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Ⅲ お手並みご高覧下さいですとも!
17.フレキシブルには境界がない
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彼らが絶対的に崇拝するアルビーの名前を出したのに、マークスは「分かりました」と言わなかった。薄い唇を突き出して眉間に皺をよせ、目をしょぼつかせて今にも泣き崩れそうに――
まずい、本当に崩れてきている。フロックコートの輪郭がぼやけてトロトロと溶け落ちてしまいそうだ。
「きみの私室に飾る分にはかまわないよ、マークス! それでもアルは嫌がるだろうけど、内緒にしておいてあげる!」などと、思わず声をあげてしまった。
あ、飛び上がった。
両足の踵を合わせ、測ったような直角に開いて着地。と同時に身を屈めたまま両手を揉み合わせ、うるうるした大きな瞳を震わせて僕を覗き上げる。
「ありがとうございます! ありがとうございます! お優しいですとも! コウさまは本当にお優しいですとも! 姫さまも本当にお優しくて、わたくしたちの自慢でありましたとも! 何と言っても姫さまは――」
マークスの口が高速で動きだす。
「うん、そうだね、分かったから、」
早くこれを片づけてくれよ。もうそんなにゆっくりしてる時間はないんだ。
と口に出して言ったところで、一度着火してしまったら燃料が切れるまで、このアビゲイル自慢は止まらない。こうなるのが判っていたから、彼女はここではタブーな存在、というのもあるのだ。
「じゃ、外すか」ショーンが額縁に手をかけた。
「とんでもございませんとも! わたくしめがなさいますとも!」
上手い! ショーンがマークスの意識を上手く切り替えてくれた。
マークスはとたんに顔色を青緑にして、プンスカしながら額を取り外しにかかっている。なんだか呪詛のような深緑がかった音を吐いているけれど、ショーンには効かないようだ。大きな額に合わせてびよーんと伸びるマークスの腕を、笑いをかみ殺して見ているもの。
慣れたものだな。つくづく感心する。ショーンは本当にすごいやつだ。彼らとこうも共存していけるなんて。
イギリスに来て、アルビーやショーンと出会って。
世界がこんなにも優しいなんて、僕には思いもよらなかった。
そうはいっても、バーナードさんもこうだとは言えない。現にマリーは、マークスのことを胡散臭く思っている。顔を合わせないように避けているもの。彼らの用意してくれる料理は大好きなくせに、ショーンには、彼らのことを気味が悪いって言っているって、僕は知っている。ショーンはそんな告げ口めいたこと、僕に話すことはないけれど――。
だから、僕たちを受け入れてもらえるなんて期待しちゃいけない。僕は何事にも気を抜かず、慎重に対処しなきゃいけない。
さて、僕はこれからバーナードさんを迎えていつもの面談だ。きっちり1時間半、今週あったことを話さなければいけない。別に悩みを探してまで相談する必要はないって言ってくれているから、ほとんど雑談みたいなものだけど。
もしかしてアルビーは、僕の語学力を心配して、彼との面談時間を取ってくれたんじゃないのか、って気もする。僕が喋るのが苦手なのは、母国語じゃないからだ、とそう思っているのかもしれない。あるいはバーナードさんのような心理学者なら、僕みたいな内向的なやつでも上手く会話できるように誘導してくれるとか。
そんな推察を始めるときりがない。バーナードさんの心中は推し量りようがないけれど、アルビーは僕を心配してくれてのこと、それだけは疑いようがない。僕はアルをがっかりさせないよう頑張るだけだ。
レセプションルームはパーティーの準備でばたばたするからティールームを使おう。マークスとの打ち合わせはショーンに任せて、僕は一人で部屋を移動した。
たしか、昨日ショーンと来た時は無機質な白の寝室が6つあった。
それが今は――
間取りが大幅に変わっている。
書斎、音楽室、映写室。ドアではなく壁に金のプレートのついたオープンルームになっている。つまり、しきりとなる壁とドアが取っ払われているのだ。
「ご心配にはおよびませんとも! このようにカーテンで仕切れるようになっておりますとも!」
茫然と佇んでいた僕の前で大きくふりかざされた腕が、もったいつけてカーテンをつまみ、シャッと半分ほど引いてみせる。
マークスじゃない。彼はショーンと一緒に、アビゲイルに替わって壁を埋める何かを探しに収納庫へ向かったはず。
となると、スペンサー? どうして彼がここにいるんだ。
まずい、本当に崩れてきている。フロックコートの輪郭がぼやけてトロトロと溶け落ちてしまいそうだ。
「きみの私室に飾る分にはかまわないよ、マークス! それでもアルは嫌がるだろうけど、内緒にしておいてあげる!」などと、思わず声をあげてしまった。
あ、飛び上がった。
両足の踵を合わせ、測ったような直角に開いて着地。と同時に身を屈めたまま両手を揉み合わせ、うるうるした大きな瞳を震わせて僕を覗き上げる。
「ありがとうございます! ありがとうございます! お優しいですとも! コウさまは本当にお優しいですとも! 姫さまも本当にお優しくて、わたくしたちの自慢でありましたとも! 何と言っても姫さまは――」
マークスの口が高速で動きだす。
「うん、そうだね、分かったから、」
早くこれを片づけてくれよ。もうそんなにゆっくりしてる時間はないんだ。
と口に出して言ったところで、一度着火してしまったら燃料が切れるまで、このアビゲイル自慢は止まらない。こうなるのが判っていたから、彼女はここではタブーな存在、というのもあるのだ。
「じゃ、外すか」ショーンが額縁に手をかけた。
「とんでもございませんとも! わたくしめがなさいますとも!」
上手い! ショーンがマークスの意識を上手く切り替えてくれた。
マークスはとたんに顔色を青緑にして、プンスカしながら額を取り外しにかかっている。なんだか呪詛のような深緑がかった音を吐いているけれど、ショーンには効かないようだ。大きな額に合わせてびよーんと伸びるマークスの腕を、笑いをかみ殺して見ているもの。
慣れたものだな。つくづく感心する。ショーンは本当にすごいやつだ。彼らとこうも共存していけるなんて。
イギリスに来て、アルビーやショーンと出会って。
世界がこんなにも優しいなんて、僕には思いもよらなかった。
そうはいっても、バーナードさんもこうだとは言えない。現にマリーは、マークスのことを胡散臭く思っている。顔を合わせないように避けているもの。彼らの用意してくれる料理は大好きなくせに、ショーンには、彼らのことを気味が悪いって言っているって、僕は知っている。ショーンはそんな告げ口めいたこと、僕に話すことはないけれど――。
だから、僕たちを受け入れてもらえるなんて期待しちゃいけない。僕は何事にも気を抜かず、慎重に対処しなきゃいけない。
さて、僕はこれからバーナードさんを迎えていつもの面談だ。きっちり1時間半、今週あったことを話さなければいけない。別に悩みを探してまで相談する必要はないって言ってくれているから、ほとんど雑談みたいなものだけど。
もしかしてアルビーは、僕の語学力を心配して、彼との面談時間を取ってくれたんじゃないのか、って気もする。僕が喋るのが苦手なのは、母国語じゃないからだ、とそう思っているのかもしれない。あるいはバーナードさんのような心理学者なら、僕みたいな内向的なやつでも上手く会話できるように誘導してくれるとか。
そんな推察を始めるときりがない。バーナードさんの心中は推し量りようがないけれど、アルビーは僕を心配してくれてのこと、それだけは疑いようがない。僕はアルをがっかりさせないよう頑張るだけだ。
レセプションルームはパーティーの準備でばたばたするからティールームを使おう。マークスとの打ち合わせはショーンに任せて、僕は一人で部屋を移動した。
たしか、昨日ショーンと来た時は無機質な白の寝室が6つあった。
それが今は――
間取りが大幅に変わっている。
書斎、音楽室、映写室。ドアではなく壁に金のプレートのついたオープンルームになっている。つまり、しきりとなる壁とドアが取っ払われているのだ。
「ご心配にはおよびませんとも! このようにカーテンで仕切れるようになっておりますとも!」
茫然と佇んでいた僕の前で大きくふりかざされた腕が、もったいつけてカーテンをつまみ、シャッと半分ほど引いてみせる。
マークスじゃない。彼はショーンと一緒に、アビゲイルに替わって壁を埋める何かを探しに収納庫へ向かったはず。
となると、スペンサー? どうして彼がここにいるんだ。
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