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第十七話:黒薔薇の記憶
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『鉄鼠』の襲撃から、数日が過ぎた。
グランヴェル家の屋敷は、破壊された箇所の修復が急ピッチで進められ、使用人たちが慌ただしく行き交う中でも、嵐の前の、どこか張り詰めたような静けさを取り戻しつつあった。
ヴァリエール家からは、当主代行となったアルフォンス様の名で、今回の襲撃に関する丁重な謝罪と、多額の見舞金が届けられた。貴族社会の表面上は、これで一応の決着がついた形になる。
だが、私の心は、分厚い灰色の雲に覆われたまま、晴れることはなかった。
あの、黒薔薇の謎。
月夜の塀の上に現れた、あの謎の射手の姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。
私は毎日、医務室へ足を運び、レオンの看病を続けた。彼の傷は深く、まだ意識がはっきりしない時間も多かったが、侍医によれば、若い肉体と強靭な精神力のおかげで、驚異的な回復力を見せているとのことだった。
そんなある日、調査を命じていた侍女のアンナが、私の部屋へ報告にやって来た。
「お嬢様、お言付けの件ですが……」
アンナは、申し訳なさそうな顔で切り出した。
「王都中の名のある刺繍職人たちに、例の布を見せて回りました。ですが、これほど精巧で独特な刺繍に見覚えのある者は、誰一人としておりませんでした。ある老職人が言うには、これは王都の技法ではなく、もっと北の、森と共に暮らす民に伝わる特殊なものではないか、と……」
「森の民……」
「はい。そして、もう一件。イザベラという女の行方ですが、やはり全く掴めておりません。まるで、初めからこの世に存在しなかったかのように、全ての痕跡が消えております」
調査は、完全に行き詰まっていた。
手がかりが何一つないことに、私は焦りと無力感を覚えていた。
その日の午後も、私はレオンのベッドのそばで、静かに本を読んでいた。
ふと顔を上げると、レオンが、いつになくはっきりとした意識のある目で、私を見つめていることに気がついた。
「レオン!気がついたのね!」
「……ああ。もう、大丈夫だ」
まだ少し掠れていたが、その声には力が戻っていた。
私は、ずっと気になっていたことを、今こそ尋ねるべきだと決めた。
「レオン、あなたがうわ言で言っていたのを、聞いたわ。『黒い羽の矢を見たことがある』って。あれは、どういう意味なの?」
私の言葉に、レオンは怪訝な顔をした。
「黒い羽の矢……?いや、俺は……」
彼は記憶をたどろうとするが、うまく思い出せないようだった。
私は、懐からあの黒薔薇の刺繍が施された布を取り出し、彼に見せた。
「あの夜、私たちを助けてくれた謎の人物が、これを残していったの。何か、思い出せない?」
レオンは、その布に刺繍された一輪の黒薔薇を、じっと見つめた。
そして、次の瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。忘れていた記憶の扉が、激しい音を立てて開かれたかのように。
「……思い出した」
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「俺たちが、まだ十歳にもならない頃だ。お前と二人で、屋敷の裏に広がる『静寂の森』へ、探検と偽って忍び込んだことがあったのを覚えているか?」
言われてみれば、そんなこともあったような気がする。幼い頃の、他愛ない冒険の一つ。
「あの時、俺たちは森の奥で道に迷った。日が暮れかけて、心細くなっていた時だ。……獰猛な、巨大な猪に遭遇した」
その言葉に、私の記憶も鮮明に蘇ってきた。そうだ、牙をむき出しにして、私たちに突進してきた、恐ろしい猪。もうダメだと思った、あの瞬間。
「絶体絶命だった。だが、その時、どこからともなく一本の矢が飛んできて、猪の眉間を正確に射抜いたんだ。俺たちを助けてくれた」
「……そんなことが……」
「その矢の羽が、カラスの羽のように、真っ黒だったんだ。茂みの奥に人影が見えたが、すぐに消えてしまった。俺は、森に住む謎の狩人が助けてくれたのだと、ずっと思っていた」
私たちは、森に忍び込んだことを大人に叱られるのが怖くて、猪のことは誰にも話さなかった。そして、幼かった私は、いつしかその恐怖の記憶に蓋をして、完全に忘れてしまっていたのだ。
私は、衝撃に言葉を失った。
あの謎の『黒薔薇』は、十年以上も前から、私のことを見ていた?
そして、一度ならず、二度までも、私の命を救ってくれたというの?
敵意がないことは、確かだろう。
だが、その目的は何なのか。なぜ、姿を現さないのか。
謎は解けるどころか、ますます深く、複雑になっていく。
「その『静寂の森』というのは、どのあたりなの?」
「屋敷の北側に広がっている、広大な森だ。古くからの言い伝えもあって、領民たちもよほどのことがないと足を踏み入れない、禁じられた場所だ」
静寂の森。
私は、全ての答えが、そこにあると確信した。
待っているだけでは、何も分からない。アンナの調査も行き詰まっている。ならば、私が動くしかない。
その夜、私は決意を固めた。
アンナに心配をかけないよう、彼女が眠りについたのを見計らって、私はクローゼットの奥から、動きやすい乗馬服に着替えた。
レオンは、まだ傷が癒えていない。父に言えば、危険だと止められるに決まっている。
一人で行くしかない。
「少し、昔の忘れ物を探しに行くだけよ」
誰に言うでもなくそう呟くと、私は月の光だけを頼りに、自室を抜け出した。
目指すは、馬小屋。そして、その先にある、謎に満ちた『静寂の森』。
たとえそこに、どんな危険が待っていようとも。
私はもう、真実から目を逸らさないと決めたのだから。
グランヴェル家の屋敷は、破壊された箇所の修復が急ピッチで進められ、使用人たちが慌ただしく行き交う中でも、嵐の前の、どこか張り詰めたような静けさを取り戻しつつあった。
ヴァリエール家からは、当主代行となったアルフォンス様の名で、今回の襲撃に関する丁重な謝罪と、多額の見舞金が届けられた。貴族社会の表面上は、これで一応の決着がついた形になる。
だが、私の心は、分厚い灰色の雲に覆われたまま、晴れることはなかった。
あの、黒薔薇の謎。
月夜の塀の上に現れた、あの謎の射手の姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。
私は毎日、医務室へ足を運び、レオンの看病を続けた。彼の傷は深く、まだ意識がはっきりしない時間も多かったが、侍医によれば、若い肉体と強靭な精神力のおかげで、驚異的な回復力を見せているとのことだった。
そんなある日、調査を命じていた侍女のアンナが、私の部屋へ報告にやって来た。
「お嬢様、お言付けの件ですが……」
アンナは、申し訳なさそうな顔で切り出した。
「王都中の名のある刺繍職人たちに、例の布を見せて回りました。ですが、これほど精巧で独特な刺繍に見覚えのある者は、誰一人としておりませんでした。ある老職人が言うには、これは王都の技法ではなく、もっと北の、森と共に暮らす民に伝わる特殊なものではないか、と……」
「森の民……」
「はい。そして、もう一件。イザベラという女の行方ですが、やはり全く掴めておりません。まるで、初めからこの世に存在しなかったかのように、全ての痕跡が消えております」
調査は、完全に行き詰まっていた。
手がかりが何一つないことに、私は焦りと無力感を覚えていた。
その日の午後も、私はレオンのベッドのそばで、静かに本を読んでいた。
ふと顔を上げると、レオンが、いつになくはっきりとした意識のある目で、私を見つめていることに気がついた。
「レオン!気がついたのね!」
「……ああ。もう、大丈夫だ」
まだ少し掠れていたが、その声には力が戻っていた。
私は、ずっと気になっていたことを、今こそ尋ねるべきだと決めた。
「レオン、あなたがうわ言で言っていたのを、聞いたわ。『黒い羽の矢を見たことがある』って。あれは、どういう意味なの?」
私の言葉に、レオンは怪訝な顔をした。
「黒い羽の矢……?いや、俺は……」
彼は記憶をたどろうとするが、うまく思い出せないようだった。
私は、懐からあの黒薔薇の刺繍が施された布を取り出し、彼に見せた。
「あの夜、私たちを助けてくれた謎の人物が、これを残していったの。何か、思い出せない?」
レオンは、その布に刺繍された一輪の黒薔薇を、じっと見つめた。
そして、次の瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。忘れていた記憶の扉が、激しい音を立てて開かれたかのように。
「……思い出した」
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「俺たちが、まだ十歳にもならない頃だ。お前と二人で、屋敷の裏に広がる『静寂の森』へ、探検と偽って忍び込んだことがあったのを覚えているか?」
言われてみれば、そんなこともあったような気がする。幼い頃の、他愛ない冒険の一つ。
「あの時、俺たちは森の奥で道に迷った。日が暮れかけて、心細くなっていた時だ。……獰猛な、巨大な猪に遭遇した」
その言葉に、私の記憶も鮮明に蘇ってきた。そうだ、牙をむき出しにして、私たちに突進してきた、恐ろしい猪。もうダメだと思った、あの瞬間。
「絶体絶命だった。だが、その時、どこからともなく一本の矢が飛んできて、猪の眉間を正確に射抜いたんだ。俺たちを助けてくれた」
「……そんなことが……」
「その矢の羽が、カラスの羽のように、真っ黒だったんだ。茂みの奥に人影が見えたが、すぐに消えてしまった。俺は、森に住む謎の狩人が助けてくれたのだと、ずっと思っていた」
私たちは、森に忍び込んだことを大人に叱られるのが怖くて、猪のことは誰にも話さなかった。そして、幼かった私は、いつしかその恐怖の記憶に蓋をして、完全に忘れてしまっていたのだ。
私は、衝撃に言葉を失った。
あの謎の『黒薔薇』は、十年以上も前から、私のことを見ていた?
そして、一度ならず、二度までも、私の命を救ってくれたというの?
敵意がないことは、確かだろう。
だが、その目的は何なのか。なぜ、姿を現さないのか。
謎は解けるどころか、ますます深く、複雑になっていく。
「その『静寂の森』というのは、どのあたりなの?」
「屋敷の北側に広がっている、広大な森だ。古くからの言い伝えもあって、領民たちもよほどのことがないと足を踏み入れない、禁じられた場所だ」
静寂の森。
私は、全ての答えが、そこにあると確信した。
待っているだけでは、何も分からない。アンナの調査も行き詰まっている。ならば、私が動くしかない。
その夜、私は決意を固めた。
アンナに心配をかけないよう、彼女が眠りについたのを見計らって、私はクローゼットの奥から、動きやすい乗馬服に着替えた。
レオンは、まだ傷が癒えていない。父に言えば、危険だと止められるに決まっている。
一人で行くしかない。
「少し、昔の忘れ物を探しに行くだけよ」
誰に言うでもなくそう呟くと、私は月の光だけを頼りに、自室を抜け出した。
目指すは、馬小屋。そして、その先にある、謎に満ちた『静寂の森』。
たとえそこに、どんな危険が待っていようとも。
私はもう、真実から目を逸らさないと決めたのだから。
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