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Ⅲ お手並みご高覧下さいですとも!
20.寝転ぶときはうつぶせに
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しばらくして落ち着いてから、僕は軽いパニック障害の発作で過呼吸を起こしたのだろう、とバーナードさんは説明してくれた。
寝転んでいる間はうつぶせでいるようにと言われた。深く呼吸できるようにするためだそうだ。息苦しさよりも、彼がどんなふうに僕を見ているのか判らないことが辛かった。
何もないのにいきなり苦しそうにするなんて、変なやつだと呆れられているのではないか。それとも、心配されたくて演技してるんだろう、と思われているかも。
そんな人目を気にする意識が膨れ上がって喉を締め付けているだけ、苦しい気がしてるだけだ。昔からそうなのだ、僕は――。
体を起こした時そこにいたバーナードさんは、とくに僕を心配している様子でもなく、かといって無関心というふうでもなく、何事もなかったように静かにお茶を飲んでいた。「落ち着いたかい?」と柔らかな声をかけてくれ、お茶のつづきででもあるかのようにグラスの水を手渡してくれた。それからゆっくりと、僕の様子を伺いながら、いくつかの質問をした。
「息苦しく感じたきっかけは、きみの話してくれたカップの装飾に描かれていた女神の図案が、きみの記憶を刺激して何かを想起させたから?」
僕は答えようがなくて、かすかに眉をよせてしまった。うんとも、違うとも言えずに軽く小首を傾げてしまった。
「揺れる水面に映った女性の絵がカップの底に反転して、水中の女性のように見えたのかな?」
そう言われると、そうかなって気がしてくる。
心の中心では、これは彼女からの何らかの警告だ、――とそんな気がしてならないけれど。だけどそれは、バーナードさんに言えるようなことじゃない。
それに彼の背後では、マークスが蒼白な顔でおろおろしているのだ。彼の前で下手なことは言えない。心配していろいろ尋ねてくれているバーナードさんよりも、そっちの方が気になって、つい目で追ってしまう。
「申し訳ございませんとも! 申し訳ございませんとも、コウさま! わたくしめがお傍を離れたばっかりに! あやつになんぞ任せるんじゃなかったですとも! あの役立たずめが! ええ、懲らしめてやりますとも!」
愚痴とも呪詛ともつかないことを小声で口汚く呟きながら、マークスの体は横に広がったり、半分近く細くなったり上手く形を保てないのだ。あまりの動揺で、顔色も蒼白から青、緑と寒色系のグラデーショで多彩に変化する。
「コウは大丈夫だよ」と、振り返ったバーナードさんも爽やかな笑顔を向けて宥めてくれた。この様子に驚かないでいられるなんて、ショーンに負けず劣らずこの人も大したものだと思う。
しばらく興味深げに、かといって不躾さは感じさせない柔らかさを湛えてマークスを眺めていた瞳が、ふっと腕時計に視線を落とした。
「ああ、申し訳ないが、今日は少し早めに終わらせてもらうよ。これから所要を一つこなさなくてはならなくてね。夜は、予定通り? 体調が芳しくないようなら――」
「いえ、もう平気です。予定通り5時には始めます。もし、お忙しいのでしたら、気楽な集まりですから、時間通り来られなくても全然問題ありませんから」
淀みなく答えることができたと思う。
「遅れることはないと思うよ。できるなら、パーティーの前に少し時間を取って欲しいのだけど、どうだろう?」
「今、切り上げる分だけ、ということですか?」
「きみの体調を確認しておきたいしね」
優しく細められた目、にっこりと向けられた笑みに、心がズキリと音を立てた。
アルは、こんな人にこんなふうに気遣われる日常を送っていたのだ。嬉しくないはずがないじゃないか。
彼は、なんていうのか、心地良いのだ。背中をさすってくれているときも、優しい言葉をくれる時も、境界線を越えてこない。踏みこんでこないのだ。触れている時でさえ、距離を保ってくれているのが分かる。こんな人は初めてだ。
アルが惹かれるのが解かる気がする――。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
謙遜することなく、にこやかに受け止める余裕のある人。
「えっと、またお仕事に戻られるんですか?」
すぐに立ちあがって出ようとするわけでもない。彼との間に落ちた沈黙が堪らなくて、浮かんできたことをそのまま訊いた。
「仕事の一環ではあるね。僕の恩師が今度本を出版することになってね、お祝いに顔だけ出さなくちゃいけなくてね」
「出版のお祝い……」
まさか、パーティーが被ってるとか。
「きみ、」くくくっと咽喉を震わせて笑いをこらえながら、バーナードさんが目を細める。「面白いほど考えていることが顔に出るね。大丈夫、向こうはパーティーってほどのものじゃない。本当に顔を出すだけで済むから心配いらない」
「それじゃ、そろそろ失礼するよ」、と今度こそ彼は席を立った。マークスはシュルッと一度伸びをすると、「お任せください! お任せください! わたくしめがお見送りいたしますとも!」としゃっきりと胸を張って、彼の前を跳ねるように進んでいった。
僕は、どうも、狐に摘ままれた気分。
今まで、表情がないとか、何考えてるのか判らない気もち悪いやつ、と散々言われてきたのだ。アルにだって、気持ちを素直に語るのが苦手だねって指摘された。
こんなふうに見透かされるなんて――。
なんだか、裸を見られたみたいに恥ずかしい。
寝転んでいる間はうつぶせでいるようにと言われた。深く呼吸できるようにするためだそうだ。息苦しさよりも、彼がどんなふうに僕を見ているのか判らないことが辛かった。
何もないのにいきなり苦しそうにするなんて、変なやつだと呆れられているのではないか。それとも、心配されたくて演技してるんだろう、と思われているかも。
そんな人目を気にする意識が膨れ上がって喉を締め付けているだけ、苦しい気がしてるだけだ。昔からそうなのだ、僕は――。
体を起こした時そこにいたバーナードさんは、とくに僕を心配している様子でもなく、かといって無関心というふうでもなく、何事もなかったように静かにお茶を飲んでいた。「落ち着いたかい?」と柔らかな声をかけてくれ、お茶のつづきででもあるかのようにグラスの水を手渡してくれた。それからゆっくりと、僕の様子を伺いながら、いくつかの質問をした。
「息苦しく感じたきっかけは、きみの話してくれたカップの装飾に描かれていた女神の図案が、きみの記憶を刺激して何かを想起させたから?」
僕は答えようがなくて、かすかに眉をよせてしまった。うんとも、違うとも言えずに軽く小首を傾げてしまった。
「揺れる水面に映った女性の絵がカップの底に反転して、水中の女性のように見えたのかな?」
そう言われると、そうかなって気がしてくる。
心の中心では、これは彼女からの何らかの警告だ、――とそんな気がしてならないけれど。だけどそれは、バーナードさんに言えるようなことじゃない。
それに彼の背後では、マークスが蒼白な顔でおろおろしているのだ。彼の前で下手なことは言えない。心配していろいろ尋ねてくれているバーナードさんよりも、そっちの方が気になって、つい目で追ってしまう。
「申し訳ございませんとも! 申し訳ございませんとも、コウさま! わたくしめがお傍を離れたばっかりに! あやつになんぞ任せるんじゃなかったですとも! あの役立たずめが! ええ、懲らしめてやりますとも!」
愚痴とも呪詛ともつかないことを小声で口汚く呟きながら、マークスの体は横に広がったり、半分近く細くなったり上手く形を保てないのだ。あまりの動揺で、顔色も蒼白から青、緑と寒色系のグラデーショで多彩に変化する。
「コウは大丈夫だよ」と、振り返ったバーナードさんも爽やかな笑顔を向けて宥めてくれた。この様子に驚かないでいられるなんて、ショーンに負けず劣らずこの人も大したものだと思う。
しばらく興味深げに、かといって不躾さは感じさせない柔らかさを湛えてマークスを眺めていた瞳が、ふっと腕時計に視線を落とした。
「ああ、申し訳ないが、今日は少し早めに終わらせてもらうよ。これから所要を一つこなさなくてはならなくてね。夜は、予定通り? 体調が芳しくないようなら――」
「いえ、もう平気です。予定通り5時には始めます。もし、お忙しいのでしたら、気楽な集まりですから、時間通り来られなくても全然問題ありませんから」
淀みなく答えることができたと思う。
「遅れることはないと思うよ。できるなら、パーティーの前に少し時間を取って欲しいのだけど、どうだろう?」
「今、切り上げる分だけ、ということですか?」
「きみの体調を確認しておきたいしね」
優しく細められた目、にっこりと向けられた笑みに、心がズキリと音を立てた。
アルは、こんな人にこんなふうに気遣われる日常を送っていたのだ。嬉しくないはずがないじゃないか。
彼は、なんていうのか、心地良いのだ。背中をさすってくれているときも、優しい言葉をくれる時も、境界線を越えてこない。踏みこんでこないのだ。触れている時でさえ、距離を保ってくれているのが分かる。こんな人は初めてだ。
アルが惹かれるのが解かる気がする――。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
謙遜することなく、にこやかに受け止める余裕のある人。
「えっと、またお仕事に戻られるんですか?」
すぐに立ちあがって出ようとするわけでもない。彼との間に落ちた沈黙が堪らなくて、浮かんできたことをそのまま訊いた。
「仕事の一環ではあるね。僕の恩師が今度本を出版することになってね、お祝いに顔だけ出さなくちゃいけなくてね」
「出版のお祝い……」
まさか、パーティーが被ってるとか。
「きみ、」くくくっと咽喉を震わせて笑いをこらえながら、バーナードさんが目を細める。「面白いほど考えていることが顔に出るね。大丈夫、向こうはパーティーってほどのものじゃない。本当に顔を出すだけで済むから心配いらない」
「それじゃ、そろそろ失礼するよ」、と今度こそ彼は席を立った。マークスはシュルッと一度伸びをすると、「お任せください! お任せください! わたくしめがお見送りいたしますとも!」としゃっきりと胸を張って、彼の前を跳ねるように進んでいった。
僕は、どうも、狐に摘ままれた気分。
今まで、表情がないとか、何考えてるのか判らない気もち悪いやつ、と散々言われてきたのだ。アルにだって、気持ちを素直に語るのが苦手だねって指摘された。
こんなふうに見透かされるなんて――。
なんだか、裸を見られたみたいに恥ずかしい。
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