【完結】グランヴェルの薔薇

シマセイ

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第二話:ひび割れた仮面

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イザベラの言葉は、冷たい毒のように私の全身に広がっていった。
一瞬、何を言われたのか理解できず、ただ目の前の美しい顔を見つめることしかできない。

「……面白い、関係……?」

かろうじてオウム返しに呟く私を見て、イザベラは満足そうに微笑みを深めた。

「ええ。何も知らずに夢を見ていられるあなたと、全てを知った上で愛される私。どちらが幸せかしらね?」

彼女は勝ち誇ったようにそう言うと、優雅に身を翻し、再び夜会の喧騒の中へと戻っていく。その背中を見送る力さえ、私には残っていなかった。

愛される、私。
その言葉が、何度も頭の中で反響する。

アルフォンス様は、私の婚約者。それなのに、あの女は『私の愛しい方』だと言った。そして、彼はその女の腰に手を回していた。
パズルのピースが、恐ろしい絵を完成させるようにはまっていく。

誰かが私を呼ぶ声が聞こえたけれど、もう何も耳に入らなかった。
私はふらつく足で壁を伝い、侍女たちが待機している部屋へとかろうじてたどり着くと、ほとんど命令するように告げた。

「気分が悪いわ。先に部屋に戻ります」

心配する侍女の声を振り切り、私は逃げるように自室へと駆け込んだ。重い扉を閉め、鍵をかけた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。

「う……っ、ぁ……」

その場にへなへなと崩れ落ち、嗚咽が喉から漏れ出した。
夢だと思っていた。
少女の頃から憧れていた、完璧な王子様との結婚。幸せな未来。その全てが、今、目の前でガラガラと崩れていく。

アルフォンス様の優しい言葉も、甘い微笑みも、全てが偽りだったというの?
あの夜会で私に向けられていた笑顔の裏で、彼は別の女性を想っていたというの?

「ひどい……」

涙が次から次へと溢れて、高価なシルクのドレスを濡らしていく。
悔しくて、悲しくて、そして何より、そんなことに全く気づかず、一人で舞い上がっていた自分がひどく惨めだった。
イザベラの言った通りだ。私は本当に、何も知らない純粋で愚かなお嬢様だったのだ。

どれくらい泣き続けたのか、分からない。
涙が枯れ果て、頭がずきずきと痛み出した頃、私はぼんやりと窓の外に目を向けた。東の空が、少しだけ白み始めている。

夜が、終わる。

その時、ふと、胸の奥に小さな、けれど熱い光が灯るのを感じた。
それは、怒りの炎だった。

(このまま、泣いて終わりになんて、してあげない)

このまま黙って、騙されたまま、可哀想な婚約者を演じるなんて真っ平ごめんだ。
父が決めた政略結婚だからと、ただ受け入れるだけだった自分はもういない。
アルフォンス様が、そしてイザベラという女が、私にしたことの代償は、必ず払わせてみせる。

私は濡れた頬を乱暴に拭うと、震える足で立ち上がった。
鏡に映った自分の顔は、泣き腫らしてひどい有様だったけれど、その瞳の奥には、今までにない強い光が宿っているのが分かった。



翌日の午後、私は少しでも気分を落ち着けようと、屋敷の庭園を散歩していた。
昨夜のことは侍女のアンナにだけ「少し体調を崩した」と伝え、父には知られないように口止めしてある。

薔薇のアーチをくぐり抜けた先にある中庭で、剣を振るう音が聞こえた。
見ると、訓練用のシャツ一枚になったレオンが、一心不乱に木剣を振るっている。彼の額や首筋には、玉のような汗が光っていた。

私の足音に気づいたのか、レオンがぴたりと動きを止め、こちらを振り返る。

「アデリナ……。体は、もういいのか?」

彼の黒い瞳には、気遣いの色が浮かんでいた。

「ええ、大丈夫よ。少し眠ったらすっかり良くなったわ」

「そうか。良かった」

そう言って微笑むレオンの顔を見ると、昨夜ささくれだった心が少しだけ穏やかになるのを感じる。
彼に嘘をつくのは、いつも少しだけ胸が痛んだ。

「昨日は、ごめんなさい。途中で、あんな風に……」

「気にするな。顔色、本当に悪かったからな。でも、公爵様がついていながら、お前が一人で廊下にいたのは少し気になった」

レオンの言葉に、心臓がどきりとする。

「アルフォンス様は、その……他のお客様と、お話が……」

言い訳のようにそう口にすると、レオンはどこか遠い目をして、ぽつりと呟いた。

「……公爵様は、完璧な人だ。家柄も、見た目も、剣の腕も。俺なんかじゃ、到底かなわない」

自嘲するようなその言葉に、私は何も言えなかった。
以前の私なら、「そんなことないわ」と明るく励ませたかもしれない。でも、今は違った。
彼の完璧な仮面の下にある、醜い裏切りを知ってしまったから。

「だけど」

レオンは私の方をまっすぐに見つめ直した。その瞳は、どこまでも真摯で、私の心の奥まで見透かすようだった。

「もし、お前が泣いていたら、俺はどんな相手だろうと許さない。お前を傷つけるものは、俺が全部斬り捨てる。それだけは、忘れないでくれ」

それは、騎士の誓いにも似た、力強い言葉だった。
アルフォンス様の甘い愛の囁きよりも、ずっと、ずっと、私の心に深く響いた。
この人は、本当に私のことを大切に想ってくれている。身分も、家の利益も関係なく、ただ一人の人間として。

その温かさに触れて、また涙が出そうになるのを、ぐっと堪えた。

「ありがとう、レオン。……あなたの言葉、忘れないわ」

私がそう微笑み返した、まさにその時だった。

「おや、二人で何を話しているんだい?楽しそうだね」

背後から聞こえたのは、聞きたくなかった声。
振り返ると、完璧な笑みを浮かべたアルフォンス様が、従者も連れずに一人で立っていた。

「アルフォンス様……!」

驚く私とは対照的に、レオンはさっと姿勢を正し、騎士としての礼を取る。

「これは、ヴァリエール公爵閣下。失礼いたしました」

「構わないよ、レオン君。訓練熱心で感心だ」

アルフォンス様は鷹揚にそう言うと、私の隣まで歩み寄る。そして、まるで昨夜のことなど何もなかったかのように、私の手を優しく取った。

「昨夜はすまなかったね、アデリナ。急な使いが来てしまって、君を一人にさせてしまった。寂しい思いをさせただろう?」

その甘い声も、心配そうな表情も、全てが巧みな演技なのだと思うと、吐き気すら覚えた。
私は彼の嘘を、冷めた頭で見つめていた。

(寂しい思い?いいえ、アルフォンス様。私が感じたのは、そんな綺麗な感情ではありませんわ)

心の中でそう毒づきながらも、私は淑女の仮面を貼り付ける。

「いいえ、とんでもないですわ。公爵様もお忙しいのですから。私も少し疲れてしまって、早めに休ませていただいたのです」

「そうか。君が元気なら良かった」

彼は心底安心したように微笑む。その完璧な仮面には、ひび一つ入っていない。
今はまだ、この仮面をこじ開けることはできない。彼を問い詰めるだけの証拠も、力も、私にはないのだから。

私はにっこりと微笑み返し、彼の腕からそっと自分の手を引き抜いた。

「今日はお越しくださって、ありがとうございます。でも、これから父と話すことがありますので、これで失礼いたしますわ」

それは、丁寧な、しかし明確な拒絶だった。
一瞬、アルフォンス様の青い瞳に、意外そうな色が浮かんだ気がした。いつも彼の言うことを素直に聞いていた私が、自ら会話を打ち切ったのだから当然かもしれない。

レオンに軽く会釈をし、私はアルフォンス様に背を向けて、屋敷の中へと歩き出す。

もう、彼の隣で微笑むだけの、無力な人形ではいられない。

自室に戻った私は、すぐに信頼できる侍女のアンナを呼んだ。

「アンナ、あなたにお願いがあるの」

「なんでしょうか、お嬢様」

私は決意を込めた目で、まっすぐにアンナを見つめた。

「イザベラ、という名前の女性について調べてほしいの。貴族なのか、どこの家の者なのか……どんな些細なことでもいい。彼女に関する情報を、全て集めてちょうだい」

ただ守られるだけのお嬢様は、昨日の夜に死んだ。
今日からは、私が戦う番だ。
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