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Ⅰ.秋の始まり
6 引っ越し
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なんとかこの過酷な使命をやり遂げた。終わった時には冗談じゃなく、もう一度風呂に入りたかったよ。つい、自分の手を臭いでみそうになるくらい――。
だけど、今日のうちにここに移れることになった。当然だ! こんなに頑張ったんだから。ピカピカに光るシンクを見てマリーは歓声をあげ、僕に抱きついて頬にキスしてきた。いくらアルビーはいないからって、まずいんじゃないの? これから一緒に住むっていうのに変な誤解をされるのは嫌だ。そう告げると、彼女はきょとんとした顔をして、それから腹を抱えて大笑いした。
「私とアルは恋人でもなんでもないわよ! 兄妹みたいなものだもの!」
そしてひとしきり笑い終えると、マリーは吐息を漏らして言いたした。
「生まれた時から一緒に暮らしているのよ。今さらよ」
だけど彼女の澄んだ青い瞳は、僕にはなんだか少し淋しそうにみえる。
少し休憩してから、僕は荷物をまとめに寮に戻った。数時間後にマリーが車で迎えにきてくれて、荷物を運んでくれた。衣類と、本と、わずかな食器。引っ越しに備えて大まかにまとめてあったから、万事スムーズだ。半年近く住んでいたのに、ものが本当に少ないって彼女に驚かれた。
「挨拶しなくていいの?」
「ああ、うん。鍵を返しに行く時でいいや。月末に出ますってもう伝えてあるしね」
僕は言葉を濁して曖昧に笑った。彼女は、「そう」と言っただけでそれ以上突っこんでこなかった。良かった。半年も住んでいたのに、部屋を移ることを伝える友だちなんていないんだ、などと言わずにすんだ。
正直に言ってしまうと、僕は彼女のお喋りにずいぶんと助かっている。自分が必死になって喋らなくていいのは、とても楽。それに彼女の話の大半はアルビーのことなので、彼のことも知ることができる。
彼は無口だし反応も薄いけれど、決して無視しているわけではなくて、話はちゃんと聞いているし必要なことには応えてくれる。て、熱を込めて語る彼女には、アルビーとの固い絆のようなものを感じる。ちょっと、うらやましい。
「キッチンを生き返らせてくれたお礼とコウの入居祝いを兼ねて、今日は御馳走するわね!」
こんなことを思ってしまうから、お前は情がないとか、冷たいとか、言われるのかもしれないけれど――、僕は鼻歌交じりに明るく話すマリーの御馳走に、不吉な予感を感じずにはいられなかった。
だけど、今までの経験から僕だって学んだんだ。だから余計なことは言わずに、「ありがとう」とだけ、日本人特有だっていわれるアルカイックスマイルで応えたよ。
僕の予感に反して、マリーの言っていた御馳走は、それはもう見事に美味しかった。
「当然でしょ。ハロッズのお惣菜だもの」
彼女はつんと澄まして笑っている。
テーブルにはロマンチックに蝋燭を立てて。料理は金の縁取りをされたお皿に盛ってある。ズシリと重いカトラリーは本物の銀みたいだ。水仙の花を模ったすごく凝った意匠が施されている。じっと手の中のそれを見ていてふと顔をあげると、アルビーが相変わらずの無表情で僕を見ている。
食事中にぼーとするのは、マナー違反だっけ? 留学前に読んだ簡単マナーのハウツー本を頭の中で急いで捲る。
「これ、すごく素敵だなと思って」と、とりあえず言い訳した。
「ありがとう」
空耳かと思うような、はにかんだ声。なぜ?
「それ、アルの作品なの。これもそう」
マリーがアルビーに腕を伸ばし、無造作に彼の耳許の髪をかきあげる。彼は少しだけ嫌そうに眉根を寄せる。右の耳には小さな銀の輝きが二つ。
「星だね」
「違う。ヒトデ」
そうか。左耳には蛸だもんな。
「すごいね。それ、手作りなんだ!」
「アルは彫金が趣味なの。ほら、素敵でしょう?」
僕に向けられた彼女の右中指には、でっかい蜘蛛が留まっている。
僕は唇を引きつらせた笑みで応えて、白い皿の上のお肉の塊を切り分けて、グレイビーソースを絡ませた。
ごめん、アルビー。蛸はまだしも、虫のたぐいは僕にはムリだよ。
和やかに僕の歓迎会を終えて自分の部屋へ戻って一人になったとたんに、あの美人の彼とこれから一つ屋根の下で暮らせるという、夢のようなふわふわとした気分から急に現実に引き戻された。
急いでキッチンにとって返した。
ああ、やはり僕の予感は的中だったのだ。僕たちの食べたフルコース。あの大量の皿が磨きあげたばかりのシンクに山積みだ。
今日中に、課題、レポート、山ほどやらなきゃいけないのに――。
だけど、今日のうちにここに移れることになった。当然だ! こんなに頑張ったんだから。ピカピカに光るシンクを見てマリーは歓声をあげ、僕に抱きついて頬にキスしてきた。いくらアルビーはいないからって、まずいんじゃないの? これから一緒に住むっていうのに変な誤解をされるのは嫌だ。そう告げると、彼女はきょとんとした顔をして、それから腹を抱えて大笑いした。
「私とアルは恋人でもなんでもないわよ! 兄妹みたいなものだもの!」
そしてひとしきり笑い終えると、マリーは吐息を漏らして言いたした。
「生まれた時から一緒に暮らしているのよ。今さらよ」
だけど彼女の澄んだ青い瞳は、僕にはなんだか少し淋しそうにみえる。
少し休憩してから、僕は荷物をまとめに寮に戻った。数時間後にマリーが車で迎えにきてくれて、荷物を運んでくれた。衣類と、本と、わずかな食器。引っ越しに備えて大まかにまとめてあったから、万事スムーズだ。半年近く住んでいたのに、ものが本当に少ないって彼女に驚かれた。
「挨拶しなくていいの?」
「ああ、うん。鍵を返しに行く時でいいや。月末に出ますってもう伝えてあるしね」
僕は言葉を濁して曖昧に笑った。彼女は、「そう」と言っただけでそれ以上突っこんでこなかった。良かった。半年も住んでいたのに、部屋を移ることを伝える友だちなんていないんだ、などと言わずにすんだ。
正直に言ってしまうと、僕は彼女のお喋りにずいぶんと助かっている。自分が必死になって喋らなくていいのは、とても楽。それに彼女の話の大半はアルビーのことなので、彼のことも知ることができる。
彼は無口だし反応も薄いけれど、決して無視しているわけではなくて、話はちゃんと聞いているし必要なことには応えてくれる。て、熱を込めて語る彼女には、アルビーとの固い絆のようなものを感じる。ちょっと、うらやましい。
「キッチンを生き返らせてくれたお礼とコウの入居祝いを兼ねて、今日は御馳走するわね!」
こんなことを思ってしまうから、お前は情がないとか、冷たいとか、言われるのかもしれないけれど――、僕は鼻歌交じりに明るく話すマリーの御馳走に、不吉な予感を感じずにはいられなかった。
だけど、今までの経験から僕だって学んだんだ。だから余計なことは言わずに、「ありがとう」とだけ、日本人特有だっていわれるアルカイックスマイルで応えたよ。
僕の予感に反して、マリーの言っていた御馳走は、それはもう見事に美味しかった。
「当然でしょ。ハロッズのお惣菜だもの」
彼女はつんと澄まして笑っている。
テーブルにはロマンチックに蝋燭を立てて。料理は金の縁取りをされたお皿に盛ってある。ズシリと重いカトラリーは本物の銀みたいだ。水仙の花を模ったすごく凝った意匠が施されている。じっと手の中のそれを見ていてふと顔をあげると、アルビーが相変わらずの無表情で僕を見ている。
食事中にぼーとするのは、マナー違反だっけ? 留学前に読んだ簡単マナーのハウツー本を頭の中で急いで捲る。
「これ、すごく素敵だなと思って」と、とりあえず言い訳した。
「ありがとう」
空耳かと思うような、はにかんだ声。なぜ?
「それ、アルの作品なの。これもそう」
マリーがアルビーに腕を伸ばし、無造作に彼の耳許の髪をかきあげる。彼は少しだけ嫌そうに眉根を寄せる。右の耳には小さな銀の輝きが二つ。
「星だね」
「違う。ヒトデ」
そうか。左耳には蛸だもんな。
「すごいね。それ、手作りなんだ!」
「アルは彫金が趣味なの。ほら、素敵でしょう?」
僕に向けられた彼女の右中指には、でっかい蜘蛛が留まっている。
僕は唇を引きつらせた笑みで応えて、白い皿の上のお肉の塊を切り分けて、グレイビーソースを絡ませた。
ごめん、アルビー。蛸はまだしも、虫のたぐいは僕にはムリだよ。
和やかに僕の歓迎会を終えて自分の部屋へ戻って一人になったとたんに、あの美人の彼とこれから一つ屋根の下で暮らせるという、夢のようなふわふわとした気分から急に現実に引き戻された。
急いでキッチンにとって返した。
ああ、やはり僕の予感は的中だったのだ。僕たちの食べたフルコース。あの大量の皿が磨きあげたばかりのシンクに山積みだ。
今日中に、課題、レポート、山ほどやらなきゃいけないのに――。
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