【完結】翠玉の森

シマセイ

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第一話:森の掟と都の夢

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フィンの住む「翠玉の森」は、古(いにしえ)からの叡智と自然の摂理によって守られた、エルフたちの聖域だった。

木々は天を衝くように伸び、その枝葉は陽光を浴びて輝き、まるで宝石のようにきらめく。

清らかな小川がせせらぎ、苔むした岩々が点在する森の中は、常に静寂と神秘的な雰囲気に包まれていた。

ここに住むエルフたちは、自然と調和し、厳格な掟に従って暮らしている。

変化を嫌い、古き良き伝統を重んじる。

それが、翠玉の森のエルフたちの生き方だった。

しかし、フィンはその掟に息苦しさを感じていた。

彼は、他のエルフたちとは少し、いや、かなり違っていた。

銀色の髪は風になびき、瞳は森の奥深くと同じ、吸い込まれそうな翠色(すいしょく)をしている。

すらりとした体躯は、確かにエルフのそれだ。

だが、彼の心は常に森の外へと向いていた。

「今日も弓の稽古か…気が重いな」

フィンは、森の訓練場へ向かう足取りが重かった。

エルフにとって弓術は、狩猟のため、そして森を守るための必須技能だ。

多くのエルフが、まるで体の一部であるかのように弓を操り、百発百中の腕前を誇る。

しかし、フィンは違った。

何度練習しても、矢は的を大きく外れ、時にはあらぬ方向へ飛んでいく始末。

教官である古老のエリオンは、いつもため息をつきながらフィンを見ていた。

「フィンよ、もう少し集中できんのか。
弓は心で射るものだぞ」

「はい、分かっています。
でも…」

フィンは言い淀む。

心が、どうしても弓に向かないのだ。

彼の興味は、弓の弦の張り具合や風向きを読むことよりも、もっと別の場所にあった。

訓練が終わると、フィンはそそくさとその場を離れた。

次は薬草の採取の時間だが、それも得意ではない。

どの草がどの効能を持つのか、見分けるのは苦手だった。

他のエルフたちが手際よく薬草を摘んでいく中、フィンはただぼんやりと遠くの山並みを眺めていた。

(人間の都は、今頃どんな様子だろうか…)

フィンが憧れているのは、旅人から伝え聞く人間の都「アステリア」の姿だった。

石畳の道、高くそびえる建物、色とりどりの旗、そして何よりも、活気に満ちた人々の喧騒。

エルフの森とは何もかもが違う、自由で華やかな世界。

噂によれば、そこにはエルフにはない魔法や技術があり、見たこともないような品物で溢れているという。

「いいなぁ、アステリア。
きっと毎日が新しい発見でいっぱいなんだろうな」

フィンは、こっそりと隠し持っていた古びた羊皮紙を取り出した。

それは、以前森に迷い込んできた人間の商人が落としていった、アステリアの地図だった。

粗末な絵ではあったが、フィンにとっては宝物だ。

指で地図をなぞりながら、想像を膨らませる。

広場には大道芸人がいて、市場には珍しい食べ物が並び、夜には美しい音楽が流れる…。

そんな空想にふけっていると、不意に背後から声がかかった。

「フィン、またそんなものを見ているのか」

振り向くと、幼馴染のリーナが呆れたような顔で立っていた。

彼女はフィンとは対照的に、弓の名手であり、薬草の知識も豊富で、エルフの模範のような存在だった。

「リーナ。
別にいいじゃないか、僕の自由だろ」

「自由、自由って…あなたはエルフとしての自覚が足りないわ。
森の掟は、私たちを守るためにあるのよ。
人間の都なんて、危険で、不確かなものばかりよ」

リーナは心配そうに言う。

彼女はフィンのことを気にかけているのだ。

変わり者だと揶揄されるフィンを、いつも庇ってくれる優しい幼馴染。

「分かってるよ。
でも、知らない世界を知りたいと思うのは、そんなに悪いことかな?」

「…悪くはないけれど。
あなたはもっと、エルフとしての役割を考えるべきよ。
弓の腕も、採取の知識も、いつかきっと役に立つ時が来るわ」

「役に立つ時ねぇ…」

フィンは曖昧に頷いたが、心の中では反発していた。

(僕には、僕にしかできないことがあるはずだ)

フィンは、弓や採取は苦手だったが、他のエルフにはない才能を持っていた。

それは、人一倍強い好奇心と、飽くなき探求心だ。

彼は、森の誰も足を踏み入れないような奥深くを探検するのが好きだった。

古い遺跡を見つけたり、珍しい生き物を観察したり、誰も知らない秘密の抜け道を発見したり。

そんな時、フィンの瞳は生き生きと輝く。

教科書的な知識よりも、自分の目で見て、手で触れて、確かめること。

それが、フィンの学び方だった。

ある日の午後、フィンはいつものように森の奥深くへと足を踏み入れていた。

長老たちからは「危険だから近づくな」と固く禁じられている、古代遺跡の近くまで来てしまった。

苔むした石柱が立ち並び、崩れかけた祭壇のようなものが残っている。

かつて、ここにどんな文明があったのか、フィンは興味津々だった。

壁に残る古代文字のような模様を指でなぞっていると、ふと、森の空気が変わったことに気づいた。

いつもは穏やかな風が、妙にざわついている。

小鳥たちのさえずりも聞こえない。

代わりに、どこか不気味な静寂が森を支配していた。

(なんだ…?この感じは…)

フィンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

その時、遠くで獣の咆哮のような、しかしそれとは明らかに違う、禍々しい雄叫びが聞こえた。

それは、フィンがこれまでの人生で一度も聞いたことのない、恐ろしい響きだった。

同時に、森の木々が大きく揺れ、地面がわずかに振動したような気がした。

(まさか…)

フィンの脳裏に、古老たちが語る古い伝承が蘇った。

「闇の時代、魔族が森を侵略しようとした…」

そんな話は、遠い昔のおとぎ話だと思っていた。

しかし、今のこの不穏な空気と、不気味な雄叫びは…。

フィンは急いで遺跡を離れ、集落へと向かって走り出した。

胸騒ぎが止まらない。

何か、とてつもなく大きな、そして恐ろしい変化が、この翠玉の森に起ころうとしている。

そんな予感が、フィンの心を強く捉えていた。

エルフの掟にうんざりし、人間の都に憧れていた少年。

弓も採取も苦手な、森の異端児。

だが、彼の持つ人一倍の好奇心と探求心が、今、まさに試されようとしていた。

まだ誰も知らない脅威が、静かに森に迫っている。

フィンは、走りながら強く思った。

(僕が、この森で何ができるだろうか…? いや、何かをしなければならない)

彼の翠色の瞳に、これまでとは違う、強い光が宿り始めていた。

それは、エルフとしての使命感とは少し違う、未知への挑戦に対する、彼自身の内なる声だったのかもしれない。

翠玉の森に、変革の風が吹こうとしていた。

そしてその風の中心に、変わり者のエルフ、フィンが立とうとしていることを、まだ誰も知らなかった。
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