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九章
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トンッ――。
心地良い、清楚な音が響く。
ついで、次の矢が番えられる。
艶やかな檜の床に立つ吉野の弓弦がビンと鳴り、放たれた矢が真っすぐに飛んでいくさまを、ウィリアムは、杉の腰板をぐるりと張った後方の漆喰壁にもたれて眺めている。
残心をとり終えた吉野が、呼吸を整え静かに両手を腰に戻す。的から正面へ顔を戻し、ようやくくるりと振り返る。
「皆中、見事ですね」
拍手を響かせるウィリアムに、吉野は意外そうに小首を傾げている。
「早起きだな。朝っぱらからこんな所まで来るなんて、急ぎ?」
「いえ、特には」
「じゃ、何? 中てに来たのか?」
大真面目な顔で問われ、ウィリアムはふわりと口許をほころばせた。
何の用か、と尋ねられるまでもなく、話すべきことはいくらでもあった。そのためにわざわざここへ来た。それなのに、この静謐な空間で、出会ったばかりの頃のように和装で弓引くすっと伸びた背中を眺めているうちに、彼のもっとも大切な、今、ここという特別な時を煩わせることに躊躇いを生じた。
だが、サウードが吉野への贈り物として建造したこの弓道場は、彼らの居住する一角からはかなり離れた場所にある。ちょっと覗きにきた、などという言い訳では無粋だろう。
「そうですね。久しぶりに、一射だけ」と、ウィリアムは、吉野の手から彼の弓を借りうけた。
生意気で反発ばかりしていた少年がこうも大きく育ち、いつの間にか自分と肩を並べるほどになったのだ。その感慨深い喜びを、そのまま矢にのせて放つのもいい。
親指に銀が鈍く光り、矢がひゅんと飛ぶ。
「一射――、次はない、か」吉野は声にすることなく呟いた。
一射絶命、という言葉がある。弓道競技では2本の矢を連続して射るが、2本目があるとは思わず、1本目の矢に命をかけるほどの集中力を持て、という教えだ。
だが吉野の知るウィリアムの弓は、仕損じたら自分が殺られる、だから一射で仕留めなければならない、とそんな意味合いを教えてくれた。初めて彼の行射を目にした時からずっと変わることなく。
文字通り、命を込めた射――。
「その指輪、まだ持ってたんだな」
的中を見届けてからかけられた声に、「御守りなんですよ」とウィリアムはにこやかに頬を緩める。
「殺すための弓だからか?」吉野は伏せがちの顔に唇の端だけを上げて、ぼそりと続けた。だがすぐに大きく伸びをして笑うと、口調を明るく転じて話題を変えた。
「なぁ、あの国防省のエリートがヘンリーと仲いいのって、不思議だな。幼馴染だからか? 見た目の印象は水と油なのにな。すっげ違和感あるよ。でもさぁ、俺の知ってるあいつの友だちって、そんなのばっかだな」
ヘンリーと親しい仲だと聞かされてしっくりと納得できたのは、ラザフォード兄弟と――、ケネス・アボット。それ以外は利害関係か、一方的に慕われているだけか。エリオットで噂に聞いた通り、ヘンリーはもっとも崇拝されているにも拘わらず、数えるほどしか友人のいない孤高の英雄だった。
だが今回同行させることになったエドワード・グレイは、そんな連中とはまた違った関係性にあるように、吉野には思えた。一緒にいるところを想像できないほど異質に感じるのに、そんなことを問題だとは感じさせないほど近しい。ヘンリーに対する彼の信頼が、吉野に対しての警戒をも緩ませてしまっているような、そんな気安さをエドワードに感じていた。
けれど、だからといってその逆はあり得ない。友だちの友だちは皆友達だなどと容易くはいくはずがないうえに、吉野は、ヘンリーを友人だなどと思ったことすら一度もない。吉野にとってあの男は、ヘンリーの友人だという以上に、英国国防省の諜報員にすぎない。そして吉野は諜報員という輩が、この世の何よりも嫌いだった。
「懐の深いお方ですから」
ウィリアムはそんな吉野のぼやきとも聞こえるかまかけをかわして、微笑する。彼の本来の主人がどんな基準で友人を選ぶのかなど、吉野に教えるようなことではないのだ。
「だから庇ってやろうとしたの? これ以上、失態の責任を負わされることのないようにって。そんな心配はいらないよ。今回は前みたいな、あんな使い方はしないからさ、丁重にもてなしてさしあげるよ。大事な証人になってくれる客なんだしさ」
「その役目を担う人材は、すでに十分だと思いますが」
「うん、英国に対してはな。そうじゃなくて――」
「ヘンリー様に対して、ですか?」
「どこまで見せるか、まだ決めかねてるんだ。俺、今まで自分のことしか考えてこなかったからさ、どうすればああいう奴の信頼を得られるのか判らないんだよ」
射場を後にして杉の引き戸を滑らせると、そこからはもう大理石の回廊だ。袴の素足にサンダルをひっかけ、吉野はぺたぺたと足を進める。ウィリアムは、吉野の口にした言葉を意外感でもって受け止め、安易な返事をできないでいた。
もとより返事を期待していたわけでもない吉野は、驚きを隠そうともしないウィリアムにおざなりに笑いかけ、「メシ、まだだろ? 食いながらでいいか? 片づけなきゃいけないことが山積みだぞ」と彼方に向かって顎をしゃくった。
心地良い、清楚な音が響く。
ついで、次の矢が番えられる。
艶やかな檜の床に立つ吉野の弓弦がビンと鳴り、放たれた矢が真っすぐに飛んでいくさまを、ウィリアムは、杉の腰板をぐるりと張った後方の漆喰壁にもたれて眺めている。
残心をとり終えた吉野が、呼吸を整え静かに両手を腰に戻す。的から正面へ顔を戻し、ようやくくるりと振り返る。
「皆中、見事ですね」
拍手を響かせるウィリアムに、吉野は意外そうに小首を傾げている。
「早起きだな。朝っぱらからこんな所まで来るなんて、急ぎ?」
「いえ、特には」
「じゃ、何? 中てに来たのか?」
大真面目な顔で問われ、ウィリアムはふわりと口許をほころばせた。
何の用か、と尋ねられるまでもなく、話すべきことはいくらでもあった。そのためにわざわざここへ来た。それなのに、この静謐な空間で、出会ったばかりの頃のように和装で弓引くすっと伸びた背中を眺めているうちに、彼のもっとも大切な、今、ここという特別な時を煩わせることに躊躇いを生じた。
だが、サウードが吉野への贈り物として建造したこの弓道場は、彼らの居住する一角からはかなり離れた場所にある。ちょっと覗きにきた、などという言い訳では無粋だろう。
「そうですね。久しぶりに、一射だけ」と、ウィリアムは、吉野の手から彼の弓を借りうけた。
生意気で反発ばかりしていた少年がこうも大きく育ち、いつの間にか自分と肩を並べるほどになったのだ。その感慨深い喜びを、そのまま矢にのせて放つのもいい。
親指に銀が鈍く光り、矢がひゅんと飛ぶ。
「一射――、次はない、か」吉野は声にすることなく呟いた。
一射絶命、という言葉がある。弓道競技では2本の矢を連続して射るが、2本目があるとは思わず、1本目の矢に命をかけるほどの集中力を持て、という教えだ。
だが吉野の知るウィリアムの弓は、仕損じたら自分が殺られる、だから一射で仕留めなければならない、とそんな意味合いを教えてくれた。初めて彼の行射を目にした時からずっと変わることなく。
文字通り、命を込めた射――。
「その指輪、まだ持ってたんだな」
的中を見届けてからかけられた声に、「御守りなんですよ」とウィリアムはにこやかに頬を緩める。
「殺すための弓だからか?」吉野は伏せがちの顔に唇の端だけを上げて、ぼそりと続けた。だがすぐに大きく伸びをして笑うと、口調を明るく転じて話題を変えた。
「なぁ、あの国防省のエリートがヘンリーと仲いいのって、不思議だな。幼馴染だからか? 見た目の印象は水と油なのにな。すっげ違和感あるよ。でもさぁ、俺の知ってるあいつの友だちって、そんなのばっかだな」
ヘンリーと親しい仲だと聞かされてしっくりと納得できたのは、ラザフォード兄弟と――、ケネス・アボット。それ以外は利害関係か、一方的に慕われているだけか。エリオットで噂に聞いた通り、ヘンリーはもっとも崇拝されているにも拘わらず、数えるほどしか友人のいない孤高の英雄だった。
だが今回同行させることになったエドワード・グレイは、そんな連中とはまた違った関係性にあるように、吉野には思えた。一緒にいるところを想像できないほど異質に感じるのに、そんなことを問題だとは感じさせないほど近しい。ヘンリーに対する彼の信頼が、吉野に対しての警戒をも緩ませてしまっているような、そんな気安さをエドワードに感じていた。
けれど、だからといってその逆はあり得ない。友だちの友だちは皆友達だなどと容易くはいくはずがないうえに、吉野は、ヘンリーを友人だなどと思ったことすら一度もない。吉野にとってあの男は、ヘンリーの友人だという以上に、英国国防省の諜報員にすぎない。そして吉野は諜報員という輩が、この世の何よりも嫌いだった。
「懐の深いお方ですから」
ウィリアムはそんな吉野のぼやきとも聞こえるかまかけをかわして、微笑する。彼の本来の主人がどんな基準で友人を選ぶのかなど、吉野に教えるようなことではないのだ。
「だから庇ってやろうとしたの? これ以上、失態の責任を負わされることのないようにって。そんな心配はいらないよ。今回は前みたいな、あんな使い方はしないからさ、丁重にもてなしてさしあげるよ。大事な証人になってくれる客なんだしさ」
「その役目を担う人材は、すでに十分だと思いますが」
「うん、英国に対してはな。そうじゃなくて――」
「ヘンリー様に対して、ですか?」
「どこまで見せるか、まだ決めかねてるんだ。俺、今まで自分のことしか考えてこなかったからさ、どうすればああいう奴の信頼を得られるのか判らないんだよ」
射場を後にして杉の引き戸を滑らせると、そこからはもう大理石の回廊だ。袴の素足にサンダルをひっかけ、吉野はぺたぺたと足を進める。ウィリアムは、吉野の口にした言葉を意外感でもって受け止め、安易な返事をできないでいた。
もとより返事を期待していたわけでもない吉野は、驚きを隠そうともしないウィリアムにおざなりに笑いかけ、「メシ、まだだろ? 食いながらでいいか? 片づけなきゃいけないことが山積みだぞ」と彼方に向かって顎をしゃくった。
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