霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅱ.冬の静寂(しじま)

67 スコーン

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 大量に捏ねたスコーンの生地は、半分は成型してから冷凍。半分は焼いてから冷蔵しておくことにしよう。きっと、アルビーも、マリーも夜のお茶の時に食べたがるから。

 生地を冷蔵庫に寝かし、その間にキッチンと居間の掃除だ。それに玄関。朝の内にすべきことは全部済ませて、アルビーと話をする時間を作らなければ。
 手だけはしっかり動かしながら、僕は目まぐるしく、色んなことを考えていた。

 壁に飾られた額縁の埃を丁寧に払い、飾り棚のガラスを拭く。人形アビゲイルの透き通った瞳が問い掛けるように僕を見ている。

 ――アルビーの誇りを傷つけないで。

 そんなふうに言われている気がした。
 ガラスでできた緑の瞳は、アルビーのものよりも陰っていて、哀し気で。つっと、目を逸らしてしまった。感傷に負ける訳にはいかない。

 
 洗濯物をたたみ終え、生地を成型し、半分をオーブンに入れる。時計を見るともうお昼だった。アルビーは何時になるのだろう? 今日しておかなければいけないことは、何があったっけ?

 手が空いた途端に、ゼンマイが切れてしまったように動けなくなった。アルビーのいない空っぽの部屋が、急に寒々しく迫ってくる。

 そうだ、マリーは? まだ寝ているの? それとも気づかない間に出掛けてしまった? 

 漠然とした焦燥ばかりが募ってくる。


 ため息をひとつ吐いて、お湯を沸かした。まず、お茶を飲んでから考えよう。
 これは、僕がイギリスに来て一番初めに教わったことだ。
 英国人ブリティッシュは、お茶を一杯飲んでから考える。まずは余裕を持たないと、いい考えなんて浮かばないって。

 紅茶を淹れたところで、マリーが二階から下りてきた。
「私の分もある?」
「おはよう」
 僕は微笑んで彼女のカップにお茶を注ぎ差し出した。彼女の専用は、ねずみのフレデリックだ。アルビーのカップと同じ、レオ・レオ二の絵本のキャラクター。
「おはよう」
 ねずみのイラストと同じような寝ぼけ眼で、マリーはカップに口づける。起き抜けの、化粧っけのない素顔のマリーは、年相応の女の子に見える。

「じきスコーンが焼けるよ。食べる?」
「だから起きて来たのに決まっているじゃない」
 マリーは笑って、ん~っと、深く匂いを吸い込んでみせる。いつもの彼女だ。

「アルビーが戻ったら、もう一度彼と話してみるね」
 僕の言葉に、彼女は少し照れ臭そうに二、三度軽く頷いた。昨日、僕に一方的に自分の不機嫌をぶつけたこと、後悔している?

 チョコバナナのスコーンが僕らのランチ代わりになった。だから今夜のおやつは無しってこと。



 アルビーが戻ったのは、マリーが出掛けて暫くしてからだった。

 玄関を開ける音に居間を飛び出して翔った。
 アルビーは嬉しそうに笑って、「コウ、甘い匂いがする。スコーンを焼いていたの? 僕の分もある?」と、ふわりと抱き締めてくれた。

 この二日間の不安が、嘘のように溶けていく。全くいつも通りのアルビーじゃないか。マリーは何をあんなに恐れていたって言うのだ? 今だって、「余計なことを口走って、アルを苛立たせるのが嫌だから」なんて理由で、家を空けたのに。

「温め直すね。コーヒー? 紅茶?」
 僕はほっとして緩みっ放しの顔でお茶を淹れる。その間、アルビーは居間のソファーに座っていた。

 両手でトレイを持ち居間に戻った僕は、アルビーに眼を向けたと同時に立ち止まっていた。飾り棚の人形をじっと見つめる彼に、既視感があった。

 そこだけが光が当たっていないような、ぽっかりと空いた穴。そんな虚ろなアルビー。いつだったろう? そんな彼を見たのは?

「コウ?」

 呼びかけられ、はっと歪な笑顔を作った。カチャカチャと、トレイの上のカップが音を立てている。手が、震えていた。どうしてだか、僕にも判らないほどに。



 




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