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第八話:祭りのあと
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父による婚約破棄宣言が、私の復讐劇の終わりを告げる鐘の音だった。
あれほど熱気に満ちていたホールは、一転して騒然とした混乱に包まれる。私は、その喧騒をどこか遠くに聞きながら、レオンに腕を引かれるまま、人々の視線から逃れるようにその場を後にした。
自室に戻ると、待ち構えていたアンナが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
彼女は手早く、しかし優しい手つきで、私の髪から白薔薇の飾りを外し、首から重いネックレスを外していく。まるで、戦いを終えた騎士から、血に濡れた鎧を剥がしていくかのように。
純白のドレスを脱ぎ捨て、簡素な部屋着に着替えた瞬間、張り詰めていた全身の力が抜け、どっと疲労感が押し寄せてきた。
私は、椅子に深く身を沈める。
アンナが下がった後、部屋には私とレオンの二人だけが残された。部屋の隅に立ったままの彼は、複雑な表情で、ただ黙って私を見つめている。
気まずい沈黙が、重くのしかかる。
その沈黙を破ったのは、レオンだった。
「……いつからだ」
彼の声は、ひどく掠れていた。
「いつから、一人でこんなことを……考えていたんだ」
もう、隠す必要も、演じる必要もなかった。
私は、あの偽りの婚約披露夜会でイザベラと対峙した日から、今日までのことを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。宝飾店での出来事、令嬢たちのお茶会での腹の探り合い、そして、父の誕生夜会を利用した、この復讐計画の全てを。
私の話を聞き終えたレオンは、苦しげに顔を歪めた。
「そんなことになっていたなんて……。俺は、何も気づかずに……」
彼は自分の拳を、ぎゅっと握りしめる。
「なぜ、俺に話してくれなかった。お前がたった一人で苦しんでいる時に、俺は……お前を突き放すようなことまで言った。最低だ」
その後悔に満ちた言葉に、私は静かに首を横に振った。
「ううん。言わなかったのは、私よ」
私は立ち上がり、彼の前に進み出る。
「あなたを、巻き込みたくなかったの。これは、ヴァリエール公爵家とグランヴェル家の問題である前に、私の、私自身の尊厳をかけた戦いだったから。だから、誰にも頼らず、自分の力でやり遂げたかった」
それが、私の精一杯の強がりであり、彼に対する不器用な優しさだった。
レオンは私の瞳をじっと見つめ、やがて、諦めたように息をついた。
「……お前は、変わったな、アデリナ。もう、俺が知っている、泣き虫のお前じゃない」
「そうね。もう、泣いているだけではいられないもの」
二人の間にあった誤解の壁は、静かに溶けていった。
けれど、その壁がなくなった場所に、以前と同じような無邪気な空気が戻ることはなかった。
私たちは、もうあの頃の幼馴染には戻れないのだと、互いに悟っていた。私は、ただ守られるだけのお姫様ではなくなってしまったのだから。
翌日の昼過ぎ、私は父の書斎に呼ばれた。
父は、重々しい表情で肘掛け椅子に座っていた。
「昨夜のことは、全て聞いた」
父は静かにそう切り出した。私は、どんな言葉で叱責されるのかと、身を固くする。
だが、父の口から出たのは、意外な言葉だった。
「お前のやり方は、あまりに過激で危険すぎた。一歩間違えれば、お前自身が破滅していたかもしれん。……だが」
父は、そこで言葉を切ると、厳しいながらも、どこか誇らしげな目で私を見た。
「お前は、グランヴェル家の誇りを守り、己の尊厳を守り抜いた。よくやった、アデリナ」
それは、娘の成長を認める、父親としての言葉だった。
しかし、父はすぐに表情を引き締める。
「だが、これで全てが終わったと思うな。ヴァリエール公爵家は、このまま黙って引き下がるような家ではない。特に、アルフォンスの父である先代公爵は、執念深い男だ。しばらくは、十分に気をつけるのだぞ」
父の警告は、私の勝利が、新たな戦いの始まりに過ぎないことを示唆していた。
その後の数日間で、あの夜のスキャンダルは、燎原の火のように王都中を駆け巡った。
アンナが聞き集めてきた情報によれば、アルフォンス様は先代公爵の怒りを買い、ヴァリエール家の屋敷で謹慎処分となり、社交界から完全に姿を消したという。
そして、全てのパトロンを失ったイザベラは、王都から夜逃げ同然に姿を消し、その行方は誰も知らないらしかった。
私の名前は、良くも悪くも、王都中の誰もが知るところとなった。
『悲劇のヒロイン』として同情する者、『婚約者を破滅させた悪女』として恐れる者、『その手腕は見事だ』と賞賛する者。
私を見る人々の目は、一夜にして変わってしまった。
全てが終わり、全てが変わってしまった。
そんな目まぐるしい日々が過ぎ、ようやく屋敷に平穏が戻ってきたかのように見えた、ある日の午後。
一通の手紙が、私宛に届けられた。
上質な羊皮紙でできた、見慣れない封筒。しかし、そこには差出人の名前がどこにも書かれていなかった。
不審に思いながらも、私はペーパーナイフで封を切る。
中に入っていたのは、たった一枚の紙片だけ。
そして、そこには、インクで震えるように、こう書かれていた。
『黒薔薇は、まだ枯れていない』
その不気味な一文を目にした瞬間、私の背筋を、ぞくりと冷たいものが走った。
復讐は、終わっていなかった。
アルフォンス様でも、イザベラでもない。
私の知らない、第三の敵意。
祭りのあとの静けさは、新たな嵐の前の、ほんの束の間の凪に過ぎなかったのだ。
あれほど熱気に満ちていたホールは、一転して騒然とした混乱に包まれる。私は、その喧騒をどこか遠くに聞きながら、レオンに腕を引かれるまま、人々の視線から逃れるようにその場を後にした。
自室に戻ると、待ち構えていたアンナが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
彼女は手早く、しかし優しい手つきで、私の髪から白薔薇の飾りを外し、首から重いネックレスを外していく。まるで、戦いを終えた騎士から、血に濡れた鎧を剥がしていくかのように。
純白のドレスを脱ぎ捨て、簡素な部屋着に着替えた瞬間、張り詰めていた全身の力が抜け、どっと疲労感が押し寄せてきた。
私は、椅子に深く身を沈める。
アンナが下がった後、部屋には私とレオンの二人だけが残された。部屋の隅に立ったままの彼は、複雑な表情で、ただ黙って私を見つめている。
気まずい沈黙が、重くのしかかる。
その沈黙を破ったのは、レオンだった。
「……いつからだ」
彼の声は、ひどく掠れていた。
「いつから、一人でこんなことを……考えていたんだ」
もう、隠す必要も、演じる必要もなかった。
私は、あの偽りの婚約披露夜会でイザベラと対峙した日から、今日までのことを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。宝飾店での出来事、令嬢たちのお茶会での腹の探り合い、そして、父の誕生夜会を利用した、この復讐計画の全てを。
私の話を聞き終えたレオンは、苦しげに顔を歪めた。
「そんなことになっていたなんて……。俺は、何も気づかずに……」
彼は自分の拳を、ぎゅっと握りしめる。
「なぜ、俺に話してくれなかった。お前がたった一人で苦しんでいる時に、俺は……お前を突き放すようなことまで言った。最低だ」
その後悔に満ちた言葉に、私は静かに首を横に振った。
「ううん。言わなかったのは、私よ」
私は立ち上がり、彼の前に進み出る。
「あなたを、巻き込みたくなかったの。これは、ヴァリエール公爵家とグランヴェル家の問題である前に、私の、私自身の尊厳をかけた戦いだったから。だから、誰にも頼らず、自分の力でやり遂げたかった」
それが、私の精一杯の強がりであり、彼に対する不器用な優しさだった。
レオンは私の瞳をじっと見つめ、やがて、諦めたように息をついた。
「……お前は、変わったな、アデリナ。もう、俺が知っている、泣き虫のお前じゃない」
「そうね。もう、泣いているだけではいられないもの」
二人の間にあった誤解の壁は、静かに溶けていった。
けれど、その壁がなくなった場所に、以前と同じような無邪気な空気が戻ることはなかった。
私たちは、もうあの頃の幼馴染には戻れないのだと、互いに悟っていた。私は、ただ守られるだけのお姫様ではなくなってしまったのだから。
翌日の昼過ぎ、私は父の書斎に呼ばれた。
父は、重々しい表情で肘掛け椅子に座っていた。
「昨夜のことは、全て聞いた」
父は静かにそう切り出した。私は、どんな言葉で叱責されるのかと、身を固くする。
だが、父の口から出たのは、意外な言葉だった。
「お前のやり方は、あまりに過激で危険すぎた。一歩間違えれば、お前自身が破滅していたかもしれん。……だが」
父は、そこで言葉を切ると、厳しいながらも、どこか誇らしげな目で私を見た。
「お前は、グランヴェル家の誇りを守り、己の尊厳を守り抜いた。よくやった、アデリナ」
それは、娘の成長を認める、父親としての言葉だった。
しかし、父はすぐに表情を引き締める。
「だが、これで全てが終わったと思うな。ヴァリエール公爵家は、このまま黙って引き下がるような家ではない。特に、アルフォンスの父である先代公爵は、執念深い男だ。しばらくは、十分に気をつけるのだぞ」
父の警告は、私の勝利が、新たな戦いの始まりに過ぎないことを示唆していた。
その後の数日間で、あの夜のスキャンダルは、燎原の火のように王都中を駆け巡った。
アンナが聞き集めてきた情報によれば、アルフォンス様は先代公爵の怒りを買い、ヴァリエール家の屋敷で謹慎処分となり、社交界から完全に姿を消したという。
そして、全てのパトロンを失ったイザベラは、王都から夜逃げ同然に姿を消し、その行方は誰も知らないらしかった。
私の名前は、良くも悪くも、王都中の誰もが知るところとなった。
『悲劇のヒロイン』として同情する者、『婚約者を破滅させた悪女』として恐れる者、『その手腕は見事だ』と賞賛する者。
私を見る人々の目は、一夜にして変わってしまった。
全てが終わり、全てが変わってしまった。
そんな目まぐるしい日々が過ぎ、ようやく屋敷に平穏が戻ってきたかのように見えた、ある日の午後。
一通の手紙が、私宛に届けられた。
上質な羊皮紙でできた、見慣れない封筒。しかし、そこには差出人の名前がどこにも書かれていなかった。
不審に思いながらも、私はペーパーナイフで封を切る。
中に入っていたのは、たった一枚の紙片だけ。
そして、そこには、インクで震えるように、こう書かれていた。
『黒薔薇は、まだ枯れていない』
その不気味な一文を目にした瞬間、私の背筋を、ぞくりと冷たいものが走った。
復讐は、終わっていなかった。
アルフォンス様でも、イザベラでもない。
私の知らない、第三の敵意。
祭りのあとの静けさは、新たな嵐の前の、ほんの束の間の凪に過ぎなかったのだ。
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