新しく持ってきたカップに吉野が淹れてくれたお茶にも気がない様子でぼんやりとしている。
「おい、デヴィ?」
「なぁにー?」
「見てほしいもんって?」
ふっとデヴィッドは視点を吉野に、そしてローテーブルの上の皿に移す。もうすっかり空になっている。
「こんな甘いの、よく全部食べたねぇ」と呆れたように呟き、「じゃ、行こうか」とすっくと立ちあがる。
「上の部屋?」
「そ、春のイベント向けにね。今回はアスカちゃんの手を借りられないからさぁ、もう、みんなキリキリしてるんだ。ヘンリーは完成するまで見てもくれないしさ。それだけ信頼されてるってのも、プレッシャーだなぁ」
吐息交じりに苦笑しながら、デヴィッドはヘーゼルの瞳をくるくると動かしている。こうして話している間も、頭の中ではイメージを追い続けているのだろう。吉野は見慣れている彼とは違う面を見せているデヴィッドに、「そういえば、こうして逢うのって、見本市以来だっけ」と納得したように呟いた。その米国での見本市でも、ゆっくり話す暇などなかったのだ。
「そうだよ! 2か月ぶり。なんだかんだ、バタバタしてたからねぇ」
階段を上がる間も、デヴィッドは軽口を叩きながらも、頭を何かに占領されているような厳しい顔つきをしている。
「きみはもう、この部屋を使った?」デヴィッドが白く塗装されたドアの真鍮のドアノブに手をかけ、ふと吉野を振り返る。
「うん。ヘンリーのアイデアなんだって? 驚いたよ」
「こんな使い方ができるなんて、僕もびっくり! ヘンリーの思いつきを即座に実現できるアスカちゃんも、やっぱり凄いよねぇ」
二人が足を踏みいれた部屋には、家具は何もない。かつては窓のあった位置も、平坦に潰されている。四角い箱状の白一色の部屋だ。その中央にノートパソコンが一台、ぽつんと置かれている。デヴィッドはその手前に腰をすえ、あぐらを組んだ。吉野はドアに寄りかかり、さぁ、何がでてくるのか、とじっと待っている。
「ヨシノ、お帰り。よかった、きみが無事で――」
凝視していたはずの、この白い空間で、アレンが艶やかに微笑んでいる。彼は、吉野に向かって、ゆっくりと、しなやかな手を伸ばした。
ぱちり、と瞼が開く。こんなことをするのは、やはりデヴィッドだ。だが、「なんだ、ずいぶん疲れた顔してるな、どうしたの?」と、記憶とは違う彼の顔色に、つい気遣う言葉がでていた。
起きぬけの吉野に逆に心配され、デヴィッドは額にかかるブルネットの巻き毛をかきあげて、くくくっと喉を鳴らして笑う。寝起きの悪い彼に反撃されるものと身構えて待っていたのに、とんだ肩透かしだ。
「そんな酷い顔してるかなぁ? 仮眠はとったんだけどねぇ。いつ帰ってきたのか知らないけれど、きみの方は色艶いいねぇ! この悪ガキが!」
ペシッと吉野の額を叩く。吉野は眉をしかめ、背をよじって除けたのだが、できた隙間にデヴィッドは割り込むように腰をすえ、さらによいしょ、と吉野の半身を押して起き上がらせた。
「ほら、起きなって。ぐうたら寝てる暇があるんならちょっと見てほしいものがあるんだ」
「あ、サンキュ。お茶、淹れてくれてたのか」
「それ、僕のだよ。でもいいよ、飲んで。カップをもう一つ取ってくるか」
「デヴィ、なんか食いものも」
「言わなくても分かってるって!」
デヴィッドは片手をひらひらと振って、ドアの向こうに消えた。
吉野は湯気の立つ紅茶をカップにゆっくりと注ぎ、ぼんやりと部屋を見回す。
白い壁。セピア色の毛足の長い絨毯。朝方帰ってきて、同じ色のソファーに寝転がって眠っていた。英国に来たばかりの頃に、時間が巻き戻ったような気がしていたのだ。
「はい、お待たせ。僕のお昼用だったんだけどね、食欲がないんだ。全部たべちゃっていいよ」
「げ、甘いのばっかじゃんかよ!」
ブツブツ文句を言いながら、吉野は眼前に置かれたアイシングのたっぷりとかかったドライフルーツ入り菓子パンにかぶりつく。
「昼メシぐらい、もっとマシなもの食えよな!」
「じゃあさ、あとで何か作ってよ」
「え、俺、こんなもんで買収されたってことなのか?」
「フェアトレードだよ!」
デヴィッドはにこにこしながら、頬を膨らませている吉野を眺める。眉をしかめて膨れてはいるけれど、それはきっと、この交換条件のせいではなく甘すぎる菓子パンのせいだろう。とはいえ、疲れすぎて食欲がないのは本当なのだ。何か、を具体的にするなら、昼食ではなく夕食がいい。それまでは、もう少し作業を進めたい、とデヴィッドは新しく持ってきたカップに吉野が淹れてくれたお茶にも気がない様子でぼんやりとしている。
「おい、デヴィ?」
「なぁにー?」
「見てほしいもんって?」
ふっとデヴィッドは視点を吉野に、そしてローテーブルの上の皿に移す。もうすっかり空になっている。
「こんな甘いの、よく全部食べたねぇ」と呆れたように呟き、「じゃ、行こうか」とすっくと立ちあがる。
「上の部屋?」
「そ、春のイベント向けにね。今回はアスカちゃんの手を借りられないからさぁ、もう、みんなキリキリしてるんだ。ヘンリーは完成するまで見てもくれないしさ。それだけ信頼されてるってのも、プレッシャーだなぁ」
吐息交じりに苦笑しながら、デヴィッドはヘーゼルの瞳をくるくると動かしている。こうして話している間も、頭の中ではイメージを追い続けているのだろう。吉野は見慣れている彼とは違う面を見せているデヴィッドに、「そういえば、こうして逢うのって、見本市以来だっけ」と納得したように呟いた。その米国での見本市でも、ゆっくり話す暇などなかったのだ。
「そうだよ! 2か月ぶり。なんだかんだ、バタバタしてたからねぇ」
階段を上がる間も、デヴィッドは軽口を叩きながらも、頭を何かに占領されているような厳しい顔つきをしている。
「きみはもう、この部屋を使った?」デヴィッドが白く塗装されたドアの真鍮のドアノブに手をかけ、ふと吉野を振り返る。
「うん。ヘンリーのアイデアなんだって? 驚いたよ」
「こんな使い方ができるなんて、僕もびっくり! ヘンリーの思いつきを即座に実現できるアスカちゃんも、やっぱり凄いよねぇ」
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