【完結】天才パティシエは年下彼氏の忠実な犬になりたい

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一章

2.帰国の実感

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 恭一がまず最初に訪れたのはこれからシェフ・パティシエとして働く店だった。
 恭一の荷物は少ない。特に趣味といえる趣味もなければ、ずっと菓子作り一筋でそれ以外に興味を持ったものがなかったからだ。服は着られればいいと、ブラックデニムのパンツに白いシャツを毎日着ていた。夏になればシャツがTシャツに変わるだけだ。だから日本に帰ってくるというのに、大きなキャリーケースではなくボストンバッグ一つで足りた。調理器具や製菓に必要なもの、勉強やアイディアを書き留めたノートなどは全て空輸で送っている。
 手持ちの荷物が少ないというのはいい。多ければ一旦新居へ荷物を置きに行き、それからでないと何の行動もできないからだ。電車に乗るのも一苦労で、重くて階段を上がれないなんてことになったら面倒だ。普段の荷物よりは大きいが、ボストンバッグ一つであれば、このまま直接店へ向かうこともできる。

 ここか。
 最寄駅からは徒歩で五分ほど、恭一はスマホでかかった時間を確認した。まだ店は建てている途中で看板も取り付けられていない。工事をしている業者の人に声をかけて中を見せてもらうことにした。
 この店で働くという証明の書類を持ってきたんだが、内容がフランス語で書かれており、業者の人には読めないようだった。だが店のマークだけは認識できたようで、無事中を見せてもらうことができた。
 外観はだいたいできているが、調理機器は運び込まれたばかりで、まだ傷防止のビニールをかぶっている。配線が途中のようで、まだ使うことはできない。
 今日は店長となるアルマン・カスタニエは来ていないようだ。

 ここが職場となるのだと思うと恭一は少し緊張した。
 恭一はフランスではそれほど高い評価を受けていたわけではない。オーナーが恭一を選んだのは日本人だからだと思っている。フランスの本店で出していた菓子を出しても日本人に受けるとは限らない。だから自分が選ばれた。言語の壁というものもあるだろう。
 オーナーの期待に応えられるか、不安だがやるしかない。
 この店を繁盛させて、そしていつか彼に見つけてもらえるように。

 店舗でできることはまだ無い。カスタニエと相談しながらオープンを目指すことになる。まずは店の周辺の調査から始めることになるんだろう。客層に合わせてメニューも考えていかなければならない。ターゲットとなる客層の調査についてはカスタニエに任せるとしても、何もしないわけにはいかない。
 開店前にはオーナーも来ると聞いているが、この感じだと開店までには一ヶ月ほどかかるのではないかと思った。

 久々の日本だが、地元ではないため懐かしさはあまりない。コンビニやスーパーに入れば、聞きなれた日本語が耳に入ってくるし、商品名も日本語だからその点は気が楽だった。
 新居に向かうと、管理人から鍵を受け取る。ありがたいことに、フランスから送った荷物は全て管理人が受け取って部屋に入れておいてくれた。
 部屋に入れただけで、家具や家電の設置などは自分でやらなければならないが、荷物が届く時間に家にいなくてもいいというのはとても楽だ。

 部屋に入ると窓を開け、荷物を開封した。
 俯き加減になると、胸の上の辺りまで伸びた髪がハラリと肩から滑り落ちてきて邪魔だ。取れかけたパーマを最後にかけたのはいつだったか。髪を縛るゴムが見当たらず、仕方なくボストンバッグからボールペンを取り出し、適当に髪を纏めてかんざしのように刺して止めた。
 開けたのは製菓に必要なものが入っているダンボールだけだ。今日のうちに届くよう手配しておいた冷蔵庫や洗濯機はまだ届いていなかった。

 ダンボールの中から一つの箱を手に取る。遠い昔に作ったジンジャーマンクッキーの型が入った箱だ。
 これだけはずっと手放せなかった。フランスに行く時にお守り代わりに持っていったほどだ。向こうにいた時にも、一度も使ったことはない。あれ以来使ってはいないが、もう無理だと心が折れそうになる度にこのクッキー型に勇気をもらった。

 その後は管理人に聞き、電気、ガス、水道の開通の手続きをして、キッチンに製菓の器具などをしまっていると、家電とベッドが届いた。エアコンは備え付けだが、照明がない。どうせ寝るだけだ、明日でいいか。幸いトイレと風呂と玄関には照明があったから夜中に困ることもないだろう。
 家電は冷蔵庫と洗濯機しかない。電子レンジやオーブンは実物を見て決めたかったから、まだ買っていない。ベッドが届いてすぐに布団も届いたから、これで今日はゆっくり眠れそうだ。

 明日は家電量販店に行くのと、カスタニエに連絡を取って今後のスケジュールを確認し、会えるようなら会いに行こうと思った。
 そんなことをしているうちに日が暮れてきたため、近所のイタリア料理の店に入った。日本語で書かれたメニューには日本にしかないメニューがいくつもある。日本に帰ってきたのだと実感したのは意外にもこのイタリア料理の店だった。
 メニューの中に明太子パスタをみつけたからだ。明太子パスタはフランスには無かった。探せばどこかしらにはあったのかもしれないが、恭一が七年住んでいる間には一度も見かけたことがない。
 恭一は母親が作る明太子パスタが好きだった。いつも作ってもらっていたのを思い出して、迷わず頼んでしまったくらいだ。その香りだけで懐かしさが込み上げて、脳裏には懐かしい実家の台所が浮かぶ。
 新幹線を使えば一時間半ほどで実家に帰れる。せっかく日本に帰ってきたのだから、実家にも一度くらい顔を出そうと思った。
 恭一は日本に帰ってきたことを噛み締めながらコンビニで日用品を買って帰路についた。

 
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