小さな悪魔

萩尾雅縁

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11.待ちぼうけの男

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 小さな悪魔は、公園の樹の上から、ベンチの男を眺めています。

 小さな悪魔は、ある金持ちの父親と契約しています。父親の願いをかなえれば、その躰を手に入れることができるのです。
 そのためには、ベンチの男の協力が必要なのでした。
 それなのに……。
 小さな悪魔は、大きくため息をついています。



 小さな悪魔は、ベンチの男の耳もとでささやきました。

「お金持ちになりたくない?」
「べつに。おれは今のままで満足している」

 小さな悪魔は、男をしげしげとながめます。よれよれの背広せびろに、ひざのすりきれたズボン。とても満足のいくようなかっこうとは思えません。小さな悪魔は、首をかしげます。

「きれいな服を着て、おいしいものを食べたくない? いろんなぜいたくをしてみたくない?」
「べつに。腹がみたせりゃ、それでいい」

 小さな悪魔は顔をしかめます。

「すてきな美人の恋人を紹介してあげる」
「美人はわがままだからな。めんどくせえや」

 このベンチの男は、何を言ってものってこないのです。

 お昼時にこの公園にやってきて、ハンバーガーとコーヒーの昼食をとり、ベンチに寝転がって昼寝をします。そしてまた、仕事にもどっていくのです。

 毎日がこのくり返しでした。

 それなのに、このベンチの男はいつも楽しそうなのです。今もベンチに転がって、鼻歌なんて歌っています。


 この男、何が楽しくて生きているのだろう? たいして何かを持っているわけでもないのに。

 小さな悪魔は不思議でたまりませんでした。
 
 何をさしだせば、男は協力してくれるのだろう?

 小さな悪魔は頭をひねります。今まで、いろんな提案ていあんをしてみたのです。そのすべてを、男はけったのです。
 小さな悪魔は、ほとほと困りはてていました。




 今日も男はベンチにいます。小さな悪魔は、男の横でしかめっつらで考えています。
「あ!」
 男は急にベンチから立ちあがりました。

 若い男がたおれたのです。男はいそいでその青年にかけより、助け起こしてやりました。ベンチに寝かせてやりました。あおい顔をした青年は、しばらくして気がつくと男にお礼を言いました。
 このことがきっかけで、男はその青年と友達になりました。


 男は青年とベンチでおしゃべりをします。
 昼食に、男は青年にもハンバーガーとコーヒーを買ってきました。青年は悲しそうに頭をふります。

 青年は重い病気なのです。
 病院でだされるものしか食べてはいけないのです。本当は、こうして外に出ることも禁止されているのす。

「一度でいいから、あんなふうに走ってみたい」

 公園をかけ回る子どもたちをながめながら、青年はつぶやきます。




 しばらくして、青年はぱったりと公園に来なくなりました。男はさびしそうに、ぽつりとベンチにすわっています。

 小さな悪魔は、男の耳もとでささやきました。

「あの青年はもうここへは来ないよ。ベッドからうごけないんだ」

 男はぐっとくちびるをへの字にむすんでいます。

「一時間だけ、その躰を彼に貸してあげて。彼はもうすぐ死ぬんだ。死ぬまえに、思いきり地面を走らせてあげたい」

 男は、こくん、とうなずきました。
 小さな悪魔は、ほくそ笑みました。

「彼にこの躰を渡したらすぐに戻ってくる。ここで待っていて」

 男の魂と交代して躰に入りこむと、小さな悪魔は公園をかけだしていきました。
 男の魂は、走っていく自分の背中を不思議そうに見送っています。やがてそれも見えなくなると、男の魂はにっこり笑ってベンチの背もたれに両腕をかけ、ゆったりと空を見あげました。




 それからずっと、男の魂は、このベンチで自分の躰が戻ってくるのを待っているのです。



 小さな悪魔は、金持ちの父親との契約を成就じょうじゅさせました。
 この父親の息子は、重い病気にかかっていたのです。治るには、心臓を交換するよりほかにありませんでした。だれの心臓でもいいのではないのです。合う、合わないがあるのです。ほんのわずかな交かんできる心臓の持ち主が、あのベンチの男なのでした。

 手術は成功しました。
 心臓をとられた男の躰は、もう生きてはいません。

 金持ちの父親は、息子の命をつなぐことができたので、よろこんで小さな悪魔に自分の躰をゆずりました。


 青年は、何も知らないまま、ベッドの上で眠っています。
 小さな悪魔は、満足そうにほほ笑んでいます。




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