霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅰ.秋の始まり

2 ピアス

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 九月に入り大学進学準備ファウンデーションコースが始まっても、僕の引っ越し先は決まらなかった。
 掲示板には、あのメモが貼られたまま。僕の書いた名前の下には、ズラズラと予約名が並んでいる。もう誰かに決まってしまっただろうか――。そのメモを見るたびに少し恨めしい気分になる。

 まぁ、いいや。おかげであんな綺麗な人を見れたのだもの。

 僕の頭は都合よく話をすり替える。でも、あれから何度かあのカフェテリアに行ってはみたけれど、あの彼には遇えないまま。返すあてのない万年筆は、ずっとポケットの中。



 そんなこんなしている間にも、秋は駆け足で忍びよる。
 夜のあまりの寒さに、早めに日本から送ってもらった冬物衣類の中からコートを引っ張りだして、シーツの上にかけて寝る始末だ。本気で部屋を探さなければ、このままでは僕は凍え死にしてしまうに違いない。

 というわけで、掲示板に貼られている様々なメモに書かれたクセ字に目を凝らしているのだ。けれどやはり、あれほどの条件の部屋は見つからない。
 あの後も、いくつか別の物件を当たってはみたけれど。夜中まで喧しいパブの二階だとか、同居人が僕を頭のてっぺんからつま先までニヤニヤしながら眺めまわすような、とんでもなく気持ち悪い奴だったりで。僕の目はやはり、あの一番最初に見つけたメモの上で止まり、ため息を誘われる。

 と、しなやかな指が伸びてきて、そのメモをピッとちぎり取った。そして、別のメモをそこに留める。
 僕は何げにそこに書かれた文字に目を走らせる。
 内容は同じだ。ただし、綺麗好き、几帳面の後に、「時間厳守。飲酒喫煙禁止。寡黙な男性希望」と、条件項目が増えている!

 僕は慌てて振り返った。

「すみません!」

 もうすでに廊下からエントランスホールに向かおうとしている、白いシャツの背中に声を張りあげる。

「この部屋借ります!」

 ゆるりと振り返ったその顔に、心臓がドクンと跳ねた。そのままトクトクと全力疾走を始めている。言葉が消えた。頭の中、真っ白だ。



 間を置いて、彼は綺麗に整った眉をよせて、あの時と同じように僕を睨めつけた。

「失礼。中学生は募集していないんだ」

 くるりと踵を返す。

 待って!

 僕は弾かれたように彼を追った。

「僕は19だ! もうじき20はたちになる。大学進学準備ファウンデーションコースの学生で名前は比良坂晃ひらさかあきら、日本人だよ! あの募集要項の条件を全部満たしている!」

 必死でゆったりとした彼のシャツの腕の部分を掴んでいた。緊張のあまり早口になっていた。舌を噛みそうだった。声が震えていた。

 彼は立ち止まってくれた。眉は、信じられないというふうに、ひそめられたままだったけれど。すぐにさらりと、僕の手をさりげなく振り払いはしたけれど。

 疑り深いその瞳に応えるために、「学生証、それともパスポートを見る?」ダメだしのひと声だ。でも、僕を見下ろす彼の瞳は、豊かに茂る森の緑で、また僕は、ぽーと見とれてしまう。

 彼はどうしようかと迷う素振りで、左手で耳にかかる柔らかな髪をかきあげる。その時飛びこんできた彼の形のいい耳に、僕の目は文字通り吸いよせられ、釘づけられてしまった。

 だって、彼の耳――、そこに、蛸が巻きついていたんだ。
 銀色に輝く頭の長い小さな蛸が、柔らかそうな耳朶みみたぶから長い腕を輪郭に沿わせて、絡みつくように。

 耳に蛸なんて……。耳にタコ……。

 僕は我慢できずに笑いだしてしまった。
 彼の面が訝しそうに歪んだ。そしてすぐに不快感を露わにして、僕を睨みつけた。

 マズい。
 慌てて掌で口許をおおい隠す。

 でも、タコが……。あの銀製の蛸のピアスが、あまりにも秀逸すぎて……。


 笑いが止まらなくなってしまった僕を、透きとおる森の色彩を湛える瞳が、冷ややかに見つめていた。





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