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九章
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「まーた、あいつが良からぬことを企んでやがる」
白くけぶるベールのような乳香を手を返して払うと、吉野はサウードをふくれっ面で見すえた。不満げに深く息をつき、柘榴色の絨毯に滑るように腰をおろす。胡坐を組んでくつろいでいたサウードは、そんな彼を喉を鳴らして笑った。
「あいつって、ド・パルデュ、それともアレンかい?」
渋顔のまま応えのないことから察して、サウードはまずはデーツの皿を勧め、小さな金色のカップに手ずからアラビックコーヒーを淹れてやりながら、少し揶揄うような口調で続ける。
「きみのいない間、アレンはアボット寮長と過ごすことが多かったようだね。もっともそれは、きみのお兄さんが、僕たちの人工知能の学習を止めておられたから、彼にしても暇をもてあまして――、」
「ああ、聴いた。なんだかんだ立て込んでるからなぁ、飛鳥はさ」
吉野はいったん言葉を切って、カルダモンの強く香る琥珀色のコーヒーをずずっと啜る。そして肩の力の抜けた、ほわりと軽い息をついた。
「旨いな。大して空けてたわけじゃないのにさ、久しぶりにお前のコーヒーを飲んだ気がする。向こうじゃ、自分で淹れてたからかな。毎朝、ヘンリーと顔突き合わせてメシ食って、もう勘弁してくれって感じだった」
おどけたように肩をすくめてみせ、吉野はにっと笑顔を見せた。
アリーを筆頭とするサウードの付けた護衛を、吉野は勝手に本国へと送り返したのだ。だから望む時にアラビックコーヒーを淹れてくれるような従卒は、ロンドンでの彼の側にはいなかった。アリーの近衛師団長就任式のためという理由は、その事実を知って眉をひそめるに違いないサウードへの、もっともらしい後付けにすぎない。あちらの事情もあるにしろ、吉野はただ、ヘンリーの在宅するロンドンのタウンハウスに、サウードの配下を大っぴらに出入りさせる気になれなかったのだ。警備の穴は、ルベリーニに埋めさせればいい。その方がヘンリーを煩わせることもない。そして吉野自身をも。そう考えてのことだった。だが、
「そう思っていたのはきみではなく、ヘンリー卿の方じゃないの?」
ぼやく吉野を、サウードはくすくすと笑いながらからかった。吉野は予定の1週間を優に超えた時間を、けして反りが合うとはいえないヘンリーと過ごしていたのだ。吉野に思惑があるにしろ、つき合わされるヘンリーの方がよほど息が詰まるのではないか、と想像せずにはいられない。
「かもな。さっさと帰れ、って追い返されたんだ。あーあ、こんな我慢して、あいつとメシ食ってさ、エリオットにいた頃みたいにいい子でいてやったっていうのにさ、なーんにも教えてくれなかった。あいつ、ホント、喰えねぇわ。兄弟揃ってさ!」
また仏頂面に戻った吉野のカップに、サウードはコーヒーを継ぎ足した。こうして、客が満足してカップを左右に振るまで、継ぎ足し続けるのがアラビックコーヒーの作法なのだ。
「エリオットの頃って、まさかロンドンでも窓から逃げだして、夜遊びに出かけてたの? ――護衛もつけずに!」
ポットを下ろして顔をあげたサウードは、軽く面をしかめていた。
「まさか、そんなことするかよ! 必要もないしさ」と、吉野は唇を尖らせる。「それに護衛はさ、ルベリーニの奴らが勝手について来るからさ」
その彼らを信用していないのだ、とでも言いたげに向けられている漆黒の瞳を見つめ返し、目を細めてにかっと笑みを結んでみせる。
「そんな心配するなよ。何もなかったって。言ったろ?」
サウードはその無邪気な笑みから視線を外し、自身は自嘲的に口許を歪めた。そして、黒々とした長い睫毛を伏せると、やるせなげに呟いた。
「――きみ自身は束縛されるのが何よりも嫌いなくせに、こんなことで、こんなふうに、彼や――、僕を、きみに縛りつけるんだね」
こんな些末事を責めようなどと、思ってはいなかったのに――。
零れ落ちた言葉を取り戻そうとするかのように大きく息を吸ったサウードを見据えて、吉野は、そんな恨み言をカラカラと笑い飛ばした。
「そうかもしれないな。俺、独占欲強いもん。好きな奴には、いつだって俺のことを思っていてほしいからな」
侵攻して、占拠して、支配するために――。
サウードは皮肉げに口許を緩め、クックッと声を立てて肩を震わせる。
それだけの見返りがあるのだ、支配を許すということには。
己を信じられなかったサウードには、信じることのできるものを信じるしかなかったのだから。そしてその期待を、吉野は決して裏切らなかった。時折今回のように、理由を告げることなく自由に羽ばたき、サウードを心配で殺しそうになるだけで――。
「それで、彼は、アレンはどうしてきみを煩わせてるって?」
自分はそれでいい、納得のうえのことなのだから。だがもう一方の彼は――。自分のように、望んでこの状況に甘んじているわけではないだろう、とサウードは憂わずにはいられない。
「ん、ああ、あいつな」
吉野は口をへの字に曲げて視線を天に向けた。サウードも釣られてその視線の先へと目をやった。とはいえ、そこには白い漆喰天井が広がるばかりだ。
「俺が気になるのはな、あいつ――、よりもさ、ケネスなんだ。だからわざわざヘンリーん家行って、あれこれ水向けてみたんだけどな。まるで判らなかった。なぁ、なんでケネスはここへ来たんだと思う?」
「なんで、って。きみが話してくれたじゃないか。ド・パルデュのブラッドリーへの制裁を止めるためじゃないのかい?」
「そんなもの、ヘンリーが一声かければ済むことだろ。だからさ、そんな体のいい話じゃなくてさ。ヘンリーが、わざわざ、ケネス・アボットをここへよこさなきゃならない理由だよ。いくら訊いても教えてくれないんだ。やっぱ、アレン絡みなのかなぁ。なんかさ、喉元に小骨でも引っかかってるみたいでさ、すっきりしないんだ」
くるりと目線をサウードに移した吉野は、膝の上に肘をついて、またふくれっ面に戻っている。まるで謎解きに夢中になっている子供のようだな、とサウードはつい口許を緩ませて、クスクス笑ってしまっていた。
白くけぶるベールのような乳香を手を返して払うと、吉野はサウードをふくれっ面で見すえた。不満げに深く息をつき、柘榴色の絨毯に滑るように腰をおろす。胡坐を組んでくつろいでいたサウードは、そんな彼を喉を鳴らして笑った。
「あいつって、ド・パルデュ、それともアレンかい?」
渋顔のまま応えのないことから察して、サウードはまずはデーツの皿を勧め、小さな金色のカップに手ずからアラビックコーヒーを淹れてやりながら、少し揶揄うような口調で続ける。
「きみのいない間、アレンはアボット寮長と過ごすことが多かったようだね。もっともそれは、きみのお兄さんが、僕たちの人工知能の学習を止めておられたから、彼にしても暇をもてあまして――、」
「ああ、聴いた。なんだかんだ立て込んでるからなぁ、飛鳥はさ」
吉野はいったん言葉を切って、カルダモンの強く香る琥珀色のコーヒーをずずっと啜る。そして肩の力の抜けた、ほわりと軽い息をついた。
「旨いな。大して空けてたわけじゃないのにさ、久しぶりにお前のコーヒーを飲んだ気がする。向こうじゃ、自分で淹れてたからかな。毎朝、ヘンリーと顔突き合わせてメシ食って、もう勘弁してくれって感じだった」
おどけたように肩をすくめてみせ、吉野はにっと笑顔を見せた。
アリーを筆頭とするサウードの付けた護衛を、吉野は勝手に本国へと送り返したのだ。だから望む時にアラビックコーヒーを淹れてくれるような従卒は、ロンドンでの彼の側にはいなかった。アリーの近衛師団長就任式のためという理由は、その事実を知って眉をひそめるに違いないサウードへの、もっともらしい後付けにすぎない。あちらの事情もあるにしろ、吉野はただ、ヘンリーの在宅するロンドンのタウンハウスに、サウードの配下を大っぴらに出入りさせる気になれなかったのだ。警備の穴は、ルベリーニに埋めさせればいい。その方がヘンリーを煩わせることもない。そして吉野自身をも。そう考えてのことだった。だが、
「そう思っていたのはきみではなく、ヘンリー卿の方じゃないの?」
ぼやく吉野を、サウードはくすくすと笑いながらからかった。吉野は予定の1週間を優に超えた時間を、けして反りが合うとはいえないヘンリーと過ごしていたのだ。吉野に思惑があるにしろ、つき合わされるヘンリーの方がよほど息が詰まるのではないか、と想像せずにはいられない。
「かもな。さっさと帰れ、って追い返されたんだ。あーあ、こんな我慢して、あいつとメシ食ってさ、エリオットにいた頃みたいにいい子でいてやったっていうのにさ、なーんにも教えてくれなかった。あいつ、ホント、喰えねぇわ。兄弟揃ってさ!」
また仏頂面に戻った吉野のカップに、サウードはコーヒーを継ぎ足した。こうして、客が満足してカップを左右に振るまで、継ぎ足し続けるのがアラビックコーヒーの作法なのだ。
「エリオットの頃って、まさかロンドンでも窓から逃げだして、夜遊びに出かけてたの? ――護衛もつけずに!」
ポットを下ろして顔をあげたサウードは、軽く面をしかめていた。
「まさか、そんなことするかよ! 必要もないしさ」と、吉野は唇を尖らせる。「それに護衛はさ、ルベリーニの奴らが勝手について来るからさ」
その彼らを信用していないのだ、とでも言いたげに向けられている漆黒の瞳を見つめ返し、目を細めてにかっと笑みを結んでみせる。
「そんな心配するなよ。何もなかったって。言ったろ?」
サウードはその無邪気な笑みから視線を外し、自身は自嘲的に口許を歪めた。そして、黒々とした長い睫毛を伏せると、やるせなげに呟いた。
「――きみ自身は束縛されるのが何よりも嫌いなくせに、こんなことで、こんなふうに、彼や――、僕を、きみに縛りつけるんだね」
こんな些末事を責めようなどと、思ってはいなかったのに――。
零れ落ちた言葉を取り戻そうとするかのように大きく息を吸ったサウードを見据えて、吉野は、そんな恨み言をカラカラと笑い飛ばした。
「そうかもしれないな。俺、独占欲強いもん。好きな奴には、いつだって俺のことを思っていてほしいからな」
侵攻して、占拠して、支配するために――。
サウードは皮肉げに口許を緩め、クックッと声を立てて肩を震わせる。
それだけの見返りがあるのだ、支配を許すということには。
己を信じられなかったサウードには、信じることのできるものを信じるしかなかったのだから。そしてその期待を、吉野は決して裏切らなかった。時折今回のように、理由を告げることなく自由に羽ばたき、サウードを心配で殺しそうになるだけで――。
「それで、彼は、アレンはどうしてきみを煩わせてるって?」
自分はそれでいい、納得のうえのことなのだから。だがもう一方の彼は――。自分のように、望んでこの状況に甘んじているわけではないだろう、とサウードは憂わずにはいられない。
「ん、ああ、あいつな」
吉野は口をへの字に曲げて視線を天に向けた。サウードも釣られてその視線の先へと目をやった。とはいえ、そこには白い漆喰天井が広がるばかりだ。
「俺が気になるのはな、あいつ――、よりもさ、ケネスなんだ。だからわざわざヘンリーん家行って、あれこれ水向けてみたんだけどな。まるで判らなかった。なぁ、なんでケネスはここへ来たんだと思う?」
「なんで、って。きみが話してくれたじゃないか。ド・パルデュのブラッドリーへの制裁を止めるためじゃないのかい?」
「そんなもの、ヘンリーが一声かければ済むことだろ。だからさ、そんな体のいい話じゃなくてさ。ヘンリーが、わざわざ、ケネス・アボットをここへよこさなきゃならない理由だよ。いくら訊いても教えてくれないんだ。やっぱ、アレン絡みなのかなぁ。なんかさ、喉元に小骨でも引っかかってるみたいでさ、すっきりしないんだ」
くるりと目線をサウードに移した吉野は、膝の上に肘をついて、またふくれっ面に戻っている。まるで謎解きに夢中になっている子供のようだな、とサウードはつい口許を緩ませて、クスクス笑ってしまっていた。
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