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Ⅲ.春の足音
111 旅29 蟹
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訪れたのは、一階がパブ、二階が宿の広い建物だ。シンプルで近代的な外観とは裏腹に、内側は漆喰天井に剥き出しの梁が通り、年季の入った太い柱に支えられた温もりを感じさせるオーソドックスなタイプの内装だ。だだっ広いフロアに充分に間隔を取ってテーブルが幾つも並び、その多くが埋まって賑わっている。
空いたテーブルの一つにコリーヌと二人で待っている間に、ショーンとミシェルは、まずはエールを買いに行く。
「海辺の町だから、ここのお勧めは魚介なのよ。特に蟹ですって!」
コリーヌは苦笑を浮かべ、僕をあのキツイ瞳で射すくめながら大袈裟に首をすくめてみせる。
「でも、私に遠慮せずに好きに注文して。今晩は異議申し立てをする気はないから」
蟹! イギリスで蟹が食べられるなんて!
露骨に変わった僕の表情に、コリーヌのつんとした小さな鼻が笑いを堪えるようにひくひくと動いた。
悪かったね! 自然保護よりも蟹に心を動かされるような俗人で!
ちょっとふてくされた僕の前に、パイントグラスがドンッと置かれる。
「僕はエールは、」
「解ってるって。一口だけ付き合えよ。まずは乾杯だ!」
軽くグラスを打ち合わせ、一口、口をつけた。ミシェルとショーンで適当に頼んだらしい、パブ定番のフライドポテトやオニオンリングの山盛り乗った皿が、まずは運ばれてきた。それらを摘まみながら、壁の黒板にあった蟹のサラダを追加で頼んだ。
運ばれて来た大きな皿に、驚きで目を瞠った。皿半分のスペースに盛られたサラダの横には、野菜に負けない量の蟹のほぐし身。ココット皿の自家製タルタルソースをつけて食べるらしい。温かなパンも添えられている。コーンウォール産のバターとピクルス付き。
何はともあれ、蟹だ!
まずは蟹にソースを混ぜて。それからサラダと一緒に、薄く切ったパンにのせて。
美味しい。パブに来てこんな幸せな気分になれたのは、初めてかもしれない。
「最高。蟹、大好きなんだ!」
「そりゃ良かった。勧めたかいがあったよ」
ミシェルもにこにこ。彼らは魚のフライらしき料理を堪能している。コリーヌは、いつもながらのベジタリアンメニューだけど。
「エールは苦手なんですって? それを飲むといいわ」
「蟹に、とても合うんだ」
いつの間にか僕のエールは消え、代わりに白ワインのグラスが置かれている。コリーヌにミシェルも、エールからワインに切り替えたみたいだ。蟹で浮かれ飛んでいた僕は、深く考えもせずグラスを口に運んだ。すっきりして飲みやすい。これくらいなら、酔っ払うこともないかな。
いい気分でパブを出たのは覚えている。車で寝かかって、ショーンに肩を借りてホステルの部屋に戻ったことも。
誰かが、部屋で飲み直そうと言って、昼の内に寄ったスーパーで買ったスナック菓子を開け、ビールを開けた。僕は飲めないから、コリーヌが瓶入りのアイスティーをくれた。炭酸が入っていて飲みやすい。冷蔵庫を借りていたのか、良く冷えていた。
「だから、」
僕はほとんど眠りかけながら壁にもたれ、訊かれたことに応えていた。
「召喚の儀式じゃないって。彼のための儀式だよ。彼は、人形に受肉させるために自らの焔で取り込んだんだ。それから……」
思い出したくない記憶に、喉が詰まる。口は動くのに、声が出ない。掠れた息がヒューヒューと漏れた。熱に浮かされたような脳に、火照った躰があの日の記憶を呼び起こす。
人形は人形だ。人間じゃない。器にするには欠けているんだ。聖なる焔で焼き尽くし、喰い尽くすだけでは足りなかったんだ。
僕は知らなかった。知らされていなかった。どうしようもなく無知なまま、全てを彼に捧げていたんだ。
悪夢が蘇る。
この躰を二つに裂かれるような感覚が、骨を、内臓を軋ませる。血が吸い取られていく。より合わせた糸を解すように神経が抜かれていく。肉を削がれ、ベリべリと皮を剥がされる。
幻視痛だと解っていても。躰が失われる訳ではないのに、僕は確かに分断され二つに分かれた。僕の魂を喰らい僕と同化していた彼は、人形を核にして、新たな受肉と生成を果たしたんだ。
儀式は成功した。
それなのに、彼は消えた。僕を一人残して。以来僕は、魂の半分を失ったまま。
空いたテーブルの一つにコリーヌと二人で待っている間に、ショーンとミシェルは、まずはエールを買いに行く。
「海辺の町だから、ここのお勧めは魚介なのよ。特に蟹ですって!」
コリーヌは苦笑を浮かべ、僕をあのキツイ瞳で射すくめながら大袈裟に首をすくめてみせる。
「でも、私に遠慮せずに好きに注文して。今晩は異議申し立てをする気はないから」
蟹! イギリスで蟹が食べられるなんて!
露骨に変わった僕の表情に、コリーヌのつんとした小さな鼻が笑いを堪えるようにひくひくと動いた。
悪かったね! 自然保護よりも蟹に心を動かされるような俗人で!
ちょっとふてくされた僕の前に、パイントグラスがドンッと置かれる。
「僕はエールは、」
「解ってるって。一口だけ付き合えよ。まずは乾杯だ!」
軽くグラスを打ち合わせ、一口、口をつけた。ミシェルとショーンで適当に頼んだらしい、パブ定番のフライドポテトやオニオンリングの山盛り乗った皿が、まずは運ばれてきた。それらを摘まみながら、壁の黒板にあった蟹のサラダを追加で頼んだ。
運ばれて来た大きな皿に、驚きで目を瞠った。皿半分のスペースに盛られたサラダの横には、野菜に負けない量の蟹のほぐし身。ココット皿の自家製タルタルソースをつけて食べるらしい。温かなパンも添えられている。コーンウォール産のバターとピクルス付き。
何はともあれ、蟹だ!
まずは蟹にソースを混ぜて。それからサラダと一緒に、薄く切ったパンにのせて。
美味しい。パブに来てこんな幸せな気分になれたのは、初めてかもしれない。
「最高。蟹、大好きなんだ!」
「そりゃ良かった。勧めたかいがあったよ」
ミシェルもにこにこ。彼らは魚のフライらしき料理を堪能している。コリーヌは、いつもながらのベジタリアンメニューだけど。
「エールは苦手なんですって? それを飲むといいわ」
「蟹に、とても合うんだ」
いつの間にか僕のエールは消え、代わりに白ワインのグラスが置かれている。コリーヌにミシェルも、エールからワインに切り替えたみたいだ。蟹で浮かれ飛んでいた僕は、深く考えもせずグラスを口に運んだ。すっきりして飲みやすい。これくらいなら、酔っ払うこともないかな。
いい気分でパブを出たのは覚えている。車で寝かかって、ショーンに肩を借りてホステルの部屋に戻ったことも。
誰かが、部屋で飲み直そうと言って、昼の内に寄ったスーパーで買ったスナック菓子を開け、ビールを開けた。僕は飲めないから、コリーヌが瓶入りのアイスティーをくれた。炭酸が入っていて飲みやすい。冷蔵庫を借りていたのか、良く冷えていた。
「だから、」
僕はほとんど眠りかけながら壁にもたれ、訊かれたことに応えていた。
「召喚の儀式じゃないって。彼のための儀式だよ。彼は、人形に受肉させるために自らの焔で取り込んだんだ。それから……」
思い出したくない記憶に、喉が詰まる。口は動くのに、声が出ない。掠れた息がヒューヒューと漏れた。熱に浮かされたような脳に、火照った躰があの日の記憶を呼び起こす。
人形は人形だ。人間じゃない。器にするには欠けているんだ。聖なる焔で焼き尽くし、喰い尽くすだけでは足りなかったんだ。
僕は知らなかった。知らされていなかった。どうしようもなく無知なまま、全てを彼に捧げていたんだ。
悪夢が蘇る。
この躰を二つに裂かれるような感覚が、骨を、内臓を軋ませる。血が吸い取られていく。より合わせた糸を解すように神経が抜かれていく。肉を削がれ、ベリべリと皮を剥がされる。
幻視痛だと解っていても。躰が失われる訳ではないのに、僕は確かに分断され二つに分かれた。僕の魂を喰らい僕と同化していた彼は、人形を核にして、新たな受肉と生成を果たしたんだ。
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それなのに、彼は消えた。僕を一人残して。以来僕は、魂の半分を失ったまま。
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