エートス 風の住む丘

萩尾雅縁

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Ⅲ お手並みご高覧下さいですとも!

19.面談は紅茶香るテーブルで

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 昨日までは無表情で何の感情も持たなかった空間が、今日は雄弁すぎるほどに様変わりしている。それが居心地が悪い、というわけでは決してないんだ。皆の集まるパーティーには、この仕様はいいと思う。だけど面談には向かない気がする、ってだけ。

 
 なんだか気疲れして、外の空気が吸いたくなった。キッチンからほど近いガラス戸を開けテラスに出た。

 黒く塗られたデッキのそこかしこに、テーブルセットが置かれている。ざっと見渡しても、どこに座ろうかと迷うほどだ。ここは改装前のままみたいだけど、元からパーティー向けデザインだったのだろうか。そうでなきゃ、こうもあちこちにテーブルや椅子を置く意味が分からない。

 そうだ、お天気もいいし、バーナードさんとはテラスで逢うことにしよう。
 


 時間ぴったりにやって来た彼を、ハイドパークを見下ろせるテーブルに案内した。だけど彼は、陽射しがきついからそっちに移ってもいいか、と白いパラソル付きテーブルを見て言った。
「きみは日光に弱いって聞いているよ。10月だというのに、日中はいまだ夏並みの気温だからね、気を付けた方がいい」
 アルビーにも同じことを言われていた。

 僕を気遣ってくれたのは嬉しかったけれど、少しだけ残念だ。その場所ではせっかくの景色が見え辛い。
 テーブル横の、屋上テラスを囲う石の欄干パラペットのそこだけが半楕円形に高く盛り上がっていて、長方形の鏡が嵌め込まれているのだ。どうしてこんなところに、と不思議に思ってしまう。
 それに左右に置かれた、細い幹を中心に螺旋に刈りこまれたトピアリー。それが立ち上がる火の精霊サラマンダーの象徴のようで、なんだか――
 たぶん考えすぎ、疑いすぎだ。小さな火蜥蜴ひとかげのサラでは、ドラコのような大掛かりな仕掛けは作れない。


 席に着くなり「申し訳ない、少しだけいいかな」と断って、バーナードさんはスマートフォンをチェックし始めた。なんだか真剣な表情で、話しかけづらかった。直にじろじろ見るのはさすがに不躾かな、と思い、僕は、なんとなく鏡の中の彼を眺めていた。

 今日の彼は、とてもきっちりしている気がする。いつもはもっとカジュアルな感じなのだ。この後のホームパーティーのためだろうか。
 ほとんど黒に近い濃紺無地のスーツに、青を基調とした綺麗なパターン模様のネクタイ。特徴的だとは言い難いのに、いつも以上に品よくかっこいい。たぶん、このスーツは仕立てがいい、そういうことだと思う。そして、元がいいから着こなせるのだ。
 こんなセンスも体格も持ち合わせていない僕では、一生彼のようにはなれないだろう。アルには、「もう少しなんとかしろ」的なことを、とても遠回しに言われるけれど――


「失礼したね、終わったよ」鏡の中の彼が、鏡の中の僕を見て言った。
「あ、はい」
「僕が淹れようか」

 え? 

 鏡から手許のテーブルに視線を戻すと、ティーセットが置かれていた。

「気づかなかった? つい今しがた、持って来てくれたよ」

 慣れた手つきでバーナードさんがお茶を淹れてくれている。だけど、鏡にはマークスの姿は映っていなかった。もちろんスペンサーも、ショーンも。バーナードさんと僕だけだ。

「何か気になることでも?」

 カチャリ、とティーカップが僕の前に置かれる。黒地に金の月桂樹模様の縁取りがある見たことのないカップ。内側にも金で描かれた女神のモチーフが――

 ゆらりと揺れる。水底に揺蕩う。

 水の精霊ウンディーネ

 まさか。

「こんな高価なカップでもてなしてもらうとは、恐縮してしまうな」
「――――」

 声が喉に詰まって出ない。
 僕は今、どんな顔をしていたのだろう? この高価そうなカップを彼が傷つけるんじゃないか疑ってでもいるような、そんな失礼な表情をしていただろうか?

 ハンドルを持つ手が震えて、カチャカチャと耳障りな音を立てている。僕の方こそ、このカップを落としてしまいそうで。

「コウ、大丈夫かい。ゆっくり息を吐いて」バーナードさんの大きな手が、カップのハンドルから離れない僕の手をゆったりと覆う。
「すみません。なんだか、昔の記憶が、急に――」
 その手は僕を掴んだままそっと、カップの横に下ろされた。
「どんな記憶?」
 温かい。
「以前、――滝壺に落ちた時の。そこで見た彼女、このカップの底に描かれている女の人が、その時の――」

 よく見ると、ちっとも似ていないのに。それに描かれているのは底ではなく側面だ。え、側面だっただろうか。確かに底から僕を見あげて、みたいに、にっこり笑って――。


 バーナードさんが急に立ちあがった。

「喋らなくていい。ゆっくり息を吸って。そう、ゆっくり吐いて。もう少し息を吐いて。少し前屈みになるといい」

 僕の背後に回り背中をさすってくれている。その手が気道を開き導いてくれたみたいに、すうっと空気が身体に入ってきた。綺麗な空気が。呼吸が落ち着いていく。さっきまで、水の中にいるようにうまく息ができなかったのに。

 苦しいのに、苦しいはずなのに、意識は彼女に釘付けにされて――。

 もう彼女の姿は酸素ボンベから漏れる泡の向こう。
 かき消されて、思いだすこともできない。

「少し横になるかい。手足が痺れているんじゃないのかな? 眩暈めまいはない?」

 返事を待たずに彼は僕を抱えて立たせると、支えてくれながら初めに座るつもりだったベンチまで連れていってくれた。

 僕は、僕自身に何が起こったのかもわからないまま、ぼんやりとされるがままだった。


 
 
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