忌み正月

シマセイ

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忌み正月:影迎えの家

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新幹線と廃れかけた単線列車を乗り継ぎ、最後にバスで一時間。 僕、佐藤健一が妻の真希の実家である「隠ヶ里(かくれがさと)」に着いたときには、山嶺の向こうに冬の短い陽が沈みかけていた。

そこは、地図からも忘れ去られたような東北の山奥の集落だった。 真希と結婚して三年。不妊治療や仕事の忙しさを理由に避けてきたが、義父から「どうしても今年だけは顔を出してほしい」と懇願され、断りきれなかったのだ。

「……ねえ、健一さん。この村にはね、少し変わったお正月のルールがあるの」

バス停から家までの暗い道すがら、真希がボソリと呟いた。 彼女の声は、普段の明るさが嘘のように冷えていた。

「ルール?」 「うん。三が日は、鏡を見ちゃいけない。それから、夜に誰かに名前を呼ばれても、三回目までは返事をしてはいけないの」

「なんだ、よくある田舎の迷信じゃないか」と僕は笑ったが、真希の横顔は笑っていなかった。

真希の実家は、築百年は経っていそうな古めかしい長屋門のある屋敷だった。 出迎えた義父と義母は、異様に痩せていた。頬がこけ、眼窩が落ちくぼんでいる。 だが、僕たちを見るなり、彼らは薄気味悪いほど満面の笑みを浮かべた。

「よく来た、健一君。待っていたよ、本当に」

義父の握る手は、氷のように冷たく、そして不自然なほど力が強かった。

その夜の食事は、豪華だがどこか異質だった。 黒い塗りの膳に並べられたのは、真っ赤に染められた餅と、見たこともないような深海魚の煮付け。 そして、膳の隅には必ず「空席」が一つ設けられていた。

「お父さん、これは?」 僕が空席を指すと、義父は箸を止めてこちらを凝視した。

「それは『影様(かげさま)』の席だ。この村では、正月に亡くなった身内を一人だけ、あの世から呼び戻すことができる。そのための席だよ」

死者を呼び戻す。 そんな馬鹿げた話があるものかと思ったが、部屋の隅にある仏壇の奥から、ガリガリと何かを掻くような音が聞こえ、僕は背筋が凍るのを感じた。

食後、僕は用意された客間で横になった。 古い家特有の、埃とカビ、そして何かが腐ったような匂いが鼻をつく。 真希は「用事がある」と言って、義父母と共に奥の部屋へ消えたきり戻ってこない。

深夜。ふと目が覚めた。 猛烈な喉の渇きを感じ、僕は廊下へ出た。 廊下は真っ暗で、一歩踏み出すごとに床板が悲鳴のような音を立てる。

台所へ向かおうとした時、真希が言っていた「鏡を見てはいけない」という言葉を思い出した。 洗面所を通りかかった際、そこにある大きな姿見には、確かに厚い風呂敷が被せられていた。

しかし、その風呂敷が、不自然に揺れていた。 まるで、鏡の向こうから誰かが布を掴んで揺らしているかのように。

僕は逃げるように台所へ駆け込み、水道の蛇口を捻った。 冷たい水を喉に流し込んでいると、背後の暗闇から声がした。

「……健一さん……」

真希の声だった。 僕は振り返ろうとしたが、思い出した。「三回呼ばれるまでは返事をしてはいけない」というルールを。

「……健一さん……」

二回目。声はすぐ耳元まで近づいていた。 その声には、真希の優しさは微塵もなく、ただ空洞に響くような虚ろな響きがあった。

「…………健一……さん…………」

三回目。 僕は、返事をしてしまった。 恐怖のあまり、「真希、そこにいるのか?」と。

その瞬間、家中の空気が凍りついた。 ガタン、と洗面所の方で大きな音がした。風呂敷が床に落ちた音だ。

僕は吸い寄せられるように、洗面所へと戻った。 見てはいけない。そう思えば思うほど、視線は鏡へと向かう。

鏡の中には、僕がいた。 しかし、僕の後ろに、もう一人の僕が立っていた。 そいつは、皮を剥がされたような真っ赤な顔をして、耳元まで裂けた口でニタリと笑った。

『身代わり、見つけた』

鏡の中の「僕」が、僕の首に手をかけた。

「健一さん! 健一さん、しっかりして!」

真希の声で目が覚めた。 気がつくと、僕は洗面所の床に倒れていた。時刻は元旦の朝。 窓の外には眩しいほどの雪景色が広がっている。

「……夢、だったのか?」 「そうよ。ひどいうなされていたから心配したわ」

真希はいつものように微笑んでいた。義父母も甲斐甲斐しく僕を世話し、お雑煮を振る舞ってくれた。 昨夜のあの不気味な感覚は、慣れない環境と疲れが見せた幻想だったのだと、僕は自分を納得させた。

だが、三が日が過ぎ、東京へ帰る準備をしていた時だ。 僕は自分の違和感に気づいた。

まず、味がしなくなった。 何を食べているのか、砂を噛んでいるような感覚しかない。 次に、音が遠くなった。 真希の声も、街の喧騒も、水の底で聞いているように籠もっている。

そして極め付けは、自分の「影」だった。 冬の陽光に照らされた僕の影は、僕の動きと微妙に、コンマ数秒だけズレて動いていた。

「真希、なんだか体の調子が悪いんだ」 駅へ向かう車の中で、僕は運転席の真希に告げた。

真希は前を向いたまま、静かに答えた。 「そう。でも、大丈夫。すぐ慣れるわよ」

「慣れるって、何を?」

真希はゆっくりと車を路肩に止めた。 彼女は、今まで見たこともないような、冷酷で憐れみに満ちた瞳で僕を見た。

「健一さん。隠ヶ里の『影迎え』はね、死者を呼び戻すだけじゃないの」 「……え?」

「向こうから一人呼ぶには、こっちから一人、差し出さなきゃいけない。等価交換なのよ」

心臓の鼓動が激しくなる。だが、その鼓動の音すら、僕の耳には届かない。

「お父さん、本当は去年の秋に亡くなってたの。でも、村の跡取りとして、どうしてもこの正月まではいてもらわなきゃ困るから。だから……ごめんなさい」

「何を……何を言ってるんだ! 真希!」

叫ぼうとした。だが、口から出たのは言葉ではなく、カチカチという乾いた音だけだった。 バックミラーを見ると、そこに映っているのは僕ではない。 あの夜、鏡の中にいた、顔の皮を剥がされたような真っ赤な怪物が、僕の服を着て座っていた。

「あ……あ……」

僕の意識が急速に遠のいていく。 足元から黒い影が這い上がり、僕の全身を飲み込んでいく。

「大丈夫よ。あなたは『影様』として、来年までうちの仏壇でゆっくり休んで。来年、また別の誰かが村に来たら、その時に入れ替われるから」

真希は、慣れた手つきで車を走らせた。 僕の隣には、いつの間にか「義父」が座っていた。 死んだはずの義父は、健康的な血色を取り戻し、楽しそうに鼻歌を歌っている。

「いい正月だったなあ、真希」 「そうね、お父さん」

二人の会話を、僕はただ、影の中から見つめることしかできなかった。 僕の体は、今、僕ではない「何か」が動かしている。

東京のマンションに戻れば、あの偽物の僕が、僕のふりをして会社に行き、僕のふりをして生活を始めるのだろう。 そして僕は、真っ暗な隠ヶ里の仏壇の中で、一年の間、空腹と孤独に耐えながら待つのだ。

次の「身代わり」が来るのを。

正月が終わる頃。 東京のあるマンションの一室で、一人の男が鏡を見ていた。 男は自分の顔を不思議そうに触り、やがて不気味な笑みを浮かべた。

「……よし、次はもっとうまくやろう」

男の足元には、影がなかった。
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