25 / 26
メタモルフォーゼ 2
しおりを挟む
お母さんはいつも私に選択する権利をくれた。
「これとこれ、どっちがいい? 好きな方を買ってあげる」
だけど、欲しいモノを買う権利はくれなかった。
買ってもらえるか、もらえないかの二択。どっちも嫌といえば、袖や丈の短くなったお洋服をずっと着ていなくちゃいけない。それで「本当にあなたはそれが好きねぇ」とあきれ顔で言われるの。好きで着てるんじゃないのに。
だから、AかB、どちらかを選ばなくちゃいけない。
たとえ、好きじゃなくても――
大手チェーンのカフェで、ふさふさと育っているマッサンゲアナの緑の葉を眺めながら、お母さんのくれた教訓を思い出していた。
テーブルを挟んで向かい合うおじさんに視線を戻し、上目遣いにそっと見上げる。
お金を手に入れるか、諦めるか。
選択肢はこの二択。
子どもの頃、衣食住の問題は切実で、その内容が好きかどうかは二の次だった。
だけど今は――
自分で好きなモノを選べるの。本当に欲しいモノを買える。
黒薔薇の蕾のような私の部屋に、素敵なドレッサーを置きたい。そして天井にキラキラのシャンデリアを取り付けるの。蝋燭のような仄暗い灯りを燈したら、濡羽色に光る壁がどんなに映えるだろう――
想像するだけでぞくぞくする。快感に心臓の鼓動も早くなる。
こうやって好きなモノだけで頭をいっぱいにしておけば、目の前のこの男にちっとも好感が持てないことなんか、大した問題じゃなくなる。気持ち悪いものはぜんぶ外の世界のもの。私には関係ない。
新作のワンピースも欲しいし、レースアップパンプスも、もうカートに入れてある。大切なのは、お値段が折り合うこと。それだけ。払えるだけの収入があればいい。別に贅沢なんて望んでないもの。他の子たちみたいに高いブランド品なんていらない。身の丈にあった幸せしか望んでない。
「猿とサメの昔話、知ってる?」
ぽっ、とそこだけが耳に入ってきた。
何の話をしてたっけ――
「兎とサメじゃなくて?」とりあえず、それっぽく返すしかない。
「似てるけど違うんだなぁ。兎と同じように猿もサメを騙すんだけどね。猿は、仲良くなったサメに海原に連れ出されてから、生肝が欲しいって、サメの思惑を知らされるんだ」
ねっとりした、にやけた声。
「猿がサメに騙されたの? 騙したんじゃなくて?」と、愛想笑いでもしておけばいいかな。
「それはこれからだよ。海の上で騙されたことに気づいて、このままでは殺されると思った猿はね、いいお天気だから肝は樹の上に干してきた、と言って、難なく陸に帰してもらうんだよ」
「肝ってレバーのことよね、なんでそんなもの欲しがるのかな」
「猿の生肝は薬になるって言い伝えがあったんだよ」
「ふうん……。猿の肝って取り外しがきくの?」
ははは、と馬鹿みたいに笑われた。
「きみもサメみたいに騙されちゃうタイプ? 純粋なんだね!」
何がおかしいの? こんなどうでもいい話に付き合ってあげてるのに。でも、本当にどうでもよかったから、私も、ははっと笑っておいた。
後から、私がお人形のように可愛いから、心を樹の上で日向ぼっこさせて、そのまま置き忘れて来てるんじゃないかと思った、と言われた。
日向ぼっこなんか嫌い。日光は嫌い。
だけど半分当たり。私の心はいつもここにはなくて、私の黒薔薇の部屋にある。
昼間ホテルに行って数時間を過ごした。冴えない芋虫はシーツに包まる蛹になってドロドロに溶けた。
そして夜中を過ぎる頃、黒薔薇の部屋で羽化する。液晶画面の虹色の光に照らされた艶々の花びらに囲まれて、しわしわしている紙製の金色の羽をゆっくり伸ばして――
ある日、ドロドロになった蛹の記憶が、足首に浮きあがって教えてくれた。
小さな二つの瘡蓋は、もう綺麗な皮膚に戻ることはないって。あの嫌な痒みはいつの間にか収まっていたけど、瘡蓋は固く盛り上がってずっとある。これは、瘡蓋じゃなくて、傷痕だからだ。
やっぱり私、吸血鬼に噛まれてたんだ。今どきの吸血鬼は血の代わりに、お金を吸い上げるから。印をつけられた私もやっぱり吸血鬼になっちゃってて、誰かの血を吸って生きている。
お母さんも、私と同じだった。お父さんの血を吸い尽くして捨てた――
だけど私はあの人よりはマシ。お父さんを破産させるほど浪費したりしない。ブランド品も宝石も欲しくない。本当に好きなモノ、だけど安いモノしか買わない。
さんざん浪費してお父さんに借金させて、自分はどこかへ逃げてしまった。そのくせ私の誕生日には高価なブランド品を送ってくる。私はこんなもの欲しくないのに。
だけど今は少しだけ感謝してる。お母さんのくれるブランド品は、オークションやフリマアプリで高い値段がつくって分かったから。買取サイトで売るよりもずっと高く売れるの。
それから誰かとホテルへ行くときは、その人の足首に犬歯をたてることにした。私の印をつけておく。
これは私のモノ。
これで安心。
一番大好きな黒薔薇の指輪がひび割れて壊れてしまっても。
あんなにたくさん買った指輪のメッキが剥げて汚くなってしまっても。
黒いワンピースが色褪せてみすぼらしくなってしまっても。
ぜんぶ捨てて、また買えばいいんだもの。
同じモノをずっと持ち続けるなんて、そんな退屈なことするよりずっといい。一緒に年をとる、皺くちゃなモノなんていらない。
可愛らしさは鮮度が大事。新陳代謝が命なの。安物の大量生産品なら、いつだって似たようなモノが手に入る。
こうしていつだって取り替えて、繰り返し生きていける。
永遠の時間を、私の可愛いモノたちといっしょに――
だけど最近、また、足首が痒い。
「これとこれ、どっちがいい? 好きな方を買ってあげる」
だけど、欲しいモノを買う権利はくれなかった。
買ってもらえるか、もらえないかの二択。どっちも嫌といえば、袖や丈の短くなったお洋服をずっと着ていなくちゃいけない。それで「本当にあなたはそれが好きねぇ」とあきれ顔で言われるの。好きで着てるんじゃないのに。
だから、AかB、どちらかを選ばなくちゃいけない。
たとえ、好きじゃなくても――
大手チェーンのカフェで、ふさふさと育っているマッサンゲアナの緑の葉を眺めながら、お母さんのくれた教訓を思い出していた。
テーブルを挟んで向かい合うおじさんに視線を戻し、上目遣いにそっと見上げる。
お金を手に入れるか、諦めるか。
選択肢はこの二択。
子どもの頃、衣食住の問題は切実で、その内容が好きかどうかは二の次だった。
だけど今は――
自分で好きなモノを選べるの。本当に欲しいモノを買える。
黒薔薇の蕾のような私の部屋に、素敵なドレッサーを置きたい。そして天井にキラキラのシャンデリアを取り付けるの。蝋燭のような仄暗い灯りを燈したら、濡羽色に光る壁がどんなに映えるだろう――
想像するだけでぞくぞくする。快感に心臓の鼓動も早くなる。
こうやって好きなモノだけで頭をいっぱいにしておけば、目の前のこの男にちっとも好感が持てないことなんか、大した問題じゃなくなる。気持ち悪いものはぜんぶ外の世界のもの。私には関係ない。
新作のワンピースも欲しいし、レースアップパンプスも、もうカートに入れてある。大切なのは、お値段が折り合うこと。それだけ。払えるだけの収入があればいい。別に贅沢なんて望んでないもの。他の子たちみたいに高いブランド品なんていらない。身の丈にあった幸せしか望んでない。
「猿とサメの昔話、知ってる?」
ぽっ、とそこだけが耳に入ってきた。
何の話をしてたっけ――
「兎とサメじゃなくて?」とりあえず、それっぽく返すしかない。
「似てるけど違うんだなぁ。兎と同じように猿もサメを騙すんだけどね。猿は、仲良くなったサメに海原に連れ出されてから、生肝が欲しいって、サメの思惑を知らされるんだ」
ねっとりした、にやけた声。
「猿がサメに騙されたの? 騙したんじゃなくて?」と、愛想笑いでもしておけばいいかな。
「それはこれからだよ。海の上で騙されたことに気づいて、このままでは殺されると思った猿はね、いいお天気だから肝は樹の上に干してきた、と言って、難なく陸に帰してもらうんだよ」
「肝ってレバーのことよね、なんでそんなもの欲しがるのかな」
「猿の生肝は薬になるって言い伝えがあったんだよ」
「ふうん……。猿の肝って取り外しがきくの?」
ははは、と馬鹿みたいに笑われた。
「きみもサメみたいに騙されちゃうタイプ? 純粋なんだね!」
何がおかしいの? こんなどうでもいい話に付き合ってあげてるのに。でも、本当にどうでもよかったから、私も、ははっと笑っておいた。
後から、私がお人形のように可愛いから、心を樹の上で日向ぼっこさせて、そのまま置き忘れて来てるんじゃないかと思った、と言われた。
日向ぼっこなんか嫌い。日光は嫌い。
だけど半分当たり。私の心はいつもここにはなくて、私の黒薔薇の部屋にある。
昼間ホテルに行って数時間を過ごした。冴えない芋虫はシーツに包まる蛹になってドロドロに溶けた。
そして夜中を過ぎる頃、黒薔薇の部屋で羽化する。液晶画面の虹色の光に照らされた艶々の花びらに囲まれて、しわしわしている紙製の金色の羽をゆっくり伸ばして――
ある日、ドロドロになった蛹の記憶が、足首に浮きあがって教えてくれた。
小さな二つの瘡蓋は、もう綺麗な皮膚に戻ることはないって。あの嫌な痒みはいつの間にか収まっていたけど、瘡蓋は固く盛り上がってずっとある。これは、瘡蓋じゃなくて、傷痕だからだ。
やっぱり私、吸血鬼に噛まれてたんだ。今どきの吸血鬼は血の代わりに、お金を吸い上げるから。印をつけられた私もやっぱり吸血鬼になっちゃってて、誰かの血を吸って生きている。
お母さんも、私と同じだった。お父さんの血を吸い尽くして捨てた――
だけど私はあの人よりはマシ。お父さんを破産させるほど浪費したりしない。ブランド品も宝石も欲しくない。本当に好きなモノ、だけど安いモノしか買わない。
さんざん浪費してお父さんに借金させて、自分はどこかへ逃げてしまった。そのくせ私の誕生日には高価なブランド品を送ってくる。私はこんなもの欲しくないのに。
だけど今は少しだけ感謝してる。お母さんのくれるブランド品は、オークションやフリマアプリで高い値段がつくって分かったから。買取サイトで売るよりもずっと高く売れるの。
それから誰かとホテルへ行くときは、その人の足首に犬歯をたてることにした。私の印をつけておく。
これは私のモノ。
これで安心。
一番大好きな黒薔薇の指輪がひび割れて壊れてしまっても。
あんなにたくさん買った指輪のメッキが剥げて汚くなってしまっても。
黒いワンピースが色褪せてみすぼらしくなってしまっても。
ぜんぶ捨てて、また買えばいいんだもの。
同じモノをずっと持ち続けるなんて、そんな退屈なことするよりずっといい。一緒に年をとる、皺くちゃなモノなんていらない。
可愛らしさは鮮度が大事。新陳代謝が命なの。安物の大量生産品なら、いつだって似たようなモノが手に入る。
こうしていつだって取り替えて、繰り返し生きていける。
永遠の時間を、私の可愛いモノたちといっしょに――
だけど最近、また、足首が痒い。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる