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第十三話:窮地の薔薇
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月光の下、傭兵団『鉄鼠』の頭目らしき男が、冷酷な笑みを浮かべて私を見下ろしていた。背後からは屋敷の喧騒、目の前には屈強な敵。逃げ場は、どこにもない。
「あなたには、我らが主君の元まで、ご足労願います」
男の言葉は、私に選択の余地を与えない、決定宣告だった。
しかし、恐怖で体が動かなくなる中でも、私の頭は必死で活路を探していた。ここで諦めたら、レオンも、父も、私のために戦ってくれている皆の覚悟が無駄になる。
私は、手に持った火かき棒を、震える腕で男に向けた。
その様子を見て、男は侮蔑するように鼻で笑う。
「ほう。お嬢様の遊び道具で、この俺に傷がつけられるとでもお思いか?」
「私を誰だと思っているの」
私は、虚勢だと悟られないよう、できるだけ尊大な声で言い放った。
「私はグランヴェル伯爵家が一人娘、アデリナ・グランヴェル。そして、ヴァリエール公爵家の元婚約者。私に指一本でも触れてみなさい。あなた方の雇い主であるヴァリエール家は、王家に対する反逆とみなされ、勅命によって一族郎党、取り潰されることになるわよ」
私の言葉に、男の眉がぴくりと動いた。一介の傭兵である彼にとって、王家の名は脅しとして十分に効果があるはずだ。
しかし、男はすぐにその動揺を隠し、再び冷たい笑みを浮かべた。
「ご心配には及びません。我らが主君は、事を荒立てるつもりはない。ただ、あなた様を生け捕りにするだけです。それに……『死人に口なし』という言葉もございますな。万が一の時は、あなたの口を永遠に塞げば、誰にも何も分かりはしません」
男はじり、と一歩、私との距離を詰めてくる。
その一歩が、合図だった。
力で敵わないなら、意表を突くしかない。
男が私に手を伸ばそうと、さらに一歩踏み込んできた、その瞬間。
私は火かき棒を彼に投げつけるのではなく、足元の砂利を思い切り蹴り上げた。
「なっ……!?」
咄嗟の目くらましに、男の動きが一瞬だけ止まる。
その隙を、私は逃さなかった。彼の屈強な腕の横を、小さな体ですり抜ける。馬小屋へ向かうふりをして、すぐ隣にあった礼拝堂の扉に手をかけ、中へと転がり込んだ。
「小賢しい真似を!」
背後から、男の忌々しげな舌打ちが聞こえる。
礼拝堂の中は、ステンドグラスから差し込む月の光で、青白く照らされている。並べられた長椅子や、大きな燭台、そして荘厳な祭壇。狭く、障害物の多いこの場所なら、大柄な男が大きな武器を振り回すには不利なはず。少しでも時間を稼げるかもしれない。
すぐに、男が重い足音を立てて礼拝堂に入ってきた。
「どこに隠れた、お嬢様。鬼ごっこは終わりですぞ」
私は祭壇の裏に身を潜め、息を殺す。
男は苛立ったように、近くにあった長椅子を片手で軽々と持ち上げ、壁に叩きつけた。すさまじい破壊音と共に、木片が飛び散る。
このままでは、見つかるのも時間の問題だ。
私は、祭壇の上に置かれていた、装飾の施された銀製の聖水盤に目をつけた。ずしりと重い、鈍器になりそうな代物だ。
男が祭壇のこちら側に回り込んできた、その時。
私は意を決して飛び出し、ありったけの力を込めて、その聖水盤を男の頭部に振り下ろした。
しかし、歴戦の傭兵である男は、私の動きを読んでいた。
ひらりと身をかわすと、逆に私の手首を、万力のような力で掴み上げる。
「しまっ……!」
手から滑り落ちた聖水盤が、ガシャン、と大きな音を立てて大理石の床に転がった。
「終わりですな、お嬢様」
男の冷たい声が、私の耳元で響く。万事休す。
抵抗する間もなく、私の体は軽々と担ぎ上げられた。
その、瞬間だった。
パリンッ!と甲高い音を立てて、礼拝堂の美しいステンドグラスが外から砕け散った。
夜の闇と月光を背負い、一人の黒い影が、ガラスの破片と共に礼拝堂の中へと飛び込んでくる。
それは、レオンだった。
「……アデリナから、その汚い手を離せ」
彼の体は、もはや満身創痍だった。肩や腕、足、その身にまとった制服はあちこちが切り裂かれ、おびただしい量の血を流している。立っているのがやっとのはずなのに、その瞳だけは、怒りの炎で赤く燃え盛っていた。
男は、予期せぬ闖入者に驚きながらも、すぐに嘲りの笑みを浮かべた。
「ほう、まだ息があったとはな。グランヴェル家の騎士は、随分としぶといらしい」
「もう一度言わせるな。彼女を、離せ」
レオンは剣を構え直す。だが、その切っ先は、深手を負っているせいで微かに震えていた。誰の目にも、彼が限界であることは明らかだった。
それでも、レオンは退かない。愛する者を守るため、最後の命を燃やし尽くす覚悟が、そこにはあった。
二人の間に、一触即発の空気が流れる。
その時、礼拝堂の入り口の扉が、ギイ、と音を立てて勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、誰もが予想しない人物だった。
「――遅くなったな、レオン君」
騎士用の軽装鎧を身につけ、抜き身の剣を携えた、アルフォンス・ド・ヴァリエール公爵。
かつての傲慢な微笑みは完全に消え去り、その整った顔には、氷のように冷たく、真剣な表情だけが浮かんでいた。
私の姿と、私を担ぐ傭兵、そして傷だらけのレオンを視界に収めると、彼は静かに、しかしホール中に響き渡る声で言った。
「ヴァリエールの名誉は、この俺が守る。そして、たとえ元婚約者であろうと、俺の女だった者に、下賤な傭兵が指一本触れることは許さん」
敵であるはずの、アルフォンス様。
彼が、なぜここに?
傷ついた騎士レオンと、謎の元婚約者アルフォンス。
二人の男が、私を守るように、傭兵団の頭目と対峙する。
敵と味方が入り乱れる、あまりにも奇妙で、予測不能な舞台の幕が、今、静かに上がった。
「あなたには、我らが主君の元まで、ご足労願います」
男の言葉は、私に選択の余地を与えない、決定宣告だった。
しかし、恐怖で体が動かなくなる中でも、私の頭は必死で活路を探していた。ここで諦めたら、レオンも、父も、私のために戦ってくれている皆の覚悟が無駄になる。
私は、手に持った火かき棒を、震える腕で男に向けた。
その様子を見て、男は侮蔑するように鼻で笑う。
「ほう。お嬢様の遊び道具で、この俺に傷がつけられるとでもお思いか?」
「私を誰だと思っているの」
私は、虚勢だと悟られないよう、できるだけ尊大な声で言い放った。
「私はグランヴェル伯爵家が一人娘、アデリナ・グランヴェル。そして、ヴァリエール公爵家の元婚約者。私に指一本でも触れてみなさい。あなた方の雇い主であるヴァリエール家は、王家に対する反逆とみなされ、勅命によって一族郎党、取り潰されることになるわよ」
私の言葉に、男の眉がぴくりと動いた。一介の傭兵である彼にとって、王家の名は脅しとして十分に効果があるはずだ。
しかし、男はすぐにその動揺を隠し、再び冷たい笑みを浮かべた。
「ご心配には及びません。我らが主君は、事を荒立てるつもりはない。ただ、あなた様を生け捕りにするだけです。それに……『死人に口なし』という言葉もございますな。万が一の時は、あなたの口を永遠に塞げば、誰にも何も分かりはしません」
男はじり、と一歩、私との距離を詰めてくる。
その一歩が、合図だった。
力で敵わないなら、意表を突くしかない。
男が私に手を伸ばそうと、さらに一歩踏み込んできた、その瞬間。
私は火かき棒を彼に投げつけるのではなく、足元の砂利を思い切り蹴り上げた。
「なっ……!?」
咄嗟の目くらましに、男の動きが一瞬だけ止まる。
その隙を、私は逃さなかった。彼の屈強な腕の横を、小さな体ですり抜ける。馬小屋へ向かうふりをして、すぐ隣にあった礼拝堂の扉に手をかけ、中へと転がり込んだ。
「小賢しい真似を!」
背後から、男の忌々しげな舌打ちが聞こえる。
礼拝堂の中は、ステンドグラスから差し込む月の光で、青白く照らされている。並べられた長椅子や、大きな燭台、そして荘厳な祭壇。狭く、障害物の多いこの場所なら、大柄な男が大きな武器を振り回すには不利なはず。少しでも時間を稼げるかもしれない。
すぐに、男が重い足音を立てて礼拝堂に入ってきた。
「どこに隠れた、お嬢様。鬼ごっこは終わりですぞ」
私は祭壇の裏に身を潜め、息を殺す。
男は苛立ったように、近くにあった長椅子を片手で軽々と持ち上げ、壁に叩きつけた。すさまじい破壊音と共に、木片が飛び散る。
このままでは、見つかるのも時間の問題だ。
私は、祭壇の上に置かれていた、装飾の施された銀製の聖水盤に目をつけた。ずしりと重い、鈍器になりそうな代物だ。
男が祭壇のこちら側に回り込んできた、その時。
私は意を決して飛び出し、ありったけの力を込めて、その聖水盤を男の頭部に振り下ろした。
しかし、歴戦の傭兵である男は、私の動きを読んでいた。
ひらりと身をかわすと、逆に私の手首を、万力のような力で掴み上げる。
「しまっ……!」
手から滑り落ちた聖水盤が、ガシャン、と大きな音を立てて大理石の床に転がった。
「終わりですな、お嬢様」
男の冷たい声が、私の耳元で響く。万事休す。
抵抗する間もなく、私の体は軽々と担ぎ上げられた。
その、瞬間だった。
パリンッ!と甲高い音を立てて、礼拝堂の美しいステンドグラスが外から砕け散った。
夜の闇と月光を背負い、一人の黒い影が、ガラスの破片と共に礼拝堂の中へと飛び込んでくる。
それは、レオンだった。
「……アデリナから、その汚い手を離せ」
彼の体は、もはや満身創痍だった。肩や腕、足、その身にまとった制服はあちこちが切り裂かれ、おびただしい量の血を流している。立っているのがやっとのはずなのに、その瞳だけは、怒りの炎で赤く燃え盛っていた。
男は、予期せぬ闖入者に驚きながらも、すぐに嘲りの笑みを浮かべた。
「ほう、まだ息があったとはな。グランヴェル家の騎士は、随分としぶといらしい」
「もう一度言わせるな。彼女を、離せ」
レオンは剣を構え直す。だが、その切っ先は、深手を負っているせいで微かに震えていた。誰の目にも、彼が限界であることは明らかだった。
それでも、レオンは退かない。愛する者を守るため、最後の命を燃やし尽くす覚悟が、そこにはあった。
二人の間に、一触即発の空気が流れる。
その時、礼拝堂の入り口の扉が、ギイ、と音を立てて勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、誰もが予想しない人物だった。
「――遅くなったな、レオン君」
騎士用の軽装鎧を身につけ、抜き身の剣を携えた、アルフォンス・ド・ヴァリエール公爵。
かつての傲慢な微笑みは完全に消え去り、その整った顔には、氷のように冷たく、真剣な表情だけが浮かんでいた。
私の姿と、私を担ぐ傭兵、そして傷だらけのレオンを視界に収めると、彼は静かに、しかしホール中に響き渡る声で言った。
「ヴァリエールの名誉は、この俺が守る。そして、たとえ元婚約者であろうと、俺の女だった者に、下賤な傭兵が指一本触れることは許さん」
敵であるはずの、アルフォンス様。
彼が、なぜここに?
傷ついた騎士レオンと、謎の元婚約者アルフォンス。
二人の男が、私を守るように、傭兵団の頭目と対峙する。
敵と味方が入り乱れる、あまりにも奇妙で、予測不能な舞台の幕が、今、静かに上がった。
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