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Ⅱ.冬の静寂(しじま)
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僕はしくじったのだと思う。マリーが僕に望んだことは、こんなことではなかったはずだ。それなのに、僕は自分の中の欲望に負け、溺れた。
アルビーの言う通り、僕は心の奥底で、ずっと彼が欲しかった。彼に触れたかった。抱き締めてその温もりに包まれたかった。もっと深く触れ合いたかったんだ。
彼は僕の気持ちを知っていたから……。だから、応えてくれた。行きずりの視線に応えるように。それだけだ。
僕はあの時、彼を駆り立てるものは何なのか、そのことを確かめなければならなかったのに。それなのに自分の欲に囚われ、忘れた。アルビーは、忘れるために僕に触れていることを、忘れた。
仮初の一夜は、暁とともに夢に返る。
僕は一人放り出された現実の中で、ぼんやりと成す術もなく崩れ落ちたまま。
翌日は学校を休んだ。
朝、キッチンへ下りて行かなかった僕を心配して、アルビーが朝食を作ってくれた。温かいポリッジを。僕はこの甘いオーツ麦の、お粥もどきが好きではないけれど、せっかくアルビーが作ってくれたので、申し訳なくて我慢して食べた。
「食べ終わったら学校へ行くから」と、無理に笑顔を作って早く大学へ行くようにと促した。彼は、食べ終わるまでいる、と言ったけれど。僕は大丈夫だから、と。
アルビーが見ている。だから我慢して食べた。ふらつく躰で起き上がった。お風呂に入るから、大丈夫だから、とやっと彼を部屋から追い出した。
苦しい。心が。
湯船にたっぷりと湯を張って浸かっていると、筋肉がバラバラに解けて散らばるような錯覚に囚われる。まるで、人形の関節を留めているゴムがパチンと切れたように。バラバラになったパーツは、上手く繋がらない。離れ離れになった四肢をかき集めるように、僕は浴槽の中で丸くなる。アンモナイトになって太古の海に還るんだ。
うつらうつらと、半日夢現で過ごした。何も考えたくなかった。何もせず、ただ丸まっていた。開く前のシダの葉のように。
アルビーが、いつもよりずっと早い時間に帰ってきた。気分はどうか、と額に手を当てる。僕のおでこよりも彼の手の方がよほど熱い。それから、欲しいものはない? と訊かれたので、僕は布団の中から腕を伸ばした。地中から伸びるシダのように。
アルビーは僕の手を取って、掌に唇を押し当てた。目を瞑って、しめやかに。
「ベーグルを買って来てくれる? 昨夜の鶏肉が残っているらしいから。夕食のサンドイッチにするよ」
微笑んでそう告げると、アルビーは頷いて立ち上がった。僕の手を握り締めたまま。
「ほかには?」
僕はにっこりと笑ったまま首を振る。
「すぐ戻るから」
「ありがとう、アルビー」
名残惜しそうに手を離し、アルビーは、ちょっと唇の端を持ち上げて微笑み返してくれた。
静かに閉まるドアを見届けて、僕は深く嘆息していた。
起きなければ。アルビーが心配する。昨日、食事当番だったマリーが買ってきてくれた総菜を食べてしまわないと。他に、何があるって言ってたっけ? スープと、サラダと……。そう言えば、僕はキッチンを放りっ放しだ。
まだ怠さが勝って力は入らなかったけれど、昨日のような痛みは薄らいでいた。ベッドから這い出て、壁の姿見を覗き込む。顔色が悪いかと思っていたのに、かなり赤く火照っていた。微熱があるのかな……。自分ではよく判らない。それに、そんなこと、どうだっていい。
洗い物が山と積まれた汚れたキッチンを思い浮かべていたのに、蛍光灯の白々とした灯りに照らされるこの場所は、まるで誰も使用しなかったように、きちんと片付いていた。
なんだか気が抜けてしまった。のろのろと冷蔵庫を開けて、テイクアウェイ用のケースに入ったままの、昨夜の残りを取り出して並べた。
ローストチキン……。
骨を外して、ナイフで細く裂き、同じく残り物のサラダと和えた。マヨネーズと、マスタードと……。もう、考えなくてもこれくらいの手順はこなせる。アルビーは黒胡椒が好きだから、たっぷりと振り掛けて。
――食べることさえ忘れなきゃ、どうだって生きていけるもんさ。
ふと、彼の口ぐせを思い出す。
そうだね、火蜥蜴、僕もそう思うよ。食べることは、きっと生きる基本……。
僕を喰べ尽くしたアルビーは、彼を喰らおうとしていた闇から自分を取り戻すことができただろうか?
アルビーの言う通り、僕は心の奥底で、ずっと彼が欲しかった。彼に触れたかった。抱き締めてその温もりに包まれたかった。もっと深く触れ合いたかったんだ。
彼は僕の気持ちを知っていたから……。だから、応えてくれた。行きずりの視線に応えるように。それだけだ。
僕はあの時、彼を駆り立てるものは何なのか、そのことを確かめなければならなかったのに。それなのに自分の欲に囚われ、忘れた。アルビーは、忘れるために僕に触れていることを、忘れた。
仮初の一夜は、暁とともに夢に返る。
僕は一人放り出された現実の中で、ぼんやりと成す術もなく崩れ落ちたまま。
翌日は学校を休んだ。
朝、キッチンへ下りて行かなかった僕を心配して、アルビーが朝食を作ってくれた。温かいポリッジを。僕はこの甘いオーツ麦の、お粥もどきが好きではないけれど、せっかくアルビーが作ってくれたので、申し訳なくて我慢して食べた。
「食べ終わったら学校へ行くから」と、無理に笑顔を作って早く大学へ行くようにと促した。彼は、食べ終わるまでいる、と言ったけれど。僕は大丈夫だから、と。
アルビーが見ている。だから我慢して食べた。ふらつく躰で起き上がった。お風呂に入るから、大丈夫だから、とやっと彼を部屋から追い出した。
苦しい。心が。
湯船にたっぷりと湯を張って浸かっていると、筋肉がバラバラに解けて散らばるような錯覚に囚われる。まるで、人形の関節を留めているゴムがパチンと切れたように。バラバラになったパーツは、上手く繋がらない。離れ離れになった四肢をかき集めるように、僕は浴槽の中で丸くなる。アンモナイトになって太古の海に還るんだ。
うつらうつらと、半日夢現で過ごした。何も考えたくなかった。何もせず、ただ丸まっていた。開く前のシダの葉のように。
アルビーが、いつもよりずっと早い時間に帰ってきた。気分はどうか、と額に手を当てる。僕のおでこよりも彼の手の方がよほど熱い。それから、欲しいものはない? と訊かれたので、僕は布団の中から腕を伸ばした。地中から伸びるシダのように。
アルビーは僕の手を取って、掌に唇を押し当てた。目を瞑って、しめやかに。
「ベーグルを買って来てくれる? 昨夜の鶏肉が残っているらしいから。夕食のサンドイッチにするよ」
微笑んでそう告げると、アルビーは頷いて立ち上がった。僕の手を握り締めたまま。
「ほかには?」
僕はにっこりと笑ったまま首を振る。
「すぐ戻るから」
「ありがとう、アルビー」
名残惜しそうに手を離し、アルビーは、ちょっと唇の端を持ち上げて微笑み返してくれた。
静かに閉まるドアを見届けて、僕は深く嘆息していた。
起きなければ。アルビーが心配する。昨日、食事当番だったマリーが買ってきてくれた総菜を食べてしまわないと。他に、何があるって言ってたっけ? スープと、サラダと……。そう言えば、僕はキッチンを放りっ放しだ。
まだ怠さが勝って力は入らなかったけれど、昨日のような痛みは薄らいでいた。ベッドから這い出て、壁の姿見を覗き込む。顔色が悪いかと思っていたのに、かなり赤く火照っていた。微熱があるのかな……。自分ではよく判らない。それに、そんなこと、どうだっていい。
洗い物が山と積まれた汚れたキッチンを思い浮かべていたのに、蛍光灯の白々とした灯りに照らされるこの場所は、まるで誰も使用しなかったように、きちんと片付いていた。
なんだか気が抜けてしまった。のろのろと冷蔵庫を開けて、テイクアウェイ用のケースに入ったままの、昨夜の残りを取り出して並べた。
ローストチキン……。
骨を外して、ナイフで細く裂き、同じく残り物のサラダと和えた。マヨネーズと、マスタードと……。もう、考えなくてもこれくらいの手順はこなせる。アルビーは黒胡椒が好きだから、たっぷりと振り掛けて。
――食べることさえ忘れなきゃ、どうだって生きていけるもんさ。
ふと、彼の口ぐせを思い出す。
そうだね、火蜥蜴、僕もそう思うよ。食べることは、きっと生きる基本……。
僕を喰べ尽くしたアルビーは、彼を喰らおうとしていた闇から自分を取り戻すことができただろうか?
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